長いものに巻かれるときには、ただし気道を確保せよ。

 その日はたまたまディミトリが商談か何かで外に出ていて、僕がひとりで店番をしていた。

 いつも通りの一日で、日が沈んで客足が遠のいたのを感じた頃に正面入口の札を『開店』から『仕入れ中』に裏返し、さてやりかけの翻訳でもやろうかな、と考えていたとき、背を向けていた入口の方からカランコロンと来客を告げる手製の鈴の音がした。

「あぁ、すみません、今日はそろそろ店仕舞いで。でも、お探しのものがお決まりならすぐ——」と言いながら振り返ると、そこには入口に立ったまま微動だにしない男の姿があった。男だというのは体格から分かっただけで、マフラーというかストールというか、そんな感じの布を顔の下半分に巻いていて顔はよく分からない。

「あの、何をお探しで?」

 僕の言葉に、しかし男は反応しなかった。ひょっとするとポリグラット語では駄目なのだろうか。だが、相手が何語を話すのか分からなければ、いくらどんな言語でも話せる僕でも会話はできない。これはこの授かった能力の弱点のようなものでもあった。相手が何語を話すか分かるまで、僕は相手の言葉で話すことができないのだ。

「えぇと、買い物、あれば、手伝います」

 一応、ポリグラット語でゆっくりと話してみる。全く分からないわけではない、ということもあるからだ。だがやはり男は動かない。これは困った。せめて一言でも発してくれれば、そこからならやりようがあるのだけど。

 話す気がないなら客でもないだろうということで、お引き取り願おうと思い、僕は入口の扉を開けて帰るように促すことにした。そして若干のばつの悪さを感じながら入口に近づいたところで——

「——!」

 男が自分の顔に巻いていた布を解き、それを僕の頭に巻いた。もちろんそれは試着をさせてくれたというような優しいものではなく、明らかに僕の目と口を封じるためのやり方だった。

 気付いたときには視界も声も奪われて、突然のことで混乱しているそんな僕の両手首を、男は何処かに隠し持っていたらしい縄で縛った。もうこうなっては手も足も出ない(文字通り、だ。面白くもない)。次の瞬間には店の表から急ブレーキの音がして、それに続いてまるで全力疾走した馬が喘ぐようなテンポの蒸気機関のエンジン音が聞こえてきた。


 これはまずい。

 本当にまずい。


 だがもう僕にはどうすることもできない。僕は客だと思っていた男とその仲間と思われる何者かに担がれるようにして蒸気自動車に乗せられ、そのまま人通りが疎らになりつつある通りから連れ去られてしまった。


 これは例の国家転覆を企むという奴らか?

 僕が彼らの言葉を理解しているとバレてしまったのか?

 店番でのやり取り、あまりにも察しが良すぎたか?


 そんなことを考えているうちに車はディミトリ・トレードからどんどん離れていく。これひょっとするとひとけの無い山奥でひっそりと殺されるパターンだろうか。せっかく上手くいきかけていたのに? せめて何か一言でも話してくれたら交渉だってできるのに。

 あ、無理か。今は布を巻かれて声も出せないんだった。

 もうだめだ。混乱しすぎて何も頭が回らない。


 死を覚悟しながら自動車に揺られること一時間くらいして、どうやら目的に着いたらしい。バカン、という小気味良い音と一緒に扉が開いたかと思うと、僕は腕を掴まれて車を引き下ろされた。足を結ばれていないということは、自分で歩けということなのかもしれない。背中を手の平でぐいと押されたので、とりあえず一歩前に踏み出してみる。てっきり山奥にでも連れてこられたと思っていたので腐葉土のような柔らかい感触を期待したが、靴越しに感じたのは石畳の、しかもかなり目の細かいものの感覚だった。それに驚いて立ち止まったのを、また後ろからぐいと押される。

 そのまま押し出されるようにして一歩ずつ歩いていくと、目の前でガチャ、という音がしてまた扉が開く感じがした。

「ご苦労、もう戻れ」

 意外なことに、それはポリグラット語だった。

 それに対して、ずっと僕の後ろにいたらしい男が、「はい」と応えた。


 どういうことだ?

 僕を誘拐したのはターミナルのテロリストじゃないのか?


 どうやらここからは別人が僕を受け継ぐらしい。ひょっとして拷問か? 担当者が違う? 嫌な予感ばかりする。いや、僕は本当に何も知らない一般人なのだから、拷問なんてしても無駄なのだ。そのことが分かったら解放してくれたりしないだろうか。

 そのまま続けてどうやら狭い通路を歩かされ、多分、また扉を潜った先で、今度は足元が柔らかくなった。とは言えそれは腐葉土のそれではなく、絨毯のような——。

「止まれ」

 恐らく絨毯の上をしばらく歩いたところで、背後からさっきと同じ男の声がした。

 混乱する僕をよそに、男は僕の顔にぐるぐる巻きになっていた布を解いた。一瞬だけ視界がぼやけながら明るくなって、足元から見ると赤い絨毯が敷かれていた。やはり屋内なのか——などと、手首の縄も解かれながら僕は考えていた。

「楽にして良い。殺すわけでもない」

 腹の奥の奥、光が届かない内臓のその最奥から空気を震わせながら威厳と共に発せられたような、おぞましく響く声が前の方から聞こえた。

 それに合わせて恐る恐る顔を上げる。


 立派な椅子に座って皺だらけの顔の表情筋だけで嗤いながらこちらを見る、この国のトップ、レジナルド・キングワース大総統の姿がそこにあった。

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