第6話 契約
……ローブ、……ローブ。
誰かが俺を呼んでいる気がした。
世界の色が形を失った。
呪術外法など、本当は使う必要がなかった。
俺は、俺は……、何をしているんだ?
もう全ては手遅れなのに…………。
彼女の声が聞こえる。
エリーシア、君の声が聞こえる
涙が溢れて来る。
何故だ、何故、俺は泣いている。
ああ、唄っているんだ、エリーシアの声にまざって、幼いラウの声も聞こえる。
俺はそっと近づいてみた。
きれいな花が咲き誇る我が家の小さな庭。2人は仲良く俺が作った木製のベンチに座っている。暖かいお日様の光を浴びて、エリーシアとラウが楽しそうに唱っている。
ははは、ラウの頭にはエリーシアの作った花飾りが乗せられ、すっかりご機嫌でニコニコしているな。
ああ、俺は幸せなんだ。
このかけがえのない時間を、何よりも大切に想っている。
「ローブ、ねぇ、ローブったらぁ! 聞いてる?」
「ああ、聞いてるよ、ラウの誕生日の事だろ?」
商会の仕事で疲れていた俺は、夕食で腹が膨れるとついぼんやりしてしまい、エリーシアに怒られてしまう。彼女の怒った顔はまるで怖くなくて、近所の子猫と遊ぶ時みたいに、思わず和んでしまうのは内緒だ。
俺は戦乱の続く辺境国で孤児として育ち、幼馴染のエリーシアと一緒に国を飛び出した。そして比較的安全なこの小国ベルメ共和国に辿り着き、運よく小さな商会の仕事にもありつけた。だから俺は彼女と結婚した。そして一人娘のラウも生まれ、このささやかな幸せに満足している。
「でね、ラウはペットが飼いたいらしいの」
「ぺ、ペット? 何かあったのか?」
ラウは明後日で4歳になる。
エリーシアに似た明るいオレンジ色の瞳に俺と同じブラウンヘアー、無邪気な我が家の天使様だ。
「街でね、白い大型犬を見て、モフモフ、モフモフってずっと言ってるの。とても欲しいみたい。でもね、……飼うのは大変でしょ?」
「へぇ~、大型犬とラウかぁ、これはめちゃくちゃ可愛いなぁ、たまらないぞ、良し飼っちゃおう!」
「ええっ! 結論はやっ! もう、ローブはラウに甘々なんだから。ほら、顔がにやけ過ぎ!」
「だって我が家の天使、ラウ様のご所望だぞ。それに番犬にもなるし、なぁ、飼おう、 エリーシア」
「もう、仕方ないなぁ、多分私がほぼ世話をするんだけど……、まぁ、いいかぁ。私だって子供の頃から大きいワンちゃん欲しかったし、思い切っちゃおうか!」
「ようし! 決定だぁぁぁあ!」
翌日、俺は早速愛しい我が家の天使様の為に、商会で大型犬の仔犬を手配した。折良く東洋のアキータと言う種類の白くてモフモフした仔犬がいた。少し高かったが余りの愛らしさに惚れてしまい、速攻で買ってしまった。うん、これでラウも大喜びだろう。
誕生日を迎え、エリーシアのお手製ケーキとラウの大好物ばかりを集めた晩餐。そして最後に尻尾を元気良く振るアキータの仔犬を抱え上げ、瞳を見開いて驚くラウに渡すと、もう狂わんばかりに大喜びした。
「パパ、だいしゅき!」
そう言ってラウが抱きついて来てほっぺにキスしてくれた。もう俺はこの世に思い残す事は無い! と拳を握り締め泣きそうな位の感動に打ち震えていた。
「ローブ、にやけ過ぎ!」
「ははっ、エリーシアも来いよ」
俺はソファでラウとエリーシアを抱きしめて、2人にキスをした。別に金持ちの貴族様でなくったって、こんなに幸せになれるんだ。
その日、俺はラウを膝の上にのっけて、エリーシアと3人で仔犬の名前をずっと一緒に考えていた。俺の言う名前は何故か2人から「う~ん、絶対駄目!」と不評だったが、いいんだ、とても幸せな夜だから。俺はそんなささやかな幸福を噛みしめていた。
翌日、エリーシアが殺された。
仕事が終わり帰宅すると、夜なのに住み慣れた我が家には灯りがなく、慌てて扉を開くと、キッチンでズタズタに切り裂かれ、血だらけになったエリーシアの酷い死体があった。
苦しみ、泣き叫んだ死に顔。
もう動かない見開いたままの彼女の瞳。
何度もつないだ彼女の細い手。
子供の頃からずっと一緒だったエリーシア。
その笑顔のおかげで、俺は今日まで生きて来れた。
エリーシア……。
「うゎあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
俺は頭が砕けそうな悲しみに、気が狂いそうになった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
床を何度も、何度も激しく叩き、拳に血が滲み、俺の血がエレーシアの流した血と混ざる。
誰が、なんで、なんで、なんで、絶対に、絶対に、見つけ出して殺す!
止めようもない憎悪が、暴れ出しそうな殺意が、取り戻せない悲しみが、俺を絶対の復讐と言う殺戮へと駆り立てる! 殺す、殺す、殺す!
俺は情けない事に、そこでラウが居ない事に気がついた。
そうだ、ラウ! ラウ、どこにいるんだ! ラウ!
焦り部屋を見渡した時、ふとエリーシアの脇に、血に埋もれたメッセージカードが置かれているのに気が付いた。
特殊な呪式、剛武殺儀流冥府派の隠し文字。
そこには、奴らがラウをさらったと書かれていた。
ロマニエフ! 反吐が出る!
貴様らが、エリーシアを殺し、そしてラウを!
俺は焼き付くような憎悪と激情と焦燥を胸に、1人でエリーシアの亡骸を彼女の大好きだった場所に運んだ。ラウと三人でよくピクニックにお出かけした花が咲き誇って見晴らしの良い小高い丘だ。そこに彼女を手厚く埋葬すると、俺はこの国を飛び出した。
「皆、少し下がれぇ、来るぞ!」
私の振るう精霊王の戒杖から放たれた虹色の光彩は、コントラクトの禍々しい闇を凌駕し、暗い不吉をまるでガラスの様に砕き、悪しき不可視の領域を打ち破った。それは眩い清き光彩が、穢れを斎戒沐浴する様に全てを浄化してゆく。
だがその瞬間、世界がドクン! と脈打ち、目の前の空間を激しく引き裂くと、十数メートルを超える黒き絶望がその姿を現した。禍々しくも異様に手足の長いユラユラする異形なヒトガタ。
イグジスタンス。
呪術外法を成立させる黒き精霊達の祖にして全。不可侵の領域に棲む鬱々たる集合意識。
千年を超える昔、ミレミアス教がカルト教団の行った呪術外法を、伝説の精霊王の戒杖で粛清しようとした。杖で外法を打ち破った瞬間、突如それが顕現し、聖女と集まる高名な神官736人を虐殺。さらに教徒180万人が暮らす国を滅した。
現れた災厄はイグジスタンスと名付けられ、これはミレミアス教の最大の悲劇として現代に語り継がれる。以来、精霊王の戒杖は使用を禁じられた世界のタブーとして闇に葬られた。
「ザック、行けぇぇ!」
私の叫び声と同時に、剣を掲げたザックが爆速で猛然と地を蹴った。
「うおぉぉぉらぁぁぁああああ!」
賢霊珠の指輪を5つ装着させ過剰に倍化したザックの戦闘力は、現時点で人類最強であるのは間違いない。既に剣速は光速を越え、私にはただ無数の光が乱反射する様にしか見えない。
ズバッ!
空を飛び、一太刀の音のみで無限の刃が刻まれた。イグジスタンスは一瞬にして細切れになり、砂の様に崩れる。だが、すぐさま再び世界がドクンと脈打ち、ザックが着地し振り返った瞬間、その姿はあっけなく元に戻っていた。
ふむ、聖伝通りだな、奴は不死身だ。なかなか愉快な災厄だ。
「ザック、構わん続けろ!」
私は事前に指示していた通りに、ザックに攻撃を続けさせた。
再びザックが猛然と切り返し、足元の土煙が巨大な砂嵐の様に巻きあがり、もう一度無限の剣閃が放たれようとした時、今度はイグジスタンスがその身体を奇妙にゆすった。
「ムァァァアァァァァアアアア!」
漆黒で目鼻のない不気味な黒い頭から、奇妙な耳鳴りのような不快な叫び声。その途端、ザックを囲う全方位の空間が裂け、一帯から無数の巨大な細長い手が茨の様な黒雷と黒炎を発しながら襲った。
「うおらぁぁぁぁああ、舐めんなぁぁあああ!」
例え剣聖であろうが回避不可な攻撃に対し、ザックはただその高められた身体能力のみで挑み、その全てを叩き切った。
同時にイグジスタンスがその巨体からは考えれない速度で奇妙に振動する如く移動し、体から同じ様な黒雷と黒炎を発する無数の長い手が膨大な量で生える。そして暴力的でダイナミックに体を使い、空を跳ね、大地を破壊し、無限に湧くブラックレイドを従え、暴虐を振りまく無数の攻撃がザック目掛けて叩きつけられた。
「らあああぁぁぁあぁぁああああああ!」
だが、ザックは神速の反応で瞬時にそれら全てを切り刻み、逆に凄まじくも巨大な幾つもの雷光を怒涛の勢いでイグジスタンスに打ち込んだ。
それでも猛り狂う黒き精霊の動きは止まらない。暴力的で圧倒的な黒い手が黒雷と黒炎を纒い次々と生まれ、この場所の空間を焼き切る様に次々と歪ませ、最早人なる生き物が存在出来ぬ程、虐殺的な闇が膨れてゆく。
だがそんな地獄の業火の中、ザックは巧みにイグジスタンス誘導し、私の立つこの地から遠ざけていた。
「ロマニエフ、待っていろ!」
俺はただ復讐だけを拠り所に行動していた。
孤児だった俺はロマニエフの幼児誘拐に遭遇する。奴らは性奴隷として多くの子供達を売買していた。その手口のひとつが辺境の多くの国で内乱を起こし、あぶれた子供達を誘拐する。最低の屑野郎達だ。
だが誘拐した中で才能のある子供は別枠だった。奴らの道具として、呪術外法を用い洗脳し、暗殺者や構成員として育てる。卑劣で終わりのない負の連鎖がそこにあった。
幼い俺は国内に隠蔽された支部の一つで、剛武殺儀流冥府派の技を叩き込まれた。暗殺術と魔術、そして呪術外法。エリーシアともそこで出会った。回復術の得意な彼女は、俺達道具の延命要員として組織にいた。毎日仲間と殺し合いをする俺達を、彼女は優しく癒してくれた。俺はいつしかこの地獄の中で、彼女に恋心を抱く様になっていた。そしてエリーシアも俺の気持ちに応えてくれた。
俺は手に入れ高めた呪術外法を使い、奴らの束縛から離れ、絶対の覚悟でエリーシアと共に組織を抜け、遥か遠方、辺境の小国ベルメ共和国に逃げ込んだ。
だが、十年近く平穏だった幸せな時間も、終わってしまった。
エリーシアを失くし俺の手の中に残ったのは、滾る暗い炎を纏った復讐心だけだ。そして俺達の愛するラウだけは何としてでも取り戻さなければならない。
3週間かけてトリスティアナ王国に辿り着き、深夜悪鬼共が巣くうロマニエフの屋敷に潜入した。ここにいる全ての人間を殺す、そんな衝動を辛うじて抑え、一刻も早くラウを探そうとした時だった。
暗がりの庭園に潜む俺に向け、屋敷の扉が大きく開け放たれ、車椅子に乗るロマニエフの老当主と見知った剛武殺儀流冥府派の首魁を含む幹部クラスの使い手達、さらに大勢の近衛騎士団が突如として現れた。その傍らには、ぐったりとしたラウが騎士達に支えられているのが見えた。
「ローブ、いるのは判っている。呪術外法でこの娘を使い、お前の行動は全て把握している!」
俺は燃え滾る怒りのままに立ち上がった。
「ラウに何をしたぁぁあああああああああ!」
激情のまま凄まじい勢いで一気に騎士団に飛び込もうとした時、剛武殺儀流冥府派の頭領がラウの首に手をかけた。
「娘が死ぬぞ!」
俺は全身から迸る怒りを必死で抑え、どうにか立ち止まり、奴らを膨れ上がった殺意のまま睨みつけた。
「……何をした!」
「なに、呪石化の呪術を掛けただけだ」
それを聞いた瞬間、破裂しそうな怒りで自分がどうにかなりそうだった。
呪石化の呪術は通常の石化とは違う。薬草や薬、さらに高度な神聖級魔術でも治らない。外法であるがゆえに、その身体は徐々に黒き精霊に捧げられ元には戻らない。ほっとけば一日も持たずに死ぬ。同じ呪術外法を用いても完治は決してしない。
「ふん、そんな顔をするな。例え高名な聖女でも無理だが、我が組織の特級呪術ヒーラーの外法を使えば、延命出来るのは知っているだろう?」
ロマニエフの誇る剛武殺儀流冥府派の特級呪術ヒーラー。呪術外法に特化したヒーラーだ。エリーシアもあのまま行けばそうなっていた外法ヒーラーだ。
「勘のいい貴様の事だ。もうわかっているだろう? 冥府派の特SSS級にまで上り詰めたその力を我々に差し出せ」
「エリーシアを、エリーシアを殺したお前らに、俺が従うとでも思っているのかぁぁぁ!」
「ああ、従うさ。子供は可愛いだろぅ?」
頭領のニヤ突いた下卑た笑い顔。俺は怒りで全身が震えている。そこにロマニエフの老当主が車椅子から立ち上がり、薄気味悪い笑顔を浮かべ、俺に手を差し伸べた。
「ローブ、君の有益な力が我々は欲しい。妻の復讐と娘の生存。どちらでも好きな方を取るといい。君の血で結ばれる、これは悪魔の契約だ、どうするかね?」
老当主の腐った嫌な声が、耳にこびりつく。正にこいつらは悪魔だった。
俺は最愛の妻を殺され、そして愛する娘を完治しない魔病にされ、その上で奴らに、この糞みたいなウジ虫共に、情けなくも従わうしか選択肢がなかった。
俺は全てと引き換えにしても、ラウの命だけは守りたかった。
それから6年、俺は命じられるがまま、様々な国々で様々な人々を殺しまくった。
感情がちぎれた。
俺はただ殺しまくった。
夜見る悪夢に何も感じなくなった。
俺はただ殺しまくった。
何かが叫んでいた。
俺はただ殺しまくった。
殺した。
殺した。
殺した。
薄汚い金持ちも、善良な騎士も、幸せそうな貴族の夫婦も。
俺は殺した。俺は殺した。俺は……。
ラウの命を消さない為に、ラウの存在を失くさない為に、ラウを愛し続ける為に。
俺は血の海に心を溺れさせ、多くの人々の人生を奪い、掻き消えない絶望を掲げ、ただ殺し続けた。
そして、ロマニエフが最も恐れる四大貴族筆頭・ビスタグス家に潜入し執事となり、緊急時には当主とその一族を虐殺する役目を負った。2年の月日が流れ、俺は信頼を得て筆頭執事になっていた。
「終わりにする」
私はザックとイグジスタンスの攻防を横目で見ながら進んだ。周囲をグロリアス達に守護され、隣にマリアを伴ない、コントラクト黒零双が消失したこの災厄の中心地、術者ローブの元に来た。
マリアが地に伏せていたローブの髪を掴みグイッと起こした。既に意識があるのかないのかわからない。その顔は滅紫に染まり、虚ろな瞳は赤銅を帯び漆黒の涙の跡と、口元からこぼれたどす黒い血が大地を染めていた。
「…………あ、うあ、あ」
変わり果てたローブの唇が微かに動き、言葉にならない声を発した。
マリアが言うには一旦発動した死累兇は、どんなに優秀な呪術外法の使い手でも止められない。
私は精霊王の戒杖を掲げた。この杖に隠された聖伝、七色の賢霊珠には精霊王からの言葉が刻まれていた。古のミレミアス教の聖女も神官も気が付かなかった盲点。私は偶然それを発見した。
その盲点とは、この世界唯一のレアアイテムを壊す事だ。祖父に貰った杖だったが、幼少の私はその後この杖にまつわる薄気味悪い悲劇を聞き、「気持ち悪い、いらない」と壊そうとした。完全に破壊し七色の賢霊珠が外れた時、その裏に言葉が刻まれていた。ちなみに壊したはずの精霊王の戒杖は、一定時間を越えるとすぐに修復されてしまう。
賢霊珠に刻まれた聖伝にはこう書かれていた。
【精霊とは人の味方に非ず。白きも黒きもまた同格。理を動かす事が元来悪である。それに気づき、この杖を破壊する愉快な人間にのみ、真実を伝える】
つまり、精霊という存在はあくまでこの世界そのものであり、人の利害とは無関係らしい。酷い話だ。それで大量の人間が死に、ミレミアス教は精霊信仰の教義を捨てた。聖伝にはそれでも理を歪める外法がある為、これを授けると書かれていた。
【この杖は顕現した全ての黒き精霊を打ち消す。その方法は……】
私はマリアに捕まれ、虚空を見つめる哀れなローブの側に歩み寄った。
「……、あ、うう……あ……」
惨めに蠢くのは呪術外法に支配され、かつてローブだった男。
もはや人を捨て、外法にまみれ、己の魂を贄に捧げた死人の残り火。
私は杖の賢霊珠を握り精霊王の戒杖を持ち代えると、その下端が美しくも鋭利に尖った。
「ローブ、さらばだ!」
私は一気に深く、杖をその胸に突き刺した。
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