往々にして才能ある者には義務や権利が付随するが、義務と権利に意味上の区別がない場合も屡々である。
ディミトリが必要なお金を立て替えてくれたこともあり、グラン将軍もサイラスもそれ以上シェラに固執する意味もなかったらしく、シェラと僕はすぐに解放されることになった。
「契約書などは私が用意しておきますから、安心してください。まだ少しやることがあるので、私のことは気にしないでくださいね」とディミトリは言い、それからシェラをちらりと見て続けた。「それよりも、レディのエスコートをお願いしますよ」
それでハッとして、僕は彼女の言葉でシェラに説明した。
「細かいことは後で説明するけど——とりあえず、命は助かったと思う」
それに対してシェラは、「そう」と短く言っただけだったが、さっきの泣き真似とは違う静かな嗚咽が聞こえた。
「とりあえず、こんなところは出よう。とりあえず店に——」いや、もう遅いし無理かな。誰かに送迎を頼めないだろうか。それともディミトリが馬車でここまで来ていてこれから帰るなら、ディミトリの用事というのが終わるまで待つか。「とにかく、まずはここを——」
——出よう、と言って少女に肩を貸しながら玉座に背を向けようとしたところで、
「待て」
と大総統の言葉が僕を遮った。
その反論を許さない圧倒的な言圧に、雷に打たれたみたいに身体が強ばる。
「——汝には、もうひとつ命令があると言ったはずだが」
そう言えばそうだったかもしれない。
「失礼致しました。どうぞ、何なりと」と、シェラに肩を貸したまま、改めて大総統を見上げる。大総統が軽く側近の兵に目配せをすると、その兵士は僕たちの方に近づいてきた。
そして目の前で立ち止まり、鎧の隙間から封筒を取り出した。
「——これは?」
「汝には部屋を与える。案内をさせる」
僕の質問には応えない大総統の言葉に続いて、封筒を取り出した兵士が部屋の出入り口に向かって歩き出した。着いてこい、ということなのだろうと思い、僕はシェラと一緒にその兵士の背中を追って、ようやく大総統の眼光から解放されたのだった。
兵士に案内された先は大総統府の中にある一室だった。兵士はどこで手に持ったのかいつの間にかランタンを手にしていて(そうだ、もうとっくに陽は落ちているのだ。大総統府の廊下は電球や蝋燭で照らされていた)、それの出力を強めて入口近くの壁に掛けた。すると薄暗かった部屋が照らされて、部屋全体が一眸できた。
それはさほど大きな部屋というわけではなかったが、流石は大総統府の一室ということで、その部屋は小綺麗ではあったし、元々は客室だったのだろうか、人ひとりが一泊しても困らない程度の家具は揃えてあった。
「ここが貴様の部屋になる。必要なものがあれば言え」と、兵士は言った。「デスクの上にも照明がある。これで足りなければそれを使え」
ここが僕の部屋に『なる』? なんだか引っかかる言い方だ。
「すみません、まだよく飲み込めていないんですけど、僕は一体……」
「封筒を渡しただろう。それを読めば分かる。まさか文字は分からないなどと言うまいな」
「あ、はい……」
「基本的な軍人としての権利は与えられているが、あまり好き勝手に出歩かれると困るので程ほどにな。必要以上の面倒を掛けないでくれ」
そう言って兵士は僕らを残して部屋の扉を閉めて、甲冑の足音が遠のいていった。
「——どうなってるの?」と先に言ったのはシェラだった。「急にこんな部屋に連れてこられてさ。助かったんじゃないの?」
「命は助かったはずだけど——」と僕は言い、手に持ったままだった封筒をちらりと見る。「まず、これを読まないと始まらないかな」
大総統から受け取ったその封筒を手に持ちつつ、窓に面したデスクに歩み寄った。窓の外はとっぷりと夜闇に包まれて、窓を開けて手を伸ばせば指先が消えてしまうのではないかと思うほどだ。デスクに添えられた椅子に座りながら兵士が言っていた卓上照明のスイッチを入れて、その光に封筒を入れ、封蝋ごと千切ってそれを開け、中身を見た。
中には書類が入っていて、そこにはこう書いてあった。
【大総統の名の下に、この者をポリグラットの第一級外交官に任ずる】
外交官?
僕が?
大総統に凄まれたときとは違う類いの、全身から血の気が引く感覚があった。
自分がとっくに死んでいたことに今さら気付いたみたいな気分だった。
「こ、これは——」
「どうしたの、ユウ」と、シェラが横から覗き込んできた。「何て書いてあるの?」
「——外交官に任命されたらしい」
「ガイコウカン?」
「つまり、今日きみと他の人たちの間に立ったみたいに、多分、他の国とのコミュニケーションの仲介役ってことだ。今日、きみとの間の通訳をやらされたのは、その試験でもあったんだ——」
そう言えば、結果如何でふたつめの命令をするかどうか決めると言っていた。僕は多分、合格してしまったのだ。
いや、失格していたら僕も死んでいたかもしれないが。
「え、どうするの?」
「断れるわけがない。急にこんなことを言われても、って感じだけど——」でも、今回のシェラとの通訳は少し事情が特殊だった。それで苦労したけど、普通に他の国との外交を取り持つくらいなら何とかなるかもしれない。本当に、ただ相手の言っていることを伝えるだけなら。「——やるしかないよ」
「もしかしてウチのせい?」
「いや、シェラのせいじゃない。まぁ、才能ある者はそれを価値に還元する義務を持つものだから、そう思えば——」
「それは義務というより権利だと思うし、それを拒否する権利もあると思うけどね……」
「できるだけ前向きに考えるなら、他の人では務まらない仕事を仰せつかったってことだから、やりがいも見つけられるかもしれない。それに、僕は言葉が好きだから」
もちろん、国家間のやり取りということになれば、言葉が分かるかどうかだけではなく、文化だとか宗教だとか価値観だとか、そういうものを踏まえて訳する言葉を選ぶ必要があるだろう。でも僕は、どちらかと言えばそういうことを楽しめるタイプの人間だ。
僕は言葉でできている。
それを、汝の価値として与える——。
あの神格は、そんなことを言っていたな。
「そう言えば、言わないといけないことがあったんだ」と、ふと思い出したようにしてシェラが言った。
「え、何?」
「えぇと、『ありがとう』」
それはポリグラット語だった。
僕には彼女の言葉が分かるから、わざわざポリグラット語で言わなくても分かるのに。
それは少し拙い発音だったかもしれないけれど、こんなにも気持ちがこもった『ありがとう』を言われたのは初めてだった。
思わずこっちが涙ぐむくらいだった。
「どうしたの、あれ、違った? ウチ、お礼を言ったつもりで——」
もしまた、こんな思いができるなら、この仕事も悪くない。
混乱するシェラに、僕は彼女の言葉で言った。
「大丈夫。合ってるよ。——そうだ、どういう話がまとまったのか、説明しておかないとね」と言いながら一度書類を封筒にしまおうとしたところで、封筒の中にもう一枚、別の紙が入っていることに気付いた。「え?」
不思議に思って封筒からその紙を取り出すと、それは指令書だった。
僕の初めての、外交官としてのお仕事だ。
「早速、仕事みたいだ」
「賢いと思われると大変だね」
シェラがそう軽口を言うのを笑って流して、指令書を読んでいく。
新任外交官には、まずヴェンドヴルム帝国に次の旨の書簡を送ることを命ずる。
我々ポリグラットは、ヴェンドヴルム帝国に宣戦を布告するものであること。
もしも僕がひとつの物語なら、僕の能力や美少女の登場、そして美少女の命を救ったことから、ここから僕の言語力無双(何だそれ?)が始まり、色んな人々と仲良くやって、人気者にもなっていく、みたいな話を想像したかもしれない。
あるいはまだ、『あらゆる言語を理解する能力を得た僕は、異世界で最高の翻訳家になって成功と名誉を手に入れることにしました 〜偶然に命を救った美少女と一緒にスローライフ〜』みたいな話になることを期待していた人もいるかもしれない。
申し訳ないが、この物語はどちらでもない。
これは、一介の翻訳家が国家戦争に巻き込まれるという物語だ。
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