世界、およびその構成内容は認識を介して観測されるのであり、観測者、つまり私から独立しては存在できない。

 考えてみると、僕がこの世界に来てからポリグラットの常識や風俗について主に判断基準としていたのはディミトリの振る舞いだけだった。

 この点には僕も落ち度があったかもしれない。ある国や文化を理解する上で特定の個人だけを参考にするというのはあまりにも偏ったやり方だからだ。

 そう思った僕は、この機会にポリグラットについてハクから話を聞くことにしたのだった。

「まずラナージュ神っていうのは、まぁ、ポリグラットで一番よく信仰されている神様だね」とハクは得意げに言った。「その昔は、皆ひとつの言語を話していたっていう神話があってさ。でも、互いに何を言っているか分かるから、悪口とかそういうのも分かっちゃうわけで、争いが絶えなかったと。だからラナージュ神っていうのがやってきて、言葉を完璧に分けちゃったんだってさ。これなら言い争いなんて起きないよね、ってことで」

 バベルの塔のような話かと思ったらちょっと違った。

「でも、そうして言葉が分かれて国が生まれたから、多様性という面では、人類は強くなった——なんてシューベルは言ってたかな。そこから、ラナージュ神を人類の見守ってくださる神様だと思って信仰する人が生まれて、って感じ」

「野暮な質問かもしれないけど」と前置きをしてから、僕は訊ねた。「その、ラナージュ神の他にも神様っているんですか?」

「まぁ、他の国にも独自の神様っていうのはあると思うよ。この子のいた場所にも、あるんじゃない?」

 ハクがそう言うので、シェラにも話を振ってみた。

「神様? いるよ。ウチの周りだと、ナイアラ様、っていうのがいて——その神様は、いつも身近な誰かの身体を借りて、近くで見守ってくれているの。ラナージュっていうのも聞いたことあるよ。ウチは別に、どっちを信じてるとかはないけどね」

 神様にも色々いる、というのは分かるような気がする。

 それは多分、僕が一度そういう存在に出会ったことがあるからだろう。

 僕がここに来るときに出会ったあの神格も、そのうちの一柱なのだろうか。

 いや、そもそも僕はあれを神様的な何かだと思っているだけで、神様なんかじゃないのかもしれないけれど。

「その、神様って例えば空とか別の世界とか、そういうところからここに来るんですか?」

「よく分からないけど、そうなんじゃないかなぁ」

「神様同士の上下関係みたいなのってあったりするんですか?」

「神話によってはあるけどね。例えば、あらゆる神様の根源たる存在、みたいなものを信仰している人もいるよ。ちょっとカルトっぽいけどね」

「それって?」

「さぁ? 名前を呼ぶのも避けた方が良いとかで、ボクも詳しくは聞いたことがないな。でも、その人たちが言うには、この世界はすべて、今言ったような神様も全部、その根源の見る夢なんだってさ。その根源は、いつか目を覚ます。そうすると夢の世界であるこのすべてが、ふっと消えちゃうんだって。それが世界の終わりであり、でもそれが神の復活であるから喜ばしいことで——みたいな感じ」

 その説明には何か既視感があったけれど、そのデジャヴの正体までは分からなかった。

「そういう話、前任の外交官が詳しかったんだけれどね」とハクが残念そうに言った。

 前任の外交官?

 そう言えば、シューベルも僕と出会ったとき、僕を『新しい外交官』と呼んだっけ。

「その人はどこに?」

「それが、行方不明で」

「行方不明?」

「そう。突然、ぱっと消えちゃったんだよね。思えばあの人も外国からやってきたって話だった気がするなぁ。見た目もちょっと異国風だったし。ちょっと色黒で、彫りが深くて鼻が高い、まぁ、いかにもハンサムって感じの男の人。何度か仕事をしているのを見たことがあるけれど、何年か前に、急にいなくなっちゃって。国中を探したんだけど、本当に見つからなくてさ。あれは何だったんだろう」そこでハクは難しい顔をして唸った。「それでしばらく、宣戦布告とかもできない状態が続いてさ。そういう意味では、いなくなって平和になったって言えなくもないんだけど」

 ハクはそこまで言ってから、ハッとした顔をして僕を見た。

「あぁいや、きみがいない方が良いって話ではなくて。ごめん」

「全然気にしてないですよ」

「本当? いやごめん、ちょっとアレだったね」

「いや本当に、全然全く気にしてないですから。気にしないでくださいね、本当に大丈夫ですから。いや本当の本当に、全然」

「それ絶対気にしてるやつだろ!」

「大丈夫ですって、本当にちょっとですから」

「ごめんて!」

 本当は本当に大丈夫だった。

 でも、何となくこの人、からかいがいがあるんだよな。

「ところでその、前任外交官の名前って何なんですか?」

「あぁ、えっと——確か、ペトーだったかな。ペトー・タルレイン、だったと思う」

 ペトー・タルレイン——と、声に出さず唇だけを動かして復唱したとき、隣でディミトリが「間もなくですよ」と言った。前方を見ると、巨大な壁、そして恐らくは砦か要塞か宮殿か、大きな建物も遙か彼方に見えている。

 あれがヴェンドヴルムか。

 確かに大帝国だ。

 ポリグラットも小国家ではないはずだが、ここと比べると勝ち目はかなり薄いだろう。

 準備として、荷台ではハクがシェラと自分を隠すようにして幌を荷台全体に被せて、ディミトリは少し馬のスピードを緩める。

「そう言えば、使者を乗せた早馬、ヴェンドヴルムから来るかと思ったけど、擦れ違いませんでしたね」

「念のため南門から入国しますから。ポリグラットとヴェンドヴルムなら、本当は北門から出入りするのが普通ですからね。ちょっと遠回りになりましたけど、時間に余裕があるなら、そっちの方が良いかと思いまして」

 ディミトリのこういう抜け目のないところは本当に心強い、と思っていると、後方で幌を軽く持ち上げて、準備を終えた軍服姿の人影が荷台から降り、速度を緩めている馬に近づいてきて前の座席、僕の隣に座った。

「これで大丈夫かなあ」

 僕は「まぁ、多分」とだけ言って、フードを目深に被りなおした。

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