第26話

 冬野ふゆのには、連日付き合わされることになった。はっきり言って苦痛だったが、これで成績予測が改善するんじゃないかとも思っていた。そうすればもう関わる必要もなくなると、少しは期待していた。

 もちろんそこまで楽天的だったわけじゃないが、やってみて損はないだろうと思っていた。改善したら儲けもの、状況が変わらなくてもデータは増えるのだから、むしろプラスだ。

 だが結果的に、その考えは甘かった。現実は、もっと厳しかった。

 冬野の成績予測は、改善しないどころか悪くなったのだ。日に日に悪化していき、木曜の夜には最初の予測点数に戻ってしまった。先週良くなった分が台無しだ。

 奇妙だったのは、冬野が平然としていたことだ。出かけた時は相変わらず淡々とをこなしていたし、教室でもごく普通に友達と接している。それどころか、月曜よりも気分が上向いているようにすら見えた。

 何故だ。今までのことを思い返すと、どう考えてもおかしい。取り乱すんじゃないかと危惧きぐしていたのに、全くそんな気配はない。

 もう諦めてしまって、開き直っているのか? それとも、裏で問題が解決したのか? 分からない。

 秋月に相談しようかとも考えたが、暇がなかった。いや、本当は、時間を作ろうと思えばできただろう。だがどうも、そこまでするほどの気力が起きなかった。勝手にすれば、という突き放したような言葉が、まだ耳に残っている。

 冬野の態度に気持ち悪さを感じながらも、時間は無為に過ぎていった。そして、金曜日の昼休みに、一つの事件が起った。

 もっとも、おそらく事件と呼ぶべきでは無いだろうし、それに既に起っていたことだった。間抜けな俺が、気づかなかっただけで。

「秋月さんって、ほんとに氷室君と付き合ってるのかな? あんな暗い子と?」

 食堂で耳に入ったその言葉に、俺はびくりと体を震わせた。

 恐る恐る目を向ける。話していたのは、例のギャル二人だった。あの日音楽室の前で、秋月と話していた二人。

「ねー、意外と趣味悪いよねー」

「でもでも、違うって言ってたじゃない? 一緒に先生に頼まれごとしてるだけって」

「あんなのぜったい嘘だよー」

「そうかな? 秋月さんとは釣り合わないって、やっぱり」

「ひどーい」

 くすくすと笑い合う。きっと、この手の話題は最高の娯楽なんだろう。その主役が、普段は他人を寄せ付けない『高嶺の花』ならなおさらだ。

 二人の会話を聞いて、俺は血の気が引くのを感じた。暗いだの何だの言われたのに怒っているというわけじゃない。あの日、秋月が不機嫌そうにしていた理由が分かってしまったからだ。

 きっと、あの女子たちに問い詰められたのだろう。俺との噂のせいで。

 ショックだった。何がショックだったかと言うと、こんな事態が起きるのを、全く想定できていなかったことだ。

 いくら噂になろうが、俺にとっては大した問題じゃない。確かに変な噂が立つのは少し気まずいが、それぐらいだ。クラスで話しかけてくるやつなんてほとんどいないから、『実害』は無い。

 だがもちろん、になるのは一人ではできないのだ。人付き合いは、二人以上いないと成立しない。そんな当たり前のことに――本当に当たり前すぎて嫌になる――俺は気づかなかった。

 秋月は、俺とは違う。積極的に女子の輪に入ることはなくても、全く話さないわけではないだろう。噂になれば面倒なことになるのは当然だ。俺に来ない分、余計かもしれない。しかも、こんなやつが相手だ。

 それなのに、俺は何を浮かれていたんだろう。恥ずかしいし、申し訳ない。しかも偶然話を聞かなければ、この先も気づかなかったかもしれないのだ。

 それは、とても恐ろしい想像だった。知らないうちに、ずっと秋月に負担をかけ続ける、なんて。

 やっぱり、俺には人付き合いは難しすぎるのかもしれない。

 沈んだ気持ちと共に放課後を迎え、冬野と出かけることになった。全く気は進まなかったが、約束だから仕方ない。

 学校を出ると、冬野はすたすたと歩いていった。今日の目的地はカラオケだ。これで秋月と行った店は、例の店以外は全てまわったことになる。

 割り当てられたのは、一番狭い部屋だった。奥に詰めて座ると、俺は義務を果たすかのように聞いた。

「飲み物とか頼むか?」

「ううん。頼まないで」

 俺の横で立ち尽くしながら、冬野は言った。

 頼まないで? 妙なお願いだ。俺が頼むかどうかなんて、何故気にするんだろう。

 その答えは、すぐに分かった。冬野は、張り付いたような笑みを浮かべて言った。

「氷室君、嘘ついたんだよね?」

「え」

 俺は頭の中が真っ白になった。なんだ、何の話だ?

「秋月さんとしたこと、全部は言わなかったんでしょ?」

「……それは、まあ……」

 少なくとも、店は一つ秘密にしている。やったことだって、本当に全部細かく説明したわけじゃない。でも、だったらどうしたのかと……。

「仕方ないよね、言えないこともあるもん。秋月さんとは、恋人同士なんだから」

「いや、それはただの噂で……」

「でもいいよ。言わなくても分かるから。ここで、何したのか」

 あまりに自然な動きだったから、反応できなかった。冬野は下品に脚を開くと、馬にまたがるようにして、俺の膝の上に乗った。歪んだ笑みが、すぐそばにあった。

「だから、今、シて? そしたら、私、助かるよね?」

 冬野はゆっくりと身を寄せた。俺の肩に顔をうずめるように。背中に手を回した。二人の体は、上から下まで密着した。

 引き剥がそうと思った。少なくとも、そうすべきだとは認識していた。

 でも、できなかった。混乱で動けなかったのでも、恐怖に身がすくんだのでもない。冬野のしたいようにさせてやろうと、優しくそう考えたわけでもない。

 離れたくなかったのだ。この柔らかな感触と、それから甘い匂いを、ずっと味わっていたかった。強烈な誘惑に、頭がおかしくなりそうだった。

 冬野が身じろぎするたびに、あらがいがたい感覚が体の奥底から湧き上がってくる。破滅することが分かっていたとしても、身を任せてしまいたかった。予想や理屈や効率なんて、無意味だった。

 わずかに体が離れる。冬野の顔が、また目の前に来る。俺が拒否しなかったからか、安心したような笑みになっている。

 その時だった。

 頭の中に浮かんだのは、別の顔だった。いつも無表情で、時々冷たく、時々怒っているけれど、たまには優しい笑みを見せてくれる顔が。

 強く肩を押した。

 冬野が、テーブルに尻餅をついた。愕然がくぜんとした表情が目に入る。

 身をよじり、立ち上がった。今つかまったら、二度と逃げられない気がした。物理的にも、精神的にも。

「待って!」

 悲痛な声を無視して、俺は逃げ出した。

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