第27話
気がつけば、俺は学校に戻ってきていた。校門と校舎の間にあるベンチに座り込んで、ぼんやりとしていた。
目の前では、下校する生徒たちが、大きな人の流れを作っていた。ドローンがそれを目立たない程度に誘導して、効率良く制御している。人の流れというものは計算可能で、上手く扱うための技術がたくさんある。
もちろん、個々の人の動きは複雑怪奇で、予測不可能だ。だがそれが集まることによって、薄まり、平均化し、単純化される。把握可能な現象に成り下がる。
こういうものだけに触れていたい、と俺は思った。人付き合いなんて効率の悪いものは、もうたくさんだ。人と全く関わらないことは難しいとしても、
それが、どうしてこんなことになってしまったのか。
今からでも、全部
冬野とも……それから秋月とも、もう関わらない。しばらくは怒られたり、気まずかったり、もしくは泣かれたりするのかもしれないが、長期的にはその方が効率がいいのかもしれない。
不意に、大きな流れの中から、異物が飛び出した。そいつは、いやべったりとくっついたその二人は、道を外れてこっちに歩いてきた。この先に、見るべきものなどないはずなのに。
「ふむ」
くっつかれている背の高い方が、
もう一人は、クラスの女子のようだ。名前は覚えているはずだったが、すぐに出てこなかったし、それにどうでもよかった。
その女子は俺の方をちらりと見ると、すぐに興味を失ったようだった。「ねえ、早く行こうよ」と風間の腕を引っ張っている。
風間はしばし何事か考え込むようにしたあと、手を払いのけて言った。
「今日は中止だ。一人で帰っとけ」
「えー!」
しばらく文句を言われていたが、聞く気は全く無いようだった。やがて、女子は諦めたように去っていった。
何故か――いや、何故かでもないな、俺の方を憎々しげに
「何やってるんだよ」
隣に座る風間に疑惑の目を向ける。デートを蹴って俺と話す方を選んだ、というのは分かる。分からないのは、どうしてそんなことをしたのかだ。
「落ち込んでる友達の相談に乗ってやろうと思ってな」
「そんなこと頼んでない」
「頼まれなくてもやるから友達なんだろ?」
そうなんだろうか。俺にはよく分からなかった。
「納得いかねえなら、こう言い換えてもいい。今後のお前に期待して、見返りを得るために投資してんだ」
「俺にそんな価値はないだろ」
「それを決めるのはお前じゃねえよ。そうだろ?」
俺は渋い顔をした。納得しそうになる言い回しをしてくるのが腹が立つ。これだから地頭のいいやつは……。
「で?」
「何が」
「言わなくても分かんだろ。せっかく作った俺の時間を無駄にすんのか?」
効率悪い、という幻聴が聞こえた。声は、目の前にいる男のものではなかった。
気づけば俺は、冬野のことを洗いざらい喋っていた。ここ最近の、秋月とのこともだ。溜め込んでいたものを、全てぶちまけてしまった。
秋月にも愚痴った時もそうだったが、俺は話すこと自体は嫌いでも苦手でもないようだ。自分で自分のことが全く分かっていなかったというのは、どうにも不思議な気分だった。
全てを聞き終えたあと、風間はにやにやしながら言った。
「
「風間にだけは言われたくなかった……」
俺はうめいた。しかしよくよく考えると、女子に襲われた経験はこいつにだって無いだろう。事実だけを見れば、二股かけて泣かせたなんてかわいい方かもしれない。嫌だなあ……。
「秋月に冬野のこと相談しろよ。秋月と仲直りして、冬野の問題を一緒に解決する。これで終わりだろ」
「簡単に言ってくれるな……」
そう上手く事が運ぶものか。そもそも、俺と秋月は喧嘩してるわけじゃない。俺が秋月に迷惑をかけていて、そしてこれから何度も同じことをするだろうという事実に、耐えられないのだ。
「全部無かったことにして何もせずにやり過ごそうなんて、絶対に後悔するぜ」
「そうかもしれない。でも後悔することを差し引いても、そっちの方が効率がいいんだよ。人付き合いなんて、そもそも手間がかかりすぎる」
「効率ねえ……」
少し間を開けてから、言った。
「効率ってのは、要は
「まあ、そうだな」
俺が好みそうな言い回しに、少し身構えた。
「で、利益は相互に交換可能だと考えてるわけだ」
「当たり前だろ。だから効率が重要なんだよ。利益が大きくても手間もかかるなら、他の利益を追っていった方が……」
「ならお前は、秋月との関係を他の何かで代替できるのか? 利益なんて物差しで計って、同じぐらいだからと交換できるのか?」
俺は言葉に詰まった。
できない。できるはずがない。
「交換できないなら、どれだけ手間がかかろうとやるしかねえな。手に入らなきゃ、効率はゼロだ」
風間はにやりと笑った。俺は、おずおずと口を開いた。
「……でも、俺には難しすぎるんだ。秋月にも迷惑をかけて」
「はっ、なに言ってんだ」
鼻で笑って、風間は言った。
「人付き合いなんて、誰にとっても難しいんだよ」
「風間は違うだろ」
「俺だって同じだ。違うのは、逃げずにずっとやってきたってことぐらいだな」
その言葉に、俺は驚いた。あんなに上手くやってるように見える風間にすら、簡単ではないのか。逃げたか立ち向かったか、ただそれだけのことなのか。
「迷惑かけたとか言うが、それを解決するのも手間のうちだろ。だいたい、本人がどう思ってるか聞いてみたのか?」
「いや……」
怖くて聞けなかった。だが、聞くべきだったんだろうか。
「人付き合いってのはコミュニケーションのことで、要するに会話だろ? 会話せずに判断してどうすんだよ」
「……そうだな」
それが本質か。だとすると、俺は最初の一歩で
思考が徐々にクリアになっていく。やるべきことが見えてくる。
今ならまだ、大丈夫だ。もう少しで全てを台無しにするところだったが、まだ間に合う。
「ほら、早く行ってこいよ。まだ校内にいるだろ」
「ああ。風間、ありがとう」
俺が言うと、風間はただひらひらと手を振っていた。
人の流れに逆らって、校舎に戻る。近くに寄ると、それぞれの生徒たちがよく見えた。全てが自分と同じ、意思を持つ人間だというのが、少し不思議に思えた。
廊下を進むごとに、ピアノの音が大きくなっていった。今日は、訓練のための単調な曲ではないようだ。激しい音の波が、壁を貫いて漏れ出している。
演奏が終わるのを待つ心の余裕はなかった。俺は、扉を開けた。
最初に、秋月の顔に目を奪われた。まるでスポーツの試合に挑んでいるような、何かと戦っているかのような、
俺はその表情から、目が離せなかった。美しいと思った。演奏している姿そのものが、まるで一つの芸術作品のようだった。
指は鍵盤の上を走り、だがぴたりと張り付いているように見えた。曲は
演奏だけでそれほど体力を使うのか、秋月はわずかに息を切らせていた。疲れた表情で、小さく口を開けている。伏せ気味の目には、力がない。
それを見て、俺は何故か動揺した。美しいという、さっきまでの綺麗な感情とは違う。エロいというのとも少し違う。極めてプライベートなものを見てしまったかのような、背徳感のような何かに襲われて、胸が苦しくなった。
不意に、秋月の顔がこっちを向いた。俺の表情から何を読み取ったのか、頬が徐々に染まっていく。
「……いつまでそんなとこで突っ立ってるの」
ぶっきらぼうに言う。俺は扉も開けっぱなしだったことに気づいて、慌てて閉めた。緊張しながら、ピアノの側に寄る。
「悪い、秋月」
俺は言った。秋月の表情が硬くなった。
やっぱり、怒ってるのか。嫌な思いをしていたのか。
腹の中に、苦くて重いものが溜まる。逃げ出したくなる。
だが、ここでやめるわけにはいかない。きちんと話し合おうと決めたのだ。その結果、苦しい思いをすることになっても、秋月との関係がなくなってしまうよりはよっぽどマシだ。
「俺と、その、噂になって、秋月には迷惑をかけた」
「……迷惑?」
「ああ。廊下で女子に問い詰められてただろ。嫌な思いしただろ。恥ずかしい話だが、こんなことになるなんて想像してなかった」
何を言っていいかは分からなかった。だが少なくとも、誠実であろうとした。本心を、きちんと話したかった。
秋月は、ふいと目を逸らした。
「迷惑なんて思ってない」
「ちゃんと話してくれ。秋月一人に負担をかけたくないんだ。少なくとも知っておきたい。そうすれば、俺も何かできるかもしれない」
あいまいで、無責任な言葉かもしれない。でも、今の俺にとってはこれが精一杯だった。これで愛想を尽かされるなら、もう仕方ない。
秋月に近づくと、その顔をじっと見つめた。本心が知りたかった。
もう辛い表情をして欲しくなかった。美しい物が失われるのが嫌だとか、そんな理由じゃない。ただ単純に、秋月にはいつも幸せでいて欲しかった。
だがその時、ふと気づいた。
秋月の反応が、予想と大きく違っている。頬は赤く、視線はうろうろとさまよっている。どうも落ち着かない様子だ。何かがおかしい。
「噂されて嫌だったんじゃないのか。問い詰められて面倒だったとか、そういう」
「あなたと一緒にしないで。あたしはそんなの、普段から対応できてる」
弱々しく
「……ええと、じゃあ、何が気に入らなかったんだ? 嫌な顔してただろ?」
ここは間違いないはずだ。だが、その理由が分からない。もうストレートに聞いてしまおう。
秋月はまだ抵抗していたが、やがて、ぼそぼそと喋り始めた。
「あなたのことを悪く言われて、不愉快だったの。あんな暗いのとか、趣味悪いとか」
「……へ?」
予想外の言葉に固まった。え、俺のこと?
「つ、釣り合わないとか、勝手なこと言って……」
か細い声で告げると、限界が来たとでもいうかのように、のろのろと顔を伏せた。耳まで真っ赤になっている。
どうやら勘違いだったようだ。それはまあ、良かった。
で、つまりどういうことだ。俺を悪く言われたのが不愉快で、釣り合わないと言われたのも嫌で……。
熱暴走したCPUのように、考えがまとまらない。ええと、つまり、その……。
「そ、それより、あたしは別のことに怒ってるの!」
秋月が急に立ち上がってきたので、俺は
い、今のは危なかったぞ。事故ったらどうするんだよ!?
「今日カラオケで、冬野さんと何かあったでしょう」
俺はどきりとした。熱かった顔が、一気に冷まされる気がした。
「ど、どうして知ってるんだ?」
「ミオが見てたの。泣きながらカラオケから出てくるところを」
「そうか……」
泣いてたのか。拒否したのが悪かったとは思ってないが、それを聞いて心が痛くなったもは確かだ。逃げるより上手いやり方はあっただろう。
「どうしてすぐあたしのとこに来ないの」
「え」
「手伝うって言ったのに」
秋月は
「あたしが一番じゃないの」
俺は
「悪い、その、噂のことで迷惑かけたと思って、頼りづらくて……」
しどろもどろで謝ると、秋月はすっと右手を出してきた。握手を求めているわけではないのは分かった。手は、俺の胸元に向かったからだ。
「これからはちゃんと話して。わかった?」
俺の胸ぐらを掴むと、ことさら乱暴に引き寄せた。行動に表情が合っていなかった。熱っぽい瞳の中に、間の抜けた自分の顔が見えた。
不意に、秋月は眉を寄せた。
「ちょっ……!?」
掴んだ俺の胸元に、顔を埋めた。吐息を感じる。さらさらの髪が体をくすぐる。頭の中が、真っ白になる。
な、なにをしてるんだ。え、匂いを嗅いでる?
顔を上げると、秋月の表情は一変していた。今度は行動に合っている。何だか見覚えのある状況だ。
「カラオケで、冬野さんと、何をしていたの?」
怒っている。あっ、もしかして、冬野に抱きつかれた時に、匂いが……。
その後、誤解――とも言えないのだが、とにかく状況をありのままに説明し、秋月の機嫌が直るまでにはかなりの時間がかかった。
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