第17話
「さすが、秋月さんです」
月曜日の放課後、二回目の生徒指導室で、先生は満面の笑みを浮かべて言った。
「一週間でここまで成績予測が改善した生徒は初めてです。すぐに
そう、先生の言うとおり、
俺と遊びに行ったのが原因なんだろうか。そこまで変化するとは思っていなかったから、正直驚いた。もっとも、偶然タイミングが重なっただけで、これからどんどん伸びていくのかもしれないが……。
「プラン以外にも、特別なことをしたんでしょうか? 差し支えなければ、教えてもらえませんか?」
「勉強時間は増やしました」
秋月は無表情で言った。うん、嘘ではないが、よく平然とごまかせるな。さすが学校ではずっと本性を隠しているだけある。
「そうですか、良い心がけです。ですが、お二人は無理をする必要はありませんからね。プランに従って、着実に改善を進めていきましょう」
残りの二人に視線が向く。俺はあいまいな笑みを浮かべた。
実はこっちもそこそこ改善したのだが、秋月に比べると
しかしこのまま行くと、秋月との協力体制はすぐに終わりそうだ。成功で終わるんだからべつにいいのだが、分析の結果ではないのがちょっと納得いかない。世の中そんなもんかね……。
あとはまあ、秋月との関係が切れてしまいそうなのも、少し残念だ。少し。
もともと、俺なんかが一緒に遊びに行ける相手でもない。今はまだ男子連中も手を出すのを
また買い物に付き合って欲しいとあの時は言われたが、今どう思っているかは分からない。最後には怒られたし、自分の発言を後悔してるかもしれない……うっ、想像しただけで
ほんと、あの時は浮かれてたな。後になって思う。自分の恥ずかしい発言の数々が蘇って、昨日は何度も思い出し
部屋を出る時に、秋月から視線を向けられた。え、なんだ? 何か言いたいということまではかろうじて分かったのだが、内容は全くだ。俺にそんな高度なコミュニケーション能力を求めないでくれ……。
だが俺の心の嘆きの方は、しっかり伝わったようだった。秋月はわざとらしくため息をつくと、すたすたと去っていった。なんだよマジで……後でメッセージでも送ろう……。
とりあえず、部活に行くか。秋月の問題はもう勝手に解決するのかもしれないが、分析するに越したことはない。急に改善したのも、ちょっと不穏な雰囲気だ。もともとの矯正プランに沿ったものではないし、ここで止まってしまう可能性もある。
しかし、
そうか、関係が切れてからにすればいいのか。後ろ向きの解決策が浮かんでしまって、虚しい気分になる。
違う、見てるのは俺じゃなくて、後ろだ。その時初めて、俺は冬野がついてきていることに気づいた。いや、知ってはいたはずだが、意識していなかったのだ。
「冬野さん、大事な用事があるって言ってたのは……」
火口は硬い表情だ。胸の前で両手を振りながら、冬野が慌てたように言った。
「違うの、
そこで言葉を詰まらせた。説明はしたいが、矯正プランのことは話したくないというところか。焦りの表情を向けられたが、俺を見られても困る。
と言うか、ちょっと待て。ややこしい状況に巻き込まれている気がする。
どうも冬野は、誘われたのを大事な用事があると言って断ったようだ。火口の様子を見るに、そのお誘いも重要なものだったんだろう。なのに俺と二人でいるところを見てしまって……。
「いや、否定する必要はないよ。何が大事か決めるのは冬野さんだからね」
火口はそう言って笑顔を見せたが、明らかに引きつっている。まずい、誤解を解かなきゃならないんだが、下手なことを言うとプランのこともバレてしまう。冬野と合意を取らずに話すのはそれはそれでマズいし……。
頑張って考えたのだが、無情にも制限時間が来てしまった。火口は最後にちらりと俺の方を見ると、何も言わずに去っていた。あー……。
俺はため息をついた。あれだな、先生に仕事を頼まれたとでも言っておけばよかったな。たぶん口裏を合わせるぐらいしてくれただろう。
「悪いな。説明するならついていくが……」
面倒だが仕方ない。二人が付き合ってるのかどうかは定かではないが、もしこの件が原因で別れたりしたら、さすがに寝覚めが悪い。
だが冬野は、首を縦にも横にも振らなかった。俯いたまま、ぶつぶつと何かを喋っている。
「やっぱりだめ……もう無理……すぐしないと……」
「……ええと、冬野さん?」
不穏な言葉に、俺は心配になって尋ねた。すると、
「ねえ、ちょっといいかな」
顔を上げた冬野を見て、俺はぎょっとした。
こいつ、目の色が尋常じゃない。追い詰められ、後が無くなった人間の顔だ。
「な、なんだ?」
「誰も来ない所で、話したいな」
いつだか、同じような
火口の誤解が原因でこうなったのか? いやあんなの、ちゃんと説明すれば分かってくれるんじゃないのか。でも他に、何が?
「だめ、かな……?」
「わ、分かった。行こう」
弱々しく尋ねられ、俺は慌てて頷いた。ここで断ったら、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。
向かったのは階段の一番上、鍵のかかった屋上への出口の前だった。まさか、一週間で二度来ることになるとは思わなかった。しかも、女子と二人で。
「ここなら人は来ない。で、何だ?」
俺はそう言ったのだが、冬野はしきりに周囲を気にしていた。そんなに他人に聞かれたくないことなのか。
「氷室君」
意を決したように、冬野は話し出した。
「秋月さん助けてるって、本当?」
「ああ、まあ。矯正プランのことなら手伝ってる」
だが内容を聞いて、俺は拍子抜けしてしまった。確かにプラン
「誰に聞いたんだ? あ、春日井か?」
カフェの時かな。秘密にしておくと言ってた気がするが、まあ春日井だしな……。
質問には答えずに、冬野は言葉を続けた。
「氷室君が助けてるから、秋月さんは成績が良くなったんだよね?」
「成績予測が? まあそうかな」
ほとんど偶然のようなものだが、結果的にはその通りだ。俺の言葉に、冬野は救いを見たかのように目を輝かせた。
「じゃあ、私のことも助けてくれるよね?」
「え? いやそれは……」
待て、どうしてそうなる。俺はボランティアじゃないんだぞ。秋月は流れで助けることになったが、冬野の面倒まで見る義理はない。それに仮に助けたところで、たぶんこいつが期待するようにはいかないだろう。
「助けてくれないの?」
「いや、待ってくれ。そもそも秋月の成績予測が改善したのは俺のおかげというより、半分以上偶然で……」
「秋月さんは上手くいったじゃない!」
「お願い、助けて。助けてくれたら、私、何でもする」
「何でもってお前、軽々しく言うなよ」
ちょっと呆れてしまった。必死なのは分かるが、何でもするは無いだろう。口約束だけして後でどうとでもごまかせると思われているなら、さすがに腹が立つ。
しかし、冬野ってこういうこと言うやつだったのか。ちょっと驚いたな。円滑なコミュニケーションのためには必要なスキルなのかね。
皮肉げに思っていたが、本当に驚くのはこれからだった。
「軽々しくじゃない。ほんとだよ。ほんとに、何でもする……」
冬野は俺の手を握った。それだけでもぎょっとしたが、その手を、自分の胸の膨らみへと押しつけた。
「ね、ほんとでしょ? だから、助けてよ……」
近づきながら、俺の手をゆっくりと下げていく。お腹に触れ、その下に行き、スカート越しに太ももを掴む。
俺は何の抵抗も、いや反応すらもできなかった。目の前の光景が、現実のものとは思えなかった。目に異常な光を
「キスもしよっか? し、舌も入れた方がいい……?」
冬野の整った、だが酷く歪んだ顔が、触れそうなほど近づいてきて……。
「やめろ!」
ぎりぎりのところで、俺は自分を取り戻した。相手のことを気遣う余裕もなく、柔らかな体を突き飛ばす。冬野は足をもつれさせ、ぺたりとその場に座り込んだ。
「ねえ、助けてよ。助けて、助けて……」
精気の抜け落ちた顔で、
「分かった、分かったって!」
恐怖から逃れるためだけに、俺は言った。冬野の表情に、力が戻った。
「よかった……ありがとう……」
立ち上がると、再び俺の手を握った。さっきのことを思い出してぎくりとしたが、両手でぎゅっと包むだけだった。まるで救世主にでも会ったかのような顔だ。
くそ、受けると言ってしまったな。無理矢理言わされたようなものだが、今更断れない雰囲気だ。というか、もし断ったりしたらいったい何が起きるのか、怖くて考えたくない。
「とにかく、今日は助ける方法を考える。明日には伝える。それでいいか?」
冬野は安心しきった表情で、こくこくと頷いた。
本当なら、今から
階段を降り、冬野と別れてようやく一人になって、俺は特大のため息をついた。
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