第7話

 春日井かすがいと別れて、俺はどこに行くべきかを考えていた。

 ピアノの音を遠くに聞きながら、廊下を歩く。もちろん、正解は分かっている。部室に戻り、さっき言われたことなんて全部忘れて、楽しい分析の続きをやればいい。それが一番効率がいい。

 そのはずなのに、どうにも気が進まなかった。春日井の必死な顔や、生徒指導室での秋月あきづきの不安げな顔が頭に浮かぶ。

 足は自然と、部室とは逆に向かっていた。ピアノの音が、だんだん大きくなってくる。激しく、感情を叩き付けるような演奏。

 これを秋月が弾いていることを、俺は知っている。ピアノのある部屋とパソコン部の部室が同じ方向だから、放課後よく廊下で一緒になるのだ。一緒になるとは言っても、もちろんお互い会話したりはしない。

 もやもやしているうちに、周囲が静かになった。秋月は練習を終えたんだろうか。

 何となく、ピアノのある音楽室に近づく。やっぱり助けてやろうだなんて、決心したわけじゃない。

 でもそこで、見てしまった。

 部屋から出てきた秋月は、ひどく憔悴しょうすいした顔をしていた。疲れているのか、精神的なものか、それとも両方か。すれ違う俺に気づきもしない。

 凜とした表情が、失われていた。美しいものに傷が付くのは、大きな損失のように思えた。

 声をかけなければならない。俺は理屈抜きでそう決断した。

「秋月」

 ゆっくり振り返ると、ぼんやりと俺を見た。話しかけるなと言われるかと思ったが、そんな気力も無いようだった。

「何落ち込んでるんだよ。似合わないぞ」

「……」

矯正きょうせいプランが気に入らないのか? 早く抜けられるように手伝ってやっても……」

「あなたには関係ないでしょ」

 だが秋月は、暗澹あんたんたる面持ちで言った。これ以上踏み込むのを拒否するかのような口調だった。

「秋月みたいな美人が落ち込んだ顔してたら、もったいないだろ。俺はそういう無駄が嫌いなんだ」

 思わずムッとして言い返した。自然と出てきた言葉は、妙にしっくりした。

 そうだ、俺は自分の都合でやってるだけだ。相手のためを思ってるわけじゃない。

 すると、秋月はぽかんとした顔をした。徐々に、頬に赤みがさしていく。

 あれ、何か変なこと言ったか。自分の発言を思い返すと……。

「いやその、美人というのは客観的に判断してるだけで、秋月が好みとかそういうわけじゃなく……」

 もごもごと言い淀む。まずい、これ以上喋ったら墓穴を掘る気がする。もう十分穴は深い気もする。

 秋月は、真っ赤になって黙り込んでいた。俺も似たようなものだろう。いたたまれない。

「……あなたがそんなに軽い男だとは思わなかった。暗い男だと思っていたけど」

「暗い方で合ってるよ……」

 気まずさをごまかすような言葉に、俺は疲れたように返した。秋月はいつもの調子が戻ってきたようで、何にせよ良かった。良かったか……?

「それに、あれだ。俺も矯正プランなんて早く抜けようと思って、自分の生活記録ライフログを分析してるんだよ。で、秋月のデータも欲しいんだ。そしたらついでにお前の分析もできるぞって話だ。だから協力してくれ」

 俺は早口で言った。嘘はまあ、言ってないと言っても過言ではない。早く終わらせようなんて思ってたかどうかは忘れた。

「協力すれば、あたしも早く終われるの?」

「約束はできないが、そうなるよう努力はする」

 言いながら、俺は早速その手段について考えていた。要するに、成績が下がるというAI予測がくつがえればいいんだよな。

 矯正プランに従えばそれでいいんだろうが、あれはどうも迂遠うえんに思える。確実性を重視して、手間や期間はあんまり考えてないんじゃ無いだろうか。重要評価指標KPI、つまり何を重視するかによって、結果は全く変わるものだ。

 だとしたら、不確実だが期間を大幅に短縮できる手段があるかもしれない。例えば、成績が落ちる根本原因の候補を挙げて、片っ端から潰してみるとか。

「わかった。……協力する」

 しばしの間のあと、秋月はぽつりと言った。俺は何となくほっとしたような気分になって、小さく息を吐いた。

「秋月はあのプランのどこが気に入らないんだ?」

 ふと気になって聞いてみた。俺が別の手段を提供するにしても、それが嫌がられたら意味がない。

 すると秋月は、少し間を置いたあと、言った。

「予定があると集中できないの。ピアノの練習もする気になれない」

「あー、分からんでもない」

 俺は同じような傾向はあるな。一時間空きがあっても持て余す。マルチタスクが苦手で、隙間時間を上手く使えないタイプだ。

「それで、どうすればいいの」

「とりあえず、ライフログだな。取得の仕方分かるか?」

 首は横に振られた。まあ、普通はそうか。

「じゃあパソコン部の部室に行こう。やり方教えるから」

「わかった」

「他にもいろいろ聞いたりするかもしれないが、しばらくよろしく頼む」

 俺は右手を差し出した。差し出してから、いやこれは良くないのではと思ってしまった。女子に握手を求めるなんて……。

 慌てて手を引くと、ちょうど秋月が手を出しかけたところだった。え、握手してくれようとしたのか? 待ってた方がよかった?

「……よろしく」

 秋月は憮然ぶぜんとした様子でそう言うと、ごまかすように手遊びをしていた。なんだか締まらない感じになってしまったが、とにかく二人の協力体制が始まった。

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