第24話

 秋月のことが、しばらく頭から離れそうにない。

 ようやく部室に戻ろうとした時には、そう思っていた。だがその『しばらく』は、予想以上に早く終わりを告げた。

「氷室君」

 廊下を早足で近づいてきたのは、冬野ふゆのだった。表情が暗く沈んでいるのを見て、俺は少し身構えた。階段上の出来事が頭に浮かぶ。

「ちょっといいかな?」

「なんだ?」

「氷室君にもらってる、やることリストの相談なんだけど……」

 そう言って説明を始める。取り乱してはいないようで、俺はほっとした。

 冬野の話はこうだった。ここ数日、成績予測が改善していない。だから、他にもっとやるべきことを教えてほしい。そういう相談だ。

「上手くいってるんじゃなかったのか?」

 さっきの生徒指導室ではそんな話だった。確か、先週の秋月と同じく、ゴールまでの半分は過ぎたなと思ったはずだ。同じペースが続くなら、あと一週間で完了する予定になる。

「うん、木曜までは上手くいってたよ。でもそこで止まったの」

 そうだったのか。まあ、もともと劇的に改善してた方が変だったぐらいなので、不思議ではない。

「土曜日の夜も変わってなくて、日曜はリストにあること全部やったの。今までのぶんもやり直した。それでも駄目で……」

 全部って……今後のことも考えてとりあえず詰めておいたから、かなりの量あるぞ。一日では終わらないはずだが……。

 そこで俺は気づいた。冬野の顔が沈んで見えるのは、表情の問題だけじゃない。目の下に、黒いくまができている。こいつまさか、寝ずにやったのか?

「秋月さんは何をやったの? 私もやりたい」

「いや、あのリストは個人に合わせて作ってるから……」

「……どうして教えてくれないの? 秋月さんは、助けたのに……」

 冬野の目がよどんでいる。それを説明してるんだが……駄目だ、理解してくれる気がしない。

 そもそもあれは、成績予測の改善を目的に作ったんじゃない。分析のためのデータを集めるためのものだ。改善したのはたまたまであって、期待されても……。

「……ねえ」

「わ、分かった。分かったから落ち着こう」

 必死に説得する言葉を考えていたのだが、時間切れだった。冬野の目が、いつかのように危険なものになっている。これ以上は、駄目だ。

「秋月は俺と出かけたんだ。あいつは普段男子と遊んだりしないらしいから……」

「じゃあそれがしたい。それで良くなるんでしょ?」

「いやまあ……なる、かもしれない」

 すがるような表情を向けられ、俺はそう言わざるを得なかった。ここで否定してしまったら――希望を打ち砕いてしまったら、何が起こるか分からない。

 まあ、嘘ではない。かもしれない、としか言ってないのだから、嘘になりようがない。こいつはそれが分かってるんだろうか……分かってなさそうだな……。

 冬野はもともと男子とも遊んでただろうから、正直改善する可能性は低いと思う。時間を稼いでいる間に、他の手段を考えるしかないか。

 今すぐ行こうと言われるかと思ったが、今日は誰かと予定があるらしいので見送った。友達付き合いは続けてるんだな。その上リストまで消化しようとしていたのなら、大変だ。

 冬野と別れた俺は、まずは秋月に相談しようと思い立った。何かいい考えが浮かぶかもしれない。人間関係の問題が成績低下に関わってるんじゃないか、というアイデアを出してきたのも秋月だしな。

 廊下を歩きながら、俺は次第にそわそわとしてきた。風間かざまから聞いた話が、脳内で繰り返される。誰も見たことのない笑顔を、俺に向けていた、という。

 だから何だ、という気もする。確かに俺は、秋月にとって最も仲のいい男友達なのかもしれない。事実として認めよう。

 だがそれは、その……俺に好意を持っているというのと、イコールではない。イコールではないというか、果たしてどれぐらい近いのだろうか。あれ、実は全然近くないんじゃないか?

 駄目だ、状況を整理しようとして余計分からなくなった。これだから人付き合いというやつは……。

 だんだん疲れてきたが、ほうり出してしまおうとは思わなかった。この理由は分かる。それだけ俺が、秋月との関係を重要視しているからだ。

 大変ではあったが、嫌ではなかった。落ち着かなくなるにしても、不快な気分ではなかった。

 心地いい、と言ってしまってもいい。その時は、間違いなくそう思っていた。

 角を曲がり、音楽室が目に入ったところで、俺は思わず足を止めた。

 廊下には秋月と、それから二人の女子が立っていた。いつだか冬野と火口ひぐちのことを噂していたギャル二人だ。

 女子たちは、秋月の言葉を待っているようだった。秋月の方はと言うと、あからさまに迷惑そうにしている。しばしの間のあと、口を開いた。

「ごめんなさい、ピアノの練習があるの」

「そっかあ。邪魔してごめんね!」

 全く申し訳ないとは思っていなさそうな顔で、女子の片方が言った。二人はくすくす笑いながら去っていく。あまり良くない雰囲気だ。

 近づく俺に気づいた秋月が、はっとした顔になった。目を逸らされる。俺は妙に胸騒ぎがして、聞いた。

「どうかしたのか?」

「べつに」

 素っ気ない返事。重ねて尋ねようとしたが、

「何の用?」

「あ、ああ」

 先手を打たれて言葉に詰まった。仕方なく、さっきの冬野との話を説明した。

「というわけなんだが、どうすればいいかな。秋月と同じことをやっても、上手くいくとも思えないんだよな」

 別の案はないか、そういうつもりで聞いたのだが、

「やってみれば」

「一緒に出かけるのをか?」

「そう。上手くいくかもしれないんでしょう」

「まあ、そうだな」

 絶対にないとは言えない。秋月だって、実質的な意味などあるのかどうか分からないが、俺と出かけたことで改善したのだ。冬野だって可能性はある。

 矯正プランだって、たぶん根本原因を解決してるわけではなく、細かい行動調整で何とかしているのだろう。同じようなようなものだ、と言えなくもない。

 俺のやるべきことは、成績低下の原因を取り除くことじゃない。成績低下を変えることだ。そう考えると、数打ちゃ当たるを地で行くような方法でも、上手く行くのかも……。

 と、考え込んでいると、

「ならやってみればいいじゃない」

「まあそうだが、他にも何かやるべきことが……」

「やってから考えれば。それが冬野さんの望みなんでしょう」

 淡泊な口調で秋月が言った。あれ、なんか機嫌悪いような気がするな……。やっぱりさっきの女子二人と何かあったんじゃ……。

 そう思ったのだが、どうも聞き出せる雰囲気ではない。秋月は腕を組みながら、俺の方を無表情で見つめている。

 どんな感情なのかも、何を思っているのかも読み取れない。まるで、会ったばかりのころのように。

「そ、そうだ。秋月と行った店、教えていいか? 同じことをやらせろって言うから……」

「勝手にすれば」

 秋月はそう言うと、音楽室の中に帰っていた。何か言うべきだと思ったが、言葉は出てこなかった。

「……まあいいか」

 小さくため息をつく。秋月の言うとおり、やってみてから考えよう。たぶん、それでいいはずだ。

 俺はとぼとぼと廊下を歩いた。ついさっきまで感じていた心地よさは、すっかり失われてしまっていた。

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