深想ノクターン

良倉桂香

営業前準備

 この町は治安が良いとよく言われている。しかしそれは昼間の話。夜は一変し、たった五分の散歩さえ躊躇われる危険と隣り合わせの場所だ。君はそれをよくよく実感しただろう。

この町の五丁目、一番細い路地裏。突き当り、地下へ行く階段の先にバーがある。君の人生を変えたければここに行くと良い。あぁ、ドアマンにこの紹介状を持っていくのを忘れないように。それでは、よい夢を。

-端末に残っていたボイスメッセージ-



 ふと意識が浮上した。そして顔も知らない男のボイスメッセージを聞いた。今思えば、よく端末を持ち去られなかったなと驚く。

 この声の言うように、確かに治安が良いのは昼間、それも表通りに限る。そうでなければ今、路地裏に自分のような人間がいるわけがないわけで。

 気付けば壁に寄りかかりながら歩いていた。配管が壊れ、落書きのされた廃墟ビル。ゴミ袋に集るハエとカラス。腐敗臭のするゴミ箱。そこから飛び出ている……おそらく人間の手。指が五本あったからたぶんそうだ。こんな光景にもだいぶ慣れてしまった。

 最後に食事をしたのはいつだったか、もう吐く物もない胃は未だ胃液を押し出そうとしている。喉の奥の熱さや苦みにももう慣れた。空腹感もとうの昔に消えている。髪もきしみ、服だって土埃にまみれている。これでも数週間前までは普通に暮らしていたはずなのだけれどと、口を歪めた。

 道中は何人かとすれ違った。皆同じように、死んだ目をしている。おそらく薬でもやっているのだろう。自分は運が良かったと、そう思うしかないようだ。

 自分がこの町に来たのは六日前。土地勘なんてあるわけもなく、そもそも一丁目がどこかすら分からない。ない体力を酷使して、やっと辿り着いた五丁目、一番細い路地裏の突き当り。

 歩き始めたのは昼のはずだったが、どれだけ迷っていたのか空はオレンジ色より紫や紺色が濃くなっている。痛む素足を引きずって行くと、ドアマンらしき男に止められた。

「こんばんは。申し訳ありませんがお客様、当店は一見様をお断りさせていただいて……おや、紹介状をお持ちなのですね。拝見いたします。

……はい、ありがとうございます。確認できました。

では店内にご案内いたします。当店については、歩きながら簡単に説明いたしますね。

まずここの客のほとんどは日陰を歩む者、つまりは裏の者です。マフィア、詐欺師、殺人鬼、人身商人、エトセトラ……。ええ、物騒ですよ。

次に当店では、二つだけルールが存在します。


一つ。店内での差別、殺し合いを行わないこと。

一つ。会話を含む店内での出来事は、例外なく外に漏らさないこと。


これさえ守っていただければ、夢のように騒がしく楽しい時間をお約束いたします。

最後にもう一つ。

ここに来てしまった以上、貴方もこちら側の人間となったことをお忘れなく。

それでは私のご案内もここまでとなります。お客様、よい夢を」


 

 こちらの返答など何も聞かず、薄暗い店内に案内された。初めて見る顔だと言わんばかりに客からの視線が集まる。カウンターの優男、ボックス席で女を侍らせた大柄な男。空想で語られるような、人間ではない者もいるように見える。どう見てもこんな小汚い格好でいるのは場違いだ。

 カウンターの奥では、ここのマスターらしき男がグラスを拭いている。少しくらいはこちらを気にしてほしい。あのドアマンもなんなんだ。話すだけ話して何も分からないままここに放置された自分の身にもなってほしい。

 視線に耐えられず俯くと、コツコツという音と共に赤いヒールが目に入った。濃く漂う花の香りに顔を上げれば、人間かどうか疑うくらい肌の白い女が立っていた。

「あなた、こちらに来なさいな」

 華奢な見た目に反して強い力で腕を引かれる。いや、自分が弱っているだけかもしれない。床の段差に躓きながらカウンターに連れて行かれると、先ほどのマスターらしき男の前に座らわれた。そこでやっとその男は自分を見た。

「あぁようこそ。新しいお客さんだね」

「ようこそじゃないわよ。いつまで放っておくつもり?」

「あはは。どうするのか見ていたんだよ」

 彼らは自分のことを話しているようだけれど、上手く声が出ない。

「それにしてもあなた、酷い格好ね。喋れる?」

 声が出ないというジェスチャーをする。男が、あぁ声が出ないんだねと言って水をくれた。こういうことはすぐに分かるようだ。

 久しぶりの安全な水。喉を通る冷たさ、わずかに感じる甘さ、体中に染み渡るような感覚。水ってこんなに美味しいものだったっけと思考する。出そうと試みた声は、もう何か月も出していなかったかのように枯れている。幾度か咳き込み水を飲み、を繰り返す。他の客からの視線がまだ痛い。

「……ぁ、あー。あぁ、何とか」

 自分ですらとてつもなく久しぶりに聞いた声。こんなに低かっただろうか。

「良かった。ここに新しいお客さんが来るなんてしばらくぶりだから、みんな興味津々なのよ。ねぇ、どうしてここに来たの?」

「それは僕も気になるなぁ。一人客なんて珍しくないけど、経緯はやっぱねぇ」

 初めに無視しておいてよく言うと目で訴えた。意図には気付いているはずなのに、変わらず胡散臭い笑みを貼り付けたままこちらを見ている。

 文字通り肩を落としてのため息。頭から少し、カウンターに土埃が落ちた。

「……面白くもなんともない話だよ」

 生まれは隣の水に恵まれた町、通称ブルーシティ。いたって普通の家、普通の教育、普通の友達がいた普通の人間。普通の仕事をしながら、少し小説を書いていただけの人間。まぁ、全く売れないし閲覧数も伸びないし、本当に自己満足だったわけなんだけれど。でも、まさか仕事から帰ってみたら家がもぬけの殻なんて、読んできた話の中だけの話だと思うじゃん。それからはいつの間にか自分に降りかかってた借金の取り立てだとかで追いかけられるし、仕事はクビになるし、知らない町に来るしで今に至るわけ。そこで知らない男にここに行けって言われて、更に今に至る。

 という説明を、先ほどのドアマンよろしくつらつらと語った。休憩。水を飲む。

 グラス一杯分を飲み干す間、他の客は静まり返っていた。そういえばここに、取り立て屋がいたらということを考え忘れていた。まぁもう遅いか。

「ボウズ!そりゃ辛かったなぁ!」

 まさにドッという音がしそうなくらいの勢いで、後ろのボックス席にいた大柄な男が肩を組んできた。酒臭いし腕が首に入っていて苦しい。まさか取り立て屋か。

 その声を皮切りに、他の客まで押し寄せてきた。辛かったなとか可哀想だとか、怪我の手当てが先だろうとか色々聞こえて来た。とりあえずこの腕を離してほしい。

「はいはいそこまで。死んじゃうわよあなた」

 先ほどの女が間に入ってくれた。少し咳き込みながら座り直す。

「どうも……まぁそんな感じ。薄い話かもしれないけど」

「いやはや、壮絶な体験で」

「ほんとに思ってる?」

「もちろん」

 先ほどの女とマスターらしき男は内緒話を始めてしまった。その間は他の客に、何がしたいとか何が食べたいとか、欲しいものはないかとかすごく聞かれた。今のところは最低限の衣食住が保障されたいとしか言えない。ならうちに来ればいいとか、うちの使用人をしないかとか誘いを受けた。どう答えるのが礼儀なのか分からない。とにかく圧がすごい。

 目が回り始めたところでやっと話が終わったらしい。女がまた間に入ってくれた。

「うんうん、君の境遇はよく分かった。見た目も体調も酷いし、どのみちしばらくはまともな生活に戻ることに専念しないとだよね」

「分かってても見た目をディスられると傷付くよな」

「ごめんごめん、事実だし。そこでだ、彼女と話をしてこうしようって思って」

 そう言うと男は、氷だけ入ったグラスを自分に差し出した。ひとまず受け取る。

「うん。……ようこそ僕のバーへ。グレーウォーカーは君を歓迎するよ」

「あ、抜け駆けだぞマスター!」

「ふふん。こういうのは速さが命だからね」

 場を理解できていないのは自分だけのようだ。グラスの氷が手の温度で溶け始めている。

「ここに住んで働けばいいってことよ。私は良いと思うけれど」

「え」

 そういうことらしい。晴れて衣食住と仕事を手に入れたものの、あまりにも雑なマスターにこの先を案じるしかなかった。女がこちらを見て微笑んでいたのは気のせいではなかったと思う。



 そのやり取りをしてから三十分後。自分はあの女と共に浴室にいた。

「……しみる」

「仕方ないでしょう、傷だらけなんだもの」

 化膿しかけていた足、ボロボロになった爪、切り傷とかさぶただらけの両手。人はこんなにも簡単に醜くなるのだと感心すらした。

 簡単に手当てを受けたものの、招かれていた医師からは一度清潔にしてこいと怒られたためこうなっている。

「それにしてもよく分かったね。自分が女だって」

「あら、あんな見る目のない男達と同じにしないでほしいわ」

「ごめんごめん」

 初対面で随分無礼な話し方をしてるとは思う。今更だけど。

 かさぶたを剝がさないように、傷を開かせないようにと、撫でるように丁寧に洗われる。髪はもう何度洗われたか分からない。絡まって仕方ないと呆れられたくらいだったし。

 野良猫のほうが綺麗だとか、虫がついてないだけましだとかいう女の小言を聞き、あちこちの痛みに耐えながら洗われることおそらく小一時間。やっと終わったらしい。大きな白いタオルでくるまれ、そのままソファに座らされた。タオルは女と同じ花の匂いがした。溜まっていた疲れなのか、久々のお湯の温かさになのか、欠伸の出る回数が増えてくる。

 少しだけ目を閉じたつもりだった。次に目を開けたときにはあの女に頬をつままれてはこねられていた。さすがに両の目を見開かずにはいられないよね。

「え、と……?どういう状況?」

「あら、起きたのね。よっぽど疲れていたのかしら」

 手を離されると、座っていたソファの前には鏡が置かれていた。映っているのは当たり前だけれど

「しっかり寝ていたから、勝手に整えちゃったわ。おかしくないか見てちょうだい」

 まぎれもなく自分の姿だった。

 伸び放題だった髪はあごのラインで切り揃えられ、体中の傷にはガーゼと包帯が巻かれていた。服も傷に障らないようにとゆったりしたものに変わっていたし、爪も自分のものかと疑うくらい整えられていた。前の自分の姿なんて実はあまり覚えていないし、これはこれで心機一転、新しい人生のスタートとでも思えば良し悪しなんて気にする必要はない。

 その旨をそっくりそのまま伝えれば、女は分かっていたみたいに「でしょうね」なんて言ってのけた。完全にあちらのテンポに乗せられている気がする。

「じゃあ私はこれで一度帰るわ。あとはマスターに頼むことね」

 そう言って、ヒールの音を響かせながら部屋を出て行った。やっぱり乗せられている。

 

 その後マスターから聞いたのは、医師が『傷が塞がるまで激しい動きをしないこと。食事をしっかり摂ること。寝ること』とものすごく念を押して帰って行ったということ。特に栄養状態が著しく悪く、足に関してはもう少し放っておいたら機能しなくなっていたと。何となく分かってはいたけど、そこまで酷いとは思わなかった。人の身体ってほんとに繊細だよなとか考えながら、自分の部屋だと案内された部屋でくつろいでいた。

「人の身体ってすごいなーとか思ったでしょ」

 読心術でもあるのかこの人は。

「まぁそれは置いといて。これからの君の処遇ね。基本はうちで働いて、住んでもらう。ちゃんと面倒は見るから安心してね。てかそうしないとあのお嬢様に絞め殺される」

 僕の命もかかってるから、君もしっかり休むようにと言われた。喜ぶべきなんだろうけど、何だろうこの、妙に素直に喜べない感覚は。十中八九この男のせいだとは思うけれど。

「あと親御さんの借金だっけ。これもうちのツテでどうにかしよう。君に責任はないっていうのは、その道のプロに調べさせればすぐだしね」

 妙な気分なのはともかく、ともこうして生きる道を与えられたことには礼をすべき。その良心はまだあった。でも開こうとした口には指が当てられていた。

「お礼は全部片付いたらね。まだその言葉は取っておくと良いよ」

 やっぱり読心術でもあると思う。

 

 それからマスターは着替えやら何やらを置いて、呑気に鼻歌を歌いながら出て行った。寝転がれば傷は痛むけれど、清潔な空間で寝られる安心感に勝るものはない。医師に処方された薬を飲み込み、目を閉じた。いい夢が見られるような気がした。

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