金で信用を買うのではなく、信用で金を買え。
馬車に揺られて日が暮れそうになった頃、彼方に高い壁のようなものが見えてきた。
「あれがポリグラットです。見覚えは?」
ディミトリに分けてもらったパン(この世界の食糧事情は元の世界とそれほど変わらなそうだった)の最後のひとかけらを口に入れながら、
「あるような、ないような」
と僕は応えた。見覚えなどあるわけがないが、何も覚えていないというのも不自然な気がしたので曖昧にしておいた。
「ポリグラットは——戦争中でしたっけ?」
「いえ、まだ戦争は始まっていません。しかし、キングワース大総統の采配ひとつで、いつ始まってもおかしくない緊張状態ですね。まあ、軍力だけであそこまで外壁と領地を拡大してきた国ですから、これからもそうやっていくつもりなのかもしれませんけど。でも、そろそろ痛い目を見るような気がするんですよね——と、これはオフレコでお願いしますよ」
オフレコという言い方はあるのか。共通して使える慣用句もあるらしい。
ディミトリと話す中で気付いたが、言葉がどういう単語なのかは分かっても、それが具体的にどういうことを意味するのか、というところまではズレていることもあるようだ。
でもこれは、例えば『腹の虫が治まらない』と言うときに腹に実際に虫がいるわけではない、というようなことだろう。『怒りを抑えがたい』ということと『腹の虫が治まらない』という言葉が結びついていないと、それを実際に使ったり理解したりすることはできないわけだ。これは覚えていくしかない。
そんなことを考えていると、いつの間にか馬車は外壁のすぐ手前まで来ていた。外壁には門があって、その手前には小屋もある。門番のような仕事だろうか。
「ディミトリ、今日は随分早いな。俺が遅番だったらどうするつもりだった?」
小屋から鉄の板を貼り付けただけのような鎧を着た男が出てきて、ディミトリに笑いかけた。
「そのときはその辺で少し時間を潰しますよ。そうなったら売り物の酒がひとつ少なくなるところだったから、請求書を書かないといけなかった」
「俺は自分が飲む酒しか払わねえ。本当はそれだって払いたくねえんだ」
「こうして臨時収入があるのだから、そう文句ばかり言わず仕事をしましょうよ」
そう言いながらディミトリがポケットから小銭のようなものを取り出し、何枚か数えて門番らしい男に手渡した。門番の男はそれを数えてから握りしめ、小屋の中に入っていく。少しすると門が開き、僕らは馬車ごと中に入れるようになった。
門が開ききってから門番は小屋から出てきて、さっきまでの軽薄な口調とは異なり、いかにも事務的な声色でこう言った。
「荷物にも異常なしを確認。どうぞ、善良なる市民。ラナージュ神の縁繋ぎがありますことを」
ディミトリは軽く会釈して、僕らは馬車ごと巨大な門を潜った。
門を潜ると急に空気が変わったような気がした。何処かから料理をする匂いがする気もするし、漠然と人の匂いのようなものを感じる気もする。何となく煙たい気もしたが、それは蒸気自動車が走っていたからだった。
「馬だけじゃないんですね、乗り物」
「それは、まあ。でも馬の方が荷物を降ろしたときの速さがありますし、蒸気自動車は燃料補給が面倒ですから、旅に出るなら馬車ですよ。新技術ですから商品としては良いですがね」と言ってから、ディミトリは次のように切り出した。「さて、私は一度自分の店に戻りますが、ユウはどうします?」
「行くところもないので、とりあえず着いていっても?」
「……本音を言うと、ラナージュ神の縁繋ぎですし、お力になりたいのは山々なのですが」と言いながら、ディミトリはまた唇を摘まんだ。「私もこれからやることがありまして。商品が道中で痛んでいないかの確認などね。どこかで、ユウの力になってくれそうな人を探して、そこで降ろすというのでは?」
「構いませんよ、あなたにお小遣いをあげるくらい懇意にしている門番がいることについて、他の人の話も聞きたいですしね」
「——いや、やっぱり、ほら、『ひとりで刻む轍よりもふたりで刻む轍の方が深い』と言いますし、最後までお力になりますよ」
初めて聞く言葉だったが、多分、長い時間を一緒に過ごせば、それなりに絆も強まる、というようなことだろう。知らないけど。
ディミトリが構える店というのは、周囲の家々と比べてもそれなりに大きく、しっかりとした作りのものであるように思えた。今は細々とやっているが昔は羽振りが良かったという話は誇張ではなかったのかもしれない。
夕方ということもあって門を通ってからここまでの道に人通りは多くはなかったが、表通りは石畳が敷かれていたし、行き来する人たちにも生活に困窮しているような様子はない。ディミトリ・トレードという看板がそんな表通りに大きく掲げられているが、入口には初めて見る文字が書かれたプレートが下げられていた。とは言え、僕にはそれが『仕入れ中』という意味であると分かったけれど。
馬車はそんな正面入口からぐるりと回って、店の裏手につけられた。そこで僕らは馬車を降りて半日ぶりに地面を踏む。裏通りまでは石畳は敷かれていないらしい。
「それで、これからどうするのです?」と、ディミトリは言った。「私にどうしろと?」
「脅すつもりはないんです。でも、分からないことが多いから」僕はできるだけ立場を崩さないよう、ディミトリに向き合い、少し声量を落として言った。「まず、さっき門番に何かを渡していましたよね。あれは?」
「憲兵の目で見られては困る商品があるってことですよ」と、ディミトリは馬車の荷台を軽く叩いた。「言っておきますけど、他の国ではほとんど合法ですからね。ポリグラットが厳しすぎるだけで」
「具体的には?」
「ポリグラットが軍事国家で戦争が近いというのはもうご存知かと思いますが、そうなると、外国から仕入れるものにも検閲が掛かるわけです。例えば外国語で書かれた小説に見える本が、実はこの国に潜むスパイへの任務実行の合図になっているかもしれません」
「そんなことがあるんですか?」
「私の経験や知識で言えば、そんなことはありませんでした。でも、そういうことがあり得るというだけで、検閲の充分な理由になるのです。『猜疑心はあらゆる悪事の許可証になる』と言うでしょう」
知らないよ。
「そういう、検閲では没収されかねないものを商品として扱うのが、このディミトリ・トレードというわけですか」
「もちろん表向きは、もっと安全なものを売ってますよ。服とか、さっきあなたが食べたパンとかね。でも、こういうものを欲しがる方もいるのです」
「そしてそういう人のお陰で成り立っている仕事でもある、というわけですか?」
「何を言っているんです。すべてはラナージュ神の縁繋ぎです」と、唇を摘まむディミトリ。「お客様に優劣なんてありませんよ」
「ありがとうございます。ご事情、理解しました。別にこのことを公言しようとも思いません。むしろ、僕にもそういう本を読ませて欲しいくらいです」
「外国語が分かるのですか? そんなにお若いのに?」
「いや、分からないですけど」
分からないというのは『読めるかどうかは分からない』ということだったが、ディミトリは別の意味で解釈したみたいだった。
「では、これから勉強を? まあ、若いうちに勉強すれば、いくらか読めるようにはなるでしょうけれど……。珍しいですね」
「……あと、もうひとつ聞きたいことがあるんですけど、何か僕にできる仕事はないでしょうか」
さっきのディミトリと門番のやり取りからして、この国には通貨が存在することは間違いない。それにディミトリが取り出した小銭には、少なくとも金貨、銀貨、銅貨の三種類があった。つまり、ポリグラットにはその通貨をベースとした経済システムがあるはずだ。ともすれば、その通貨を得るための手段が必要だと、僕は思った。
「まぁ、店番をしてくれるなら、衣食住を少し用立てするくらいはできますけれど……」
「それで結構です。まずはそこから、そのうち何かできそうな仕事があれば教えてください。空いた時間で、外国の本を翻訳するとか、やりますよ」
「ははは、もしそんなことができるなら凄いことですけれどね。難しいと思いますよ。ポリグラット語とそれ以外の国の言葉では、違いがありすぎる。場合によっては文字から全く違うのですから」
「やってみないと分かりませんよ」
「まぁ、そういう挑戦は若いうちの特権と言えばそうですね」と言って、ディミトリは荷台をのぞき込み、たまたま崩れて手前にあった本をひとつ手に取った。「例えばこれは、ヴェンドヴルム帝国で流行っている小説です。ある男女の悲恋を描いたものということですが、この厚みですから、人生を掛けて読むような一冊ですね」
ディミトリから手渡された本の表紙を確認する。
「……『ある男女の悲恋』」
「そうです。タイトルだって一瞥しただけでは——」
「——というタイトルですね」
「は?」
「内容は——」と、ぱらぱらとページを捲ってみる。期待と予想と半々だったが、やはり間違いなかった。「——あぁ、分かります。これは流行る」
「え?」
「流石に翻訳を書き写すのには時間が掛かると思いますけど、やりますよ。その方が売れますよね、多分。やっぱり。皆自分の言葉で読めた方が楽ですし。読みたい人は、その、ヴェンドヴルム語? のまま読むって人もいると思いますけど」
「ん?」
「仮にそれをやって本が売れたら、その売り上げの一部、僕にもらえませんか? 契約書を作ってもらっても——あ、契約書って、あります?」
本当のことを言えば、まだ必ずしもそうではないかもしれないけれど、僕にはほぼ確信があった。異世界にやってきた僕に授けられたのは、ポリグラット語を理解する能力だけではないのだ。
多分僕は、この世界のすべての言葉を理解できるはずだ。
それが名前の代わりに得た、僕の能力なのだ。
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