第32話
極度の疲労の後には、再び緊張する時間が待っていた。
俺の部屋に戻った
今回は一緒に来たわけではなく、俺だけ先に部屋に戻っていた。待っている時間は心を落ち着かせる役には立たず、緊張は増すばかりだった。
先に分析を進めるほどの時間もなく、ゲームをする気にもならなくて、静かに正座して待っていた。何をしてるんだ俺は。
「あれ?」
俺は思わず首を
「奥の部屋を借りてもいい?」
「え? ああ……」
よく考えずに答えた後で、俺はその言葉の意味を理解した。奥って、寝室だよな。まさか寝るわけじゃなし、借りて何するんだ?
正解はすぐに判明した。閉じた扉の奥から、布が
「なんでここで着替えるんだよ!?」
「なに? 聞こえなかった」
「待て待てドアを開けるな!」
開かれつつある
「下着ぐらいもう見たでしょう」
「映像と生では全然違う……じゃなくて思い出させるなよ!」
平然と言われて、俺は頭を抱えた。自分で言うかこいつは……。話題に出るたびに赤くなっていた秋月はどこへ行ってしまったのか。
素数を数えて落ち着こうと試みたが、十個もいかないうちに分からなくなった。聴覚に全神経を集中してるんだから当然の結果だ。耳を塞ぐほどには俺の理性は強くない。一歩も動かなかっただけ褒めてほしい。
拷問のようなご褒美のような時間が過ぎたあと、秋月は寝室から出てきた。その格好を見て、ここで着替えた理由はよく分かった。分かったのだが……。
「い、いつもの服でよかっただろ……」
動揺して声が
「汚れたら困るでしょう」
まあそうだな。理に
秋月はエプロンを着けると、キッチンに立った。
俺は先ほど発見した真実を、改めて確認した。つまり、自分の部屋で女子が料理を作る姿を見るのは、とてもヤバい。何がヤバいって、
野菜を洗ったり、切ったりするところを、俺はぼんやりと眺めていた。秋月は料理し慣れているらしく、手際はいい。ただそこまで得意だというわけでもないようで、切るのはあまり速くなかったし、ちょっと不揃いだ。
要するに、秋月の料理スキルはごく標準的なのだろう。苦手ではなくてほっとしたのは当然だが、すごく上手だというわけではなかったことに対しても、俺は嬉しかったようだ。理由はよく分からない。
さすがにしばらく時間がかかりそうだったので、俺は部長にもらったデータを見ておくことにした。結構な人数の
データは部長の手によって、目的に応じて加工されたものを渡された。部長は他人に協力を要請することも多く、
部長
いろいろと眺めているうちに、料理の方は一段落したようだった。後は煮込むだけということで、こっちを手伝ってもらうことにした。
夕方と同じく横に並んで作業したのだが、難易度は更に上がっていた。もちろん作業のことではなく、横に並ぶ難易度だ。
だって服が緩いんだよ……危険だから前屈みにならないでくれ……。
十五分ほどして、食事に移ることにした。レトルトご飯をレンジで温めているうちに(さすがに炊飯器を持ってきてもらうのは気が引けた)、秋月が冷蔵庫の中から見知らぬ容器を取り出した。麦茶でも入ってそうな見た目だが、中身は水のようだ。
「浄水ポット」
俺の視線に気づいたのか、秋月が端的に答えた。
「どうぞ」
「ありがとう」
コップに入った水と、それから完成したカレーライスを受け取る。今までは緊張に覆い隠されていたらしい空腹が、急に顔を出してきた。
いただきます、と二人で言って、スプーンを口に運ぶ。おお、カレーだ。ずいぶん久々に食べたような気がして、俺は少し感動した。うまい。
いや、高校に入ってから外で食べたことはあったのだが、家で作るのとは別の食べ物に感じた。あれはあれでうまかったが、やっぱりカレーと言えばこれだな。
しかし、実家のものともまた味が違う気がするな。材料は同じはずなのだが、何が違うんだろう。こっちの方があっさりしてるのに食べ応えはあるというか……。
「おいしくなかった?」
秋月の
「いや、そうじゃない。実家のカレーとは違うなと思っただけだ。具が多いのかな、分からないが……」
俺はしどろもどろで答えた。秋月は少し首を
「野菜の形が残っているから? 煮込む時間が短かったかも」
「あー、確かにそうかもな」
なるほど、実家ではじゃがいももタマネギも崩れてかけていた気がする。好みの問題だろうが、このカレーを食べたあとだと頼りなかったように思える。俺はわりと野菜好きな方だからな。
と思っていたのだが、秋月の表情は再び曇っていた。
「ごめんなさい、もう少し時間をかければよかった」
「いや、俺はこっちの方が好きだぞ。すごく美味しかった」
俺は慌てて言った。よく考えると、今の今まで味の感想を伝えていなかった。作った側としては、不安になって当然だろう。まったくこのコミュ障は……。
「……ほんと?」
「ああ、本当だ」
力強く頷くと、秋月はようやく安心したようだった。口元にかすかに笑みを浮かべる。俺はほっとした。
その後は、部長から貰ったデータの話に映った。ここからどうやって、
後片付けも終えて(手伝いは
一度休憩しようということになって、秋月が買ってきたコーラをいれてくれた。疲れた頭と体が、
気を抜きながらふと時計を見ると……げ、もう九時じゃん。女子と二人でいていい時間じゃない。うちの寮は実質アパートなのでルールも何もないが、そういう問題ではない。
俺はおずおずと口を開いた。
「なあ、さすがに遅いし
秋月を説得するなんて俺には不可能なので、仕方なく作業を続けた。さすがにもう少ししたら帰るだろう。
そう思っていたのだが、気がつけばさらに一時間以上が過ぎていた。うーむ、これは強制的にでも追い出すべきか……と覚悟を決めつつあったその時、
「ねえ」
妙に甘えるような声で、秋月は言った。俺は一瞬固まったあと、聞いた。
「……何だ?」
「お風呂を借りてもいい?」
「はあ!?」
俺は思わず飛び退いた。意味は特にない。いや、理性を
「なんでだよ! 家に帰ってからでいいだろ」
「明日にしろってこと?」
「明日……?」
どういう意味だ。家に帰って風呂に入るのが、明日風呂に入るのとイコールだということは……。
「ま、まさか、今日
俺は恐る恐る訪ねた。いやまさか、さすがにそんなことは、
「そのつもりだけど?」
「だめだめ、それは絶対駄目だ!」
俺は後ずさりながら言った。ここは譲れない。譲ったら大変なことになる。
「だめなの?」
秋月はぽしょりと言うと、四つん
「じょ、冗談で言ってるんだよな……?」
理性を振り絞って、俺は言った。秋月の態度は、いくら何でもおかしい。とすると、その結論しかない。そうであってくれ。
しばしの沈黙。実際には数秒だったのだろうが、その何十倍にも感じた間のあと、
「冗談ということにしといてあげる」
秋月はにっこり笑うと、元の場所に戻った。
それ以上何も起こらないのを十分に確認してから、俺は深いため息をついた。天を仰いで、言った。
「からかわないでくれよ……」
疲れた。非常に疲れた。たぶん人生で一番疲れた。そして持ってくれてありがとう、理性。
パソコンの前によろよろと移動しながら、ふと恐ろしい考えが頭に浮かんだ。もしかして秋月は、部長との会話で置いてけぼりにされたのをやっぱりまだ根に持っていて、当てつけにこんなことをしてるんじゃないだろうか。
だとしたら、かわいらしいとも言えるし、情け
今後も秋月を怒らせないように気を付けよう。そう決意して、俺は作業を再開した。
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