友人を得ることは世界を拡張することであり、友人を選ぶことは世界を選ぶことである。

 紳士が少し奥に詰めて僕が隣に乗って、紳士が少し手綱をしならすとまた馬が歩き始めた。歩みに合わせて前からは蹄の軽快な音、後ろからは、積荷だろうか、ガチャンガチャンという音が聞こえる。

「それにしてもたまたま通りかかって良かった。今日は本当に、偶然、商談が早く済んだのです。いつもならここを通るのは暗くなってからだし、そうなっていたら気付けなかったかもしれない」

 と、偶然に出会った紳士は言った。それは本当に運が良かったと言うほかない。

 ——待ってくれ、やっぱり何か変だ。

「不幸中の幸いでした」

「不幸の中の幸せ? 面白いことを言いますね」

 やっぱりだ。でも、念のため——。

「すみません、まだ混乱しているのかも。僕の言葉、何か変なところはないですか?」

「発音やイントネーションは、全く気にならないですよ。ポリグラット語のネイティブなのでは?」

「どうでしょう。でも、そう聞こえるならそうだったかもしれません。そのうち、思い出すでしょう」

 間違いなかった。


 僕が今話しているのは、日本語ではないのだ。


 正確には、僕は日本語のように相手の言葉を理解しているし、僕は日本語のように相手の言葉を話している。ほとんど感覚としては日本語を話している感じだ。だが、確かな感覚がある。僕が話しているのは日本語ではないという、確かな感覚が。

 知らないはずの、聞いたこともない言語を、僕は今、完全に理解していた。

「とにかく、人のいるところに行ってできることをやるしかありません。犬も歩けば棒に当たるって言いますしね」

「そんなの初めて聞きましたよ。棒に当たるような犬は散歩させられないでしょう」と紳士は笑った。

 やはりそうだ。僕は、シームレスに日本語とこの紳士の言葉——ポリグラット語を切り替えて話しているのだ。多分、もっと意識すれば『日本語で』話すこともできると思う。だが僕の中で、ほぼこの言葉の切り替えは自動的に行われていた。

 異世界に転生すると、その者は何らかの特別な能力を得る——そんな物語がいくつもあったなあ、と思い出す。僕もそのひとりになったのだろうか。そして僕が得た能力は、『相手と同じ言葉を話せる能力』ということか?


 そんなもの、デフォルトで寄越して欲しい。


 だいたいの異世界転生モノはそうじゃないか。全く知らない場所に放り出されても、主人公はすぐにその現地の言葉を話せるものだ。その上で何か、凄い能力を——。

「ディミトリです」と、紳士が言った。

「え?」

「私の名前です。ディミトリ・イヴァノフ。商人をやっています。隣国からものを仕入れて、それを自国で売る。昔は結構、これで儲けたものですよ。まあ、最近のポリグラットは大総統の気分次第でいつ戦争を始めてもおかしくないくらいですから、近頃は細々とやらせてもらってますけどね」

 そこで自虐的に笑いつつ、また指先で唇を摘まんで、ディミトリは「あなたは?」と言った。

「僕——ですか?」

 あれ?

 何だっけ。

「……名前は……えっと……」

「もしかしてそれも?」

 悪漢に襲われて記憶喪失、というのは嘘のはずだったが、何故か僕は自分の名前を思い出せなかった。確か、そんなに特別な名前じゃなかったはずだけれど——。

 そう言えば、あの転送呪文の中に『名を捧げよ』みたいな一節があったな。『捧げる』というのは、差し出すという意味だ。ひょっとして、僕の名前は——。

「とられた?」

「え? 他にも何かなくした物が?」

「あ、いや——」

「——しかし命までは取られなかったわけですからね。ラナージュ神の縁繋ぎ、ですね」

 それは多分、『神様の思し召し』のような意味だったのだろう。僕はさっきディミトリがしたように唇を指先で摘まんだ。

「それにしても、名前が分からないとなると、素性を思い出すのも苦労しそうですね」

「それに、他人に名前を呼んでももらえませんしね。それは少し、淋しいかもしれない」

「とりあえず、あなたが自分で決めては?」

「僕が自分で?」

「それはとても贅沢なことですよ。多くの人は、与えられた名前で生きるしかないのですから。自分で自分に名前を与えるなんて、凄く贅沢なことだし、素敵なことだ」

 それはまるで、自分で生き方を決めるような決意ですよと、ディミトリは言った。

 そうか、僕の人生は、ここから始まるのか。

「——じゃあ、ユウ、と名乗ります」

「ユウ? どうして? どういう意味が?」

「ある国の言葉で『あなた』という意味——だそうです。誰かに呼んでもらうなら、それでも良いかと思って」

 なるほど、とディミトリは笑った。まだ話して間も無いが、ディミトリは含み笑いをする癖があるらしい。ちょっとそれが皮肉っぽく感じさせる感もある気がしたが、僕はもう、この名前を気に入っていた。

「良いでしょう?」

「えぇ、まあ、どうでも。私の名前じゃないですしね」

 僕は、軽くディミトリを肘で突いた。

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