場面設定の第一章
経験を得るには生きている必要があるので、私たちは比喩的意味でない死を経験することはできない。
意識が覚醒したとき、まず感じたのは光、最初に目に映ったのは青空だった。次に感じたのが草の匂いで、それから柔らかくも輪郭を切り取っていくような風を肌に感じた。
上半身を起こすと、そこは何かの絵になっていてもおかしくないくらいの綺麗な草原だった。僕は小高い丘の上に倒れていたようだが、どれくらい倒れていたかは分からない。でも、腹の空き具合からするとそんなに長く倒れてはいなかったのではないか。
不思議と、見知らぬ場所に来てしまったという焦燥はなかった。いや、全くないわけではない。頭の奥底、心臓のさらにその核には『ヤバい』という感覚が確かにあるのだが、それよりも表層の冷静さがかき消しているような感じだ。午前中に待ち合わせをしたのに午後に目を覚ましてしまった、というようなときの、『絶対間に合わないし、もう僕がいなくても皆上手くやってるだろう』というときの、あの逆に冷静になってしまう感じがあった。慌てようとすれば慌てられるけれど、そうしようとしなければ身体がしんと冷えているような。多分、『もうどうにもならない』と、理性がはっきりと理解していたからだろう。
少しだけ、数分か数時間か、ちょっと前まで自分がいた世界のことを考えた。まぁ、大学で顔を合わせれば挨拶をする程度の知り合いはいたかもしれない。彼らは僕がいなくなったことに気付くだろうか。両親は僕がいなくなったらどう思うだろう。そもそも僕は元の世界からいなくなったのかもわからない。ひょっとして僕のドッペルゲンガーがそのまま元の世界で残りの人生を謳歌する、ということもあり得るかもしれない。
だが、考えても分からないことだ。今の僕にはどうしようもない。死んだ後の僕をどれだけの人が悲しんでくれるだろうか、と生きているうちに心配するのと同じだ。そこにその他者の悲哀を眺める僕の姿はないのだ。
そうだ、元の世界の僕は死んだということにしよう。それくらいの気持ちの切り替えがなければこの後どうしたら良いか分からない。もし戻れる機会のようなものがあれば、そのときに戻りたかったら戻れば良い。
「——とすると」
意識的に自分で声を出してみた。特に違和感はない。怪我をしているということもなさそうだ。立ち上がって景色を見下ろすと、草が生えず整備された様子の道が一筋、彼方の地平線の向こうから此方の地平線の向こうまで続いていた。それをのんびりと進む馬車がひとつ。少し考えたが、こんなところで夜を待つわけにもいかないし、辺りに集落や街らしいものもないので、とりあえずあの馬車を捕まえて話をしてみるしかない。盗賊とかそういう類いの人たちじゃなければ良いけれど。
馬車が向かう先に丘を降りていって、目の前に飛び出すように声を出してみる。
「すみません、おーい、聞こえますか?」
そう言ってから、そう言えば日本語は通じるのだろうか、と今さらながらに思った。馬が止まってくれたので手綱を引くその人物に目を遣ると、スリーピースのスーツを着た、多分三十か四十代くらいの紳士だった。だが見た目はどう見ても日本人ではない。コーカサス系か? 英語なら通じるだろうか。話す方はそんなに得意じゃないけれど——。
「どうしたのです、こんなところで」
僕の心配を余所に、その紳士は流暢な日本語で答えた。
——いや、今のは——?
「あぁ良かった、言葉が通じて。あの、僕——」
——日本っていう場所からやってきて、と説明したところで面倒そうだ。
「——この辺りで悪漢か何かに襲われたみたいで。旅をしていたのですが、持ち物も取られちゃって、殴られたせいか記憶もなくて……とりあえず人里に行きたいのですが、どっちに行けば良いですか?」
「何ですって。どうぞ、隣に乗ってください。これからポリグラットに向かうところなのですが、それでも良ければご一緒しましょう。丁度、仕入れが終わって帰るところなのです」
ポリグラットだって? 全く知らない土地の名前が出てきてしまった。僕が無知なだけで地球に存在する地域だったらどんなに楽だろう。
「ありがとうございます。助かります」
「いえ、これもラナージュ神のお導きでしょう。私もちょうど、話し相手が欲しいと思っていたところです。ひとつの言葉の元に集いし我らに、どうか絶え間ない祝福を」
全く知らない神様の名前をつげ、紳士は人差し指と親指で唇を縦に摘まむような仕草をした。祈りの仕草なのだろうか。どうやらここが地球で、たまたま遠くに飛ばされただけ、という可能性は早々に捨てた方が良さそうだ。
ラナージュ神とやらが何かも分からなかったし、紳士の仕草の意味も分からなかったが、とりあえず同じように唇を摘まんでみた。紳士はその僕の様子を見て微笑んだので、とりあえず間違っていなかったらしい。それに、話しかける相手を間違えたということも、どうやらなさそうだ。神に祈りを捧げるような人なら、きっと荒くれ者の類いということはないだろう。多分。
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