第3話 ワインまみれになるなんて

「ハルさん?」

「失礼しました!!」


 依頼人、セレナ=トルマリアの問いかけにより、ハルシアは我に返る。


 セレナの語る婚約破棄の状況が、自分の経験と似通っており、ハルシアはつい回想に耽ってしまっていた。


 彼女の場合、不貞の噂が世間に広まってしまっている点で、ハルシアよりも酷い状況に置かれていると言えるが。


「実は私も婚約破棄されたことがありまして、その時のことを思い出していました」

「そうですか……。それはさぞ、お辛かったことでしょう」


 セレナは眉尻を下げ、気の毒そうに言う。ハルシアはへらりと笑って受け流した。


 正直なところ、ハルシアは過去の婚約破棄を引きずってはいない。

 今は仄かな悔しさと、仕事への熱意が残るのみだ。婚約破棄されて良かったとさえ思う。


(そんなことより、今は仕事に集中しないと!)


 気を引き締め、婚約破棄の状況について詳細を確認していく。


「ある日突然、身に覚えのない不貞を理由に婚約破棄をされたとのことですが、お相手は何か証拠をお持ちでしたか?」

「分かりません。私の元へは一通、婚約破棄を告げる手紙が届いたのみです」

「それを貴女は受け入れてしまったのですね」


 ご令嬢は静かに頷いた。毅然とした態度で質問に答える彼女だが、ほんの一瞬、深い悲しみが表情に浮かぶ。


「ご存知かと思いますが、お相手はイザク=ロスティランゼ様。理不尽な理由であっても、彼の希望とあらば受け入れない訳にはいきません」


 イザク=ロスティランゼは名前の通り王族で、シノ王子の従兄弟にあたる。低位ではあるものの、王位継承権を持つ人物だ。


「その場合、合意の上での婚約破棄であると見なされる見込みが高く、訴えて勝つのは厳しいかと」

「私はイザク様との関係を取り戻したいとは思っておりません。ただ、不貞などなかったことを証明し、トルマリア家の名誉を守りたいのです」

「なるほど。名誉毀損として訴えるということですね」


 過去、嘘の噂を流すことで商売に悪影響が出ていると、街の商店連合が商会を訴え、勝利を収めた事例がある。


 不貞の噂を広めた人物がイザクとは限らないため調査の必要はあるが、嘘であることの確固たる証拠が掴めれば戦うことができるだろう。


「ハルさん、どうか力を貸してください。このままでは姉様は表を歩くことができません」


 アレスが勢いよく頭を下げる。


 姉思いの優しい弟のようだ。黙って話を聞いている間も、彼は膝の上で握り拳を震わせていた。


 ハルシアは依頼人を不安にさせないよう、胸を張り、力強く返事をする。


「分かりました。その依頼、受けさせていただきます!」


◇◆◇


(自信満々に引き受けたはいいけど、調査の過程で何も出てこなかったら困るなぁ)


 依頼を受けた翌日の晩、ハルシアは王城で開かれた舞踏会に参加していた。女の姿で、だ。


 男にもダンスにも全く興味はないが、情報収集にはもってこいの場所だ。招待のあったものには、ウィスティー伯爵家の娘として顔を出すようにしている。


「セレナ様が不貞を働いた相手はどなただったのかしら」

「確かイザク様のご学友ではなくて?」


 ハルシアは壁の花と化し、噂好きのご令嬢たちの話に聞き耳を立てる。


「そのご学友というのはテッセル様のことよね。私は彼が浮気の現場を目撃したと聞きましたわ」

「イザク様と婚約しておきながら男漁りだなんて、流石トルマリア家のご令嬢。良いご身分ですわね」


 トルマリア公爵令嬢の婚約破棄は、未だ若い女性たちの関心の的らしい。


「セレナ様、気の毒よねぇ」

「そう? 自業自得ではないかしら」

「きっとイザク様にとっくに愛想を尽かされていて、他の男に走ったのよ」


 あちらこちらから話は聞こえてくるが、どれも似たり寄ったりで確度は低い。


(できればイザク様ご本人と、噂にちらほら出てくるテッセル様にお話を伺いたいところだけれど、どうしたものか)


 テッセルは三大公爵家にあたるハーゲン家の息子だ。とてもハルシアが面談を依頼できる相手ではない。王族であるイザクは尚更だ。


 セレナの弟に協力してもらい、約束を取り付けるか。うんうん悩んでいると、胸元に水がかかる。


「え?」


 何が起きたのか分からず、ハルシアは自身のドレスを呆然と見つめた。

 お気に入りの薄いブラウンのドレスは、濡れた部分が変色してしまっていた。被ったのは水でなく、ワインだということに気づく。


「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまいましたわ」


 豊満な胸を強調する派手なドレスの女は、空のグラスを片手にわざとらしく言う。


「声をかけてくださる殿方もいないようですし、今日はもう帰った方がよろしいのではなくて?」


 赤く紅の塗られた女の唇が弧を描いた。確かどこぞの侯爵家のご令嬢だ。

 故意にワインをかけたことは、彼女の挑発的な態度から明らかである。


 周りからはくすくすと笑い声が聞こえてきた。


 ハルシアは何か言い返そうとして口をつぐむ。騒ぎを起こし、社交の場に出られなくなるのは困る。


「……そうですね。そうします」


 怒りをぐっと堪え、ハルシアは笑顔を作る。

 何故このような嫌がらせを受けたのか、心当たりがない。泣きたい気分だが、泣き喚いたら相手の思う壺だ。


 一礼をし、立ち去ろうとした時だった。壁際に一番縁遠い存在であるはずの第二王子が颯爽と現れる。


 嘲笑がぴたりと止んだ。


「ああ、これは大変だ。おいで、すぐに替えのドレスを用意させよう」


 シノ王子はワインまみれのハルシアに手を差し伸べた。


(騒ぎを起こさないようにと思っていたのに、目立ちまくっているのでは)


 周囲の視線が痛い。


 手を取るのも、取らないのも、不敬にあたるのではないかとハルシアが戸惑っているうちに、ワインを溢したご令嬢が横から王子に語りかける。


「すぐ帰られるようなので、その必要はないかと思います。ドレスなら粗相をした私が後日改めてお詫びに伺い、弁償いたしますわ」


 猫撫で声のご令嬢に、シノ王子は笑顔を向けた。


「君は随分そそっかしいようだ。舞踏会の度に弁償していては大変だろう」

「なっ……」


 優しい言葉が返ってくることを期待していたご令嬢は、顔を引き攣らせる。


「行こう」

「は、はい」


 ハルシアは思わず王子の手をとった。優雅なワルツを聞きながら、二人はボールルームを後にする。

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