第3章

第18話

 疲労困憊こんぱいで廊下を歩いていると、スマホにメッセージが来ていることに気づいた。『音楽室に来て』という秋月からの短い一文だ。もしかして、さっきの視線はこれを言いたかったんだろうか。

 今日はもう誰にも会いたくない気分だったが、悩んだすえに従うことにした。秋月からじゃなかったら、たぶん無視していただろう。

 聞こえてくるピアノの音は、ずいぶん単純なメロディーを構成していた。たまにそういう時もある。よく知らないが、訓練用の曲なんだろうか。ゲームで言うトレーニングモードとか、そういうやつ。

 しばらく部屋の前で迷っていたが、演奏が終わる前に扉を開けた。たぶん俺が来ることを見越して、邪魔されてもいいような練習曲を弾いてたんだろう。

 そうだと思いたい。怒らないよな?

 部屋の前まで来たことはあったが、中に入ったのは初めてだった。大きなピアノと、それから様々な楽器が目に入る。

 秋月は真剣な表情でピアノを弾いている……かと思ったが、そうでもない。どちらかと言うと、リラックスしているように見える。手だけが機敏きびんに動いているのが、ちょっと不思議な感じだ。

 指、細いし長いな。鍵盤の上でうごめく十本のそれを、俺は遠くから凝視した。複雑な動きだ。こんなこと言うのはあれなのだが、うん、なんか、エロい。

「いつまで視姦しかんしてるわけ」

「うえっ!?」

 意識の外から声をかけられ、俺は慌てて視線を上げた。秋月は目だけこっちに向けて、じっとりとした視線を送っている。よそ見しながら弾けるのかよ……。

 視姦って、またこいつが変なこと言ってるだけだよな? 俺の心が読まれたわけじゃないよな?

 平静を装いつつ、扉を閉めてピアノの近くに行った。適当な椅子を引き寄せて座ると、ずいぶん久々に楽な姿勢を取ったような気がした。いろんな意味で。

「何かあったの?」

 意図せずぼんやりしていると、秋月が眉を寄せて言った。

「いや、まあ……」

 俺はあいまいに答えた。あった。すごくあった。しかし、あれを他人に話してしまっていいものか。

 すると、秋月がため息をついた。

「そこまで聞いて欲しそうな顔するぐらいなら、早く話せば?」

「うっ、そんな顔してるか?」

「してる。最後には絶対話すんだから、諦めなさい」

「ど、どうしてそんなこと分かるんだよ」

「あなたより他人と接してるから」

 ぐうの音も出ない。このままだと俺特攻の武器『効率悪い』が出てきそうだったので、仕方なく口を開いた。

「さっき、冬野ふゆのに二人きりで話したいって言われたんだが……」

 ゆるゆると話し出す。秋月はじっと俺を見つめている。

 結局、呼び止められたことから、冬野の異常な様子、頼み、それから自分の体を触らせてきたことまで、全部喋ってしまった。一部は黙っているべきかともちらりと思ったが、上手く加工する気力もなかった。

「ってわけだ。正直、参ったよ。あんなに感情をぶつけられたのは初めてだ」

 話してみると、正直かなりすっきりした。体に絡みついていた重くて暗い何かが、するりと滑り落ちていったような気がした。

 これは俺にとって、なかなか新鮮な体験だった。よく考えると、ここまで長々とぐだぐだ話を聞いてもらったのは初めてかもしれない。互いに愚痴り合う一般高校生たちの気持ちが、ちょっと分かった気がした。

 秋月は口を挟まず、途中でさえぎることもなく静かに聞いてくれた。おかげで話しやすかった。優しいな、なんて思っていたのだが、

「ふうん」

 話が終わると、冷たい視線を向けてきた。

「色仕掛けに引っかかって助けることにしたってわけ」

「そんな話じゃなかっただろ!? ほんとに怖かったんだからな……」

 かなりきわどい、どころか直接的な部位にも触れたのは確かだが、全くそういう気分にはならなかった。女は気持ちが大事で男はエロけりゃ何でもいい、なんて言うが、そうとも限らないことを知ってしまった。

 もっとも、今になって考えてみると、いい思いをした気がしなくはない。さっきはそんな余裕もなかったが、手に伝わった感触を思い返してみると、結構なボリュームが……。

 やべ、秋月の視線が氷点下を突破している。俺は意識して表情を引き締めた。

「それで、そっちの用事は何なんだ?」

 話題を変えよう。わざわざ呼び出してきたぐらいなんだから、それなりに重要な用なんだろう。そう思ったのだが、

「いい。冬野さんを手伝うんでしょ」

 素っ気なく言う。ええと、なんか怒ってる気配がするな……どうしよう……。

 秋月は腕を組んで(べつに胸元は強調されていない)そっぽを向いている。これは何だろう、怒ってるというか……ねている?

「あー、秋月を手伝うのも続けるぞ。その話だったんだろ?」

 そのはずだ。というか、秋月が俺に用なんてそれ以外ない。合ってるよな……?

「あたしは上手くいってる。冬野さんに集中した方が効率がいい」

「むっ。いや、あれだ、二人同時に分析した方がもっと効率いいだろ」

「取って付けたようなこと言わないで」

 横目でにらまれる。うっ、今のはちょっと自分でもそう思った。

 深呼吸する。さて、どうすべきだろう。

 秋月がまだ俺を頼ってくれるなら、素直に話してくれた方が嬉しい。そんな風に思う自分にちょっと驚いたが、本心だ。

 幸い、秋月はこの場を去ろうともしないし、帰れとも言わない。考える時間はあるようだ。俺が話すのを待ってくれていると思うのは、自意識過剰だろうか。

 しかし、一向にいい考えは浮かばなかった。何と言うべきか分からない。

 秋月が、ため息をついた。

 それを見て、俺は反射的に口を開いていた。

「とにかく、秋月のことを途中でほうり出すつもりはない。これは絶対だ。冬野を助けるのはあくまでサブの……二番手の目標だ」

 言葉が出るに任せる。とにかく黙っているのは良くない、そう思ったからだ。

「そう。一番じゃないってこと」

 すると秋月は、若干じゃっかん機嫌が良くなったように見えた。因果関係は分からない。何も分からないが、結果オーライということにしよう。

「秋月の話を先に聞いたんだからな。当然だろ」

「……そう」

 あれ、またちょっと温度が下がった。何故だ……。

 もう一度ため息をついたあと、秋月は言った。

「あたしの用事は、次は何をすべきかってこと。極端なことをやるんでしょう」

「そうだな」

 もともと分析用のデータを集めるつもりで一緒に出かけたのだ。運良く大幅に改善してしまったが、それはそれとしてデータ集めは続けてもらった方がいい。

「秋月が今までやらなかったようなことって、何だ?」

「質問が曖昧あいまいすぎ」

「むっ、確かに。まあ何でもいいと言えばいいんだが……」

 自由度が高すぎて逆に難しい。俺が言葉に詰まっていると、秋月が先に口を開いた。

「またどこかに出かけるのは駄目なの?」

「俺とか? それはもうやっただろ」

「行く場所が変われば結果も変わるでしょう。その、カラオケとか」

「そりゃそうだが、もっと全然違うことをやった方が効率がいい」

 データは量よりバリエーションだからな。部長が言うんだから間違いない。

 具体的にはどうするか。行動のジャンルを考えて、一つずつやってみてもらうか。例えば勉強内容、スポーツ、ゲーム、読書、とか……。

 考えにふけっていた俺は、不意に気づいた。秋月が、ぶすっとした顔でこっちを見ている。あ、あれ?

「……ええと、何か?」

「いいえ、何も」

 突き放すような声音こわねだ。俺また何かやっちゃいましたかね……コミュニケーション難しい……。

 その後二人で相談して、やって欲しいことのリストを作った。できるだけ秋月の負荷が少ないものを選んだつもりだ。今までやったことがなければいいわけであって、やるのが大変かどうかはあまり関係ないからな。

「冬野は何であんなに追い詰められてるんだろうな。やっぱ人間関係か?」

 さっき聞いてもらったからか、つい愚痴るように言ってしまった。やっぱり火口ひぐちとのことなのか、もしくは全然違うのか。

 最初に先生に呼び出された時には、予定が立てられないとひどくうろたえていた。ということは、矯正きょうせいプランのせいで友達付き合いが上手くいってないんだろうか。もっとも、それだけであそこまでになるかと言われると……。

 人付き合いが関係しているような気はするのだが、いまいちピンと来る答えがない。秋月なら同じ女子だし分かるかと思ったが、黙ったまま何も言わない。

 しばしの後、秋月はこう聞いた。

「冬野さんのことが気になる?」

「気になるというか……あれだな、またさっきみたいなのに巻き込まれたくないだろ。理由が分かってれば、下手なことを言って地雷を踏む可能性も下がる」

「ふうん。てっきりまた触りたいかと思った」

「いや、だからな……」

「冗談」

 たちの悪い冗談はやめてほしい。あんなの一生で一度だけで十分だ。

 秋月はまたしばし間を置いて、言った。

「なら、ミオにも聞いてみる? カフェで冬野さんの様子がおかしかった、とは言っていた」

「あー、そうだな。頼む」

 確か、プランのスケジュールをこなすために席を外した時、異常に謝ってたな。俺もちょっと変だとは思った。

 最後に、やることリストについてもう少しだけ話して、俺たちは別れた。

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