第17話

「さすが、秋月さんです」

 月曜日の放課後、二回目の生徒指導室で、先生は満面の笑みを浮かべて言った。

「一週間でここまで成績予測が改善した生徒は初めてです。すぐに矯正きょうせいプランは必要なくなるでしょう」

 そう、先生の言うとおり、人工知能AIによる秋月の成績予測結果は、週末を挟んで劇的に良くなっていた。ゴールの五十点までに必要な点数の、約半分を一日で増やしたようだ。データももらったが、ものすごい伸びだった。

 俺と遊びに行ったのが原因なんだろうか。そこまで変化するとは思っていなかったから、正直驚いた。もっとも、偶然タイミングが重なっただけで、これからどんどん伸びていくのかもしれないが……。

「プラン以外にも、特別なことをしたんでしょうか? 差し支えなければ、教えてもらえませんか?」

「勉強時間は増やしました」

 秋月は無表情で言った。うん、嘘ではないが、よく平然とごまかせるな。さすが学校ではずっと本性を隠しているだけある。

「そうですか、良い心がけです。ですが、お二人は無理をする必要はありませんからね。プランに従って、着実に改善を進めていきましょう」

 残りの二人に視線が向く。俺はあいまいな笑みを浮かべた。

 実はこっちもそこそこ改善したのだが、秋月に比べるとかすんでしまう。一気に十点近くは上げたんだけどなあ。

 しかしこのまま行くと、秋月との協力体制はすぐに終わりそうだ。成功で終わるんだからべつにいいのだが、分析の結果ではないのがちょっと納得いかない。世の中そんなもんかね……。

 あとはまあ、秋月との関係が切れてしまいそうなのも、少し残念だ。少し。

 もともと、俺なんかが一緒に遊びに行ける相手でもない。今はまだ男子連中も手を出すのを躊躇ちゅうちょしてるが、時間の問題だろう。もっとスマートに連れ回せるやつと遊んだ方が、効率がいいに決まってる。

 また買い物に付き合って欲しいとあの時は言われたが、今どう思っているかは分からない。最後には怒られたし、自分の発言を後悔してるかもしれない……うっ、想像しただけでつらくなってきた……。

 ほんと、あの時は浮かれてたな。後になって思う。自分の恥ずかしい発言の数々が蘇って、昨日は何度も思い出し悶絶もんぜつしていた。

 部屋を出る時に、秋月から視線を向けられた。え、なんだ? 何か言いたいということまではかろうじて分かったのだが、内容は全くだ。俺にそんな高度なコミュニケーション能力を求めないでくれ……。

 だが俺の心の嘆きの方は、しっかり伝わったようだった。秋月はわざとらしくため息をつくと、すたすたと去っていった。なんだよマジで……後でメッセージでも送ろう……。

 とりあえず、部活に行くか。秋月の問題はもう勝手に解決するのかもしれないが、分析するに越したことはない。急に改善したのも、ちょっと不穏な雰囲気だ。もともとの矯正プランに沿ったものではないし、ここで止まってしまう可能性もある。

 しかし、風間かざまに会ったら絶対春日井かすがいのこと言われるよなあ。急いではいないようだが、完全に放置するわけにもいかない。だが迂闊うかつなことをすると、秋月に激怒されるのは確定だ。

 そうか、関係が切れてからにすればいいのか。後ろ向きの解決策が浮かんでしまって、虚しい気分になる。

 不意ふいに、曲がり角から人影が現れた。火口ひぐちだ。俺の方を見て、何故か驚いた顔をしているが……。

 違う、見てるのは俺じゃなくて、後ろだ。その時初めて、俺は冬野がついてきていることに気づいた。いや、知ってはいたはずだが、意識していなかったのだ。

「冬野さん、大事な用事があるって言ってたのは……」

 火口は硬い表情だ。胸の前で両手を振りながら、冬野が慌てたように言った。

「違うの、氷室ひむろ君とってわけじゃなくて」

 そこで言葉を詰まらせた。説明はしたいが、矯正プランのことは話したくないというところか。焦りの表情を向けられたが、俺を見られても困る。

 と言うか、ちょっと待て。ややこしい状況に巻き込まれている気がする。

 どうも冬野は、誘われたのを大事な用事があると言って断ったようだ。火口の様子を見るに、そのお誘いも重要なものだったんだろう。なのに俺と二人でいるところを見てしまって……。

「いや、否定する必要はないよ。何が大事か決めるのは冬野さんだからね」

 火口はそう言って笑顔を見せたが、明らかに引きつっている。まずい、誤解を解かなきゃならないんだが、下手なことを言うとプランのこともバレてしまう。冬野と合意を取らずに話すのはそれはそれでマズいし……。

 頑張って考えたのだが、無情にも制限時間が来てしまった。火口は最後にちらりと俺の方を見ると、何も言わずに去っていた。あー……。

 俺はため息をついた。あれだな、先生に仕事を頼まれたとでも言っておけばよかったな。たぶん口裏を合わせるぐらいしてくれただろう。

「悪いな。説明するならついていくが……」

 面倒だが仕方ない。二人が付き合ってるのかどうかは定かではないが、もしこの件が原因で別れたりしたら、さすがに寝覚めが悪い。

 だが冬野は、首を縦にも横にも振らなかった。俯いたまま、ぶつぶつと何かを喋っている。

「やっぱりだめ……もう無理……すぐしないと……」

「……ええと、冬野さん?」

 不穏な言葉に、俺は心配になって尋ねた。すると、

「ねえ、ちょっといいかな」

 顔を上げた冬野を見て、俺はぎょっとした。

 こいつ、目の色が尋常じゃない。追い詰められ、後が無くなった人間の顔だ。

「な、なんだ?」

「誰も来ない所で、話したいな」

 いつだか、同じような台詞セリフを春日井から聞いたが、その時のようにドキドキしたりはしなかった。鼓動こどうは乱れたかもしれないが、それは困惑のためだ。

 火口の誤解が原因でこうなったのか? いやあんなの、ちゃんと説明すれば分かってくれるんじゃないのか。でも他に、何が?

「だめ、かな……?」

「わ、分かった。行こう」

 弱々しく尋ねられ、俺は慌てて頷いた。ここで断ったら、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。

 向かったのは階段の一番上、鍵のかかった屋上への出口の前だった。まさか、一週間で二度来ることになるとは思わなかった。しかも、女子と二人で。

「ここなら人は来ない。で、何だ?」

 俺はそう言ったのだが、冬野はしきりに周囲を気にしていた。そんなに他人に聞かれたくないことなのか。

「氷室君」

 意を決したように、冬野は話し出した。

「秋月さん助けてるって、本当?」

「ああ、まあ。矯正プランのことなら手伝ってる」

 だが内容を聞いて、俺は拍子抜けしてしまった。確かにプラン云々うんぬんは内緒にしたいが、そこまで気を付けるほどでもないだろう。

「誰に聞いたんだ? あ、春日井か?」

 カフェの時かな。秘密にしておくと言ってた気がするが、まあ春日井だしな……。

 質問には答えずに、冬野は言葉を続けた。

「氷室君が助けてるから、秋月さんは成績が良くなったんだよね?」

「成績予測が? まあそうかな」

 ほとんど偶然のようなものだが、結果的にはその通りだ。俺の言葉に、冬野は救いを見たかのように目を輝かせた。

「じゃあ、私のことも助けてくれるよね?」

「え? いやそれは……」

 待て、どうしてそうなる。俺はボランティアじゃないんだぞ。秋月は流れで助けることになったが、冬野の面倒まで見る義理はない。それに仮に助けたところで、たぶんこいつが期待するようにはいかないだろう。

「助けてくれないの?」

「いや、待ってくれ。そもそも秋月の成績予測が改善したのは俺のおかげというより、半分以上偶然で……」

「秋月さんは上手くいったじゃない!」

 感情的ヒステリックに叫ばれ、俺は閉口した。いやだから、それが偶然だって言ってるんだが……話が通じない。

「お願い、助けて。助けてくれたら、私、何でもする」

「何でもってお前、軽々しく言うなよ」

 ちょっと呆れてしまった。必死なのは分かるが、何でもするは無いだろう。口約束だけして後でどうとでもごまかせると思われているなら、さすがに腹が立つ。

 しかし、冬野ってこういうこと言うやつだったのか。ちょっと驚いたな。円滑なコミュニケーションのためには必要なスキルなのかね。

 皮肉げに思っていたが、本当に驚くのはこれからだった。

「軽々しくじゃない。ほんとだよ。ほんとに、何でもする……」

 冬野は俺の手を握った。それだけでもぎょっとしたが、その手を、自分の胸の膨らみへと押しつけた。

「ね、ほんとでしょ? だから、助けてよ……」

 近づきながら、俺の手をゆっくりと下げていく。お腹に触れ、その下に行き、スカート越しに太ももを掴む。

 俺は何の抵抗も、いや反応すらもできなかった。目の前の光景が、現実のものとは思えなかった。目に異常な光をともしたクラスメイトの女子が、自分の体を強引に触らせている、だなんて。

「キスもしよっか? し、舌も入れた方がいい……?」

 冬野の整った、だが酷く歪んだ顔が、触れそうなほど近づいてきて……。

「やめろ!」

 ぎりぎりのところで、俺は自分を取り戻した。相手のことを気遣う余裕もなく、柔らかな体を突き飛ばす。冬野は足をもつれさせ、ぺたりとその場に座り込んだ。

「ねえ、助けてよ。助けて、助けて……」

 精気の抜け落ちた顔で、譫言うわごとのように繰り返す。俺はぞっとした。ただただ恐ろしかった。

「分かった、分かったって!」

 恐怖から逃れるためだけに、俺は言った。冬野の表情に、力が戻った。

「よかった……ありがとう……」

 立ち上がると、再び俺の手を握った。さっきのことを思い出してぎくりとしたが、両手でぎゅっと包むだけだった。まるで救世主にでも会ったかのような顔だ。

 くそ、受けると言ってしまったな。無理矢理言わされたようなものだが、今更断れない雰囲気だ。というか、もし断ったりしたらいったい何が起きるのか、怖くて考えたくない。

「とにかく、今日は助ける方法を考える。明日には伝える。それでいいか?」

 冬野は安心しきった表情で、こくこくと頷いた。

 本当なら、今から生活記録ライフログデータをもらったり、話を聞いたりするのがいいんだろう。でも、今日はこれ以上冬野と関わりたくなかった。精神的な疲労が限界だ。

 階段を降り、冬野と別れてようやく一人になって、俺は特大のため息をついた。

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