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@do1635

恐らく不要の前日譚

マクガフィンに多少の意味を持たせることは傑作の条件のひとつである。

 ネクロノミコン——という書物をご存知だろうか。


 とある神話体系の中で重要な書物として位置づけられているこの本は人間の皮で製本されており、あらゆる禁忌の魔術が載っていると言われている。

 いや、心配には及ばない。ネクロノミコンがどんなものかなど、全く知らなくても全くこの物語を読むのに支障はない。言ってみれば、これはただのマクガフィンに過ぎない。

 ここで重要なのは、そういう魔術書があり、それは現実のものではない、およそフィクションの産物であるということだけである。

 何故なら、僕はそのネクロノミコンを解読し、読んでしまった——というのがこの物語の始まりだからだ。

 そんなことを大真面目に言ったなら、ネクロノミコンを知っている人は僕を憐れみの目で見るか、嘲笑を向けるだろう。ゲームのやり過ぎで頭が可笑しくなったんじゃないか、ついに現実と空想の区別が付かなくなったのか、なんて言われても仕方ない。

 断じて言うが、僕は現実と空想の区別が付いている。むしろ自己評価ではリアリスト気味ですらある。

 その僕が言う。

 この僕は、ネクロノミコンを読み、異世界に飛ばされた。

 そうだ、これが小説のようなものなら、物語において僕が異世界に飛ばされる理由になるなら、それがトラックだろうとトラクターだろうと異世界召喚だろうと、本当は何でも良かったのだろう。そういう意味でのマクガフィンだ。

 だから本当は、『僕は突然、訳も分からず異世界に飛ばされた』から書き出しても良かったのかもしれない。


 いや、流石にそれは乱暴か。

 もう少し前から振り返ろう。


 友人と言える友人も作らず(作れず、ではない——と強がっておきたい)、それを誤魔化すように勉強して、まあまあの大学に入学して、そこからは友人関係に突然恵まれる、というようなことがあるはずもなく、三年、言語の研究に没頭する毎日だった。ドラマや小説で見るような俗に言うキャンパスライフではなかったものの、元々言葉が好きだったし、その成り立ちも好きだったし、本を読むのも好きだったのだから、言語学という科目が現代日本にあったのはまさに僥倖だったと思うし、だから僕はずっと言語の研究をして、それで満足していた。

 趣味と言えば、そうした研究の合間に気になった古書を買い集めて翻訳をしてみるということだった。マイナーな言語を訳してみることもあったし、英語くらいポピュラーなものを訳してみることもあった。これがなかなか刺激的で楽しかった。

 そんな毎日の中で、どこで買ったのかも覚えていなかったがいつの間にか本棚に紛れ込んでいた古書があった。肌触りが何となく他と違うように思われたその本こそ、ネクロノミコンだったのだ。僕はそれを翻訳するという愚を犯した。

 いや迂闊だったと言えばその通りだが、そもそも僕だって「よくできた設定の本だな」程度にしか思っていなかったのだ。ネクロノミコンと言えば、有名すぎて色々なパロディもあるものだから、何処かの熱心なファンが作ったレプリカ程度のものだろうと思っていた。むしろそのレプリカだというネタばらしを探して翻訳していた節すらある。

 しかし、僕がネクロノミコンの翻訳に取りかかって最初に解読できたのは「この本はパロディです」というものではなく、『転送魔法』と書かれたものだった。それが随分よくできた内容だった。

 ほんの少し集めるのに苦労する材料を集めて、魔方陣を書いて、特定の日時、星辰が正しい位置を示すとき、己の名を捧げよ、さすれば汝の在るべき場所へ、大いなる神格が招いてくださる。

 いや実によくできている。ここまでやってくれるなら最後まで騙されてやろうと思い、その転送魔法の儀式を準備して実行したのが運の尽きだったのだろう。「騙されたと思って」という枕詞があるが、「騙されてやろう」と思って「騙してもらえなかった」という経験は初めてだった。

 気付くと僕は、光に包まれて、いや闇に落とされて——あるいはその両方か、その辺りのことは上手く言葉にできない。


 ネクロノミコンを理解した人間は発狂するという。


 それはネクロノミコンという書物について僕が知る『設定』だったが、こうしてネクロノミコンが現実のものだとするなら、ひょっとすると、その魔法とやらを試してみようと思った時点で既に正気ではないのかもしれなかった。

 転送魔法とやらに巻き込まれた僕の頭に、多分宇宙の彼方から声がした。


 何処へ?


 いや、それは声ではなかった。頭の中で自分の思考が誰かの思考で上書きされるような、そういう感覚だったと思う。だから正確には、それは言葉ですらなかった。そしてそれを難なく受け入れた辺り、やはりネクロノミコンを読んでいた時点で、僕はとっくに正気ではなかったのかもしれない。


 何処へとも分からない、と僕は応えた。


 汝は何を以て汝足るか?


 また言葉があった。僕が僕である条件? 自分らしさのことだろうか。何かひとつ挙げるとすれば、それは多分——。


 僕は、言葉でできている。


 その応えに、彼方から声がまた、脳内に直接やってくる。


 それを汝の価値として与える。刹那の無聊への慰み、その返礼である。


 暇潰しの相手をありがとう、ってことか。


 神様は神様で大変なんだな。こんなところでひとりなんて。


 正気じゃないね。

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