第2話 突然の婚約破棄とシノ王子
「ハルシア=ウィスティー。君との婚約を破棄させてもらう」
サルドーラ伯爵家の四男、レイモン=サルドーラはハルシアを邸宅に呼び出し散々待たせた挙句、冷たく言い放った。
「な……何故ですか?」
一方的な婚約破棄には相応の理由が必要だ。法でそう定められているが、ハルシアには全く思い当たる節がない。
親の決めた婚約者に愛があるとは言い難いが、パーティへの同行、記念日のお祝い――婚約者に求められる最低限の振る舞いはしてきたつもりだ。
レイモンは優秀な弁護人であり、法への造詣も深いことから、ウィスティー伯爵は彼を婿養子として迎え入れることを強く望んでいる。
ウィスティー伯爵は血のつながらないハルシアを実の娘のように可愛がってくれた人だ。親孝行をするためにも、ハルシアはどうしてもこの男と結婚する必要があった。
「君は殿下に色仕掛けをしているらしいな。全く相手にされていないようだが」
「殿下? シノ王子のことでしょうか」
「とぼけても無駄だ。ここに調査書がある」
レイモンは紙の束をハルシアに押し付けると、応接間の椅子に足を組んで座る。
以前からハルシアに対して横暴なところがあったが、今日の彼は一段と態度が悪い。
ハルシアが渡された書類に目を通している間も、彼は自身の赤毛をいじりながら、暇そうに欠伸をしている。
「ここに書かれているのは事実ではありません。完全なデタラメです。私はシノ王子と会話をしたことすら殆どありません」
「無実だと、どう証明するつもりだ?」
「それは……」
「俺は証人を呼ぶことができる」
彼は勝ち誇ったように笑う。
調書には何名かの証言者のサインが入っており、わざわざ証言に呼び出さずとも、これだけで十分な証拠となる。
何故これほどの証言が集まったのか。理由はどうあれ、全て嘘の証言だと明らかにするには、相当骨が折れるだろう。
弁護人に頼むにしても、勝てる見込みの薄い案件は倦厭されがちだ。
職業柄、レイモンはそれを分かった上で準備したに違いない。
「婚約関係にある場合、婚前の不貞行為及び、それを誘発する行為は婚約破棄の理由になる。君の父親はよくご存知のはずだ」
(ロスティランゼ民法、百三十条……)
この国の法のことならハルシアもよく知っている。
幼い頃から伯爵の職場で法に関する様々な書物を読み漁って育ったうえ、婚約をしてからは、未来の夫を支えられるよう、仕事の手伝いもしてきた。
調書を読む限り、不貞行為にはあたらないが、誘発する行為と見なされる可能性が非常に高い。
「君が不満なら訴えてもらっても構わない。但し、その場合は君の行為が公になり、醜聞が立つことは避けられないだろう」
「……私が今ここで婚約破棄に合意した場合、互いの親にどう説明するおつもりですか」
震える声でハルシアが尋ねると、想像通りの答えが返ってくる。
「俺は寛大だからな。調書の内容は伏せ、互いの価値観がどうにも合わなかったとでも説明しよう」
「分かりました。婚約破棄を受け入れます。その代わり、調書を破棄し、口外をしないことを書面で約束してください」
「構わん。とろくさい女だと思っていたが、馬鹿ではないようだな」
唇を噛み締め俯くハルシアを、レイモンは鼻で笑った。
訴えたとしても、ハルシアが負け、王子を誑かしたという事実無根の話を認めることになるだけだ。
婚約破棄の話を聞いたウィスティー伯爵は大いに悲しんだが、あの時の自分は賢い選択をしたとハルシアは思う。
レイモンが婚約破棄を持ちかけた理由は、偶然後から知ることになった。
伯爵の使いで法務省を訪れた帰り、なんとなく立ち寄った神殿で、レイモンと妖艶な美女の逢瀬を目撃してしまったのだ。
「ルリアーナ、会いたかった」
「あの女は片付いたみたいね」
「ああ、ようやく。親の勝手で、冴えないお子ちゃま女と結婚させられるところだった」
「ふふ、私を選んでくれてありがとう」
「当然だ」
柱の影に隠れ、ハルシアは息を潜めて二人の会話を聞く。
急に静かになったのでそっと覗くと、二人は体をぴたりと密着させ、熱烈な口付けを交わしているではないか。
(ああ、何だ。不貞を働いていたのは彼の方だったんだ)
悲しみも、怒りも超え、ハルシアは最低男に敗北した無力な自分が惨めで悔しく、静かに涙を流す。
「泣くほどあの男のことが好きだった?」
突然耳元で誰かが囁いた。
心臓が止まるかと思うほど驚いて、ハルシアは声にならない悲鳴を上げる。
恐る恐る振り返ると、低く、掠れて甘ったるい声の主は柔らかい笑顔を見せた。
「シノ、王子? 何故ここに」
「時々お祈りに来るんだ。執務を抜け出してね」
神様が現れたかと錯覚するほどの神々しさ、美しさにハルシアは息をのむ。
シノ=トアイヤ=ロスティランゼ。ロスティランゼ王国の第二王子だ。
既婚の第一王子に対し、シノ王子は未婚。かつ婚約を頑なに拒んでいるということで、この国のご令嬢たちはどうにかして彼を落とそうと必死なのである。
婚約者がいたハルシアは、熾烈な女の戦いに加わったこともなければ、こうして近くで言葉を交わしたこともない。
(こんなに美しくてかっこいい人がこの世にいるんだ)
王族の象徴である白銀の髪から覗く薄紫の目は、まるで宝石のようだと見惚れてしまう。
シノ王子は「天気も良いし、少し散歩をしよう」と言い、外に連れ出してくれた。ハルシアを気遣ってのことだろう。見た目の通り優しい人だ。
「そういえば、配偶者からの暴力に関する規定は民法の何条にあたるんだっけ」
神殿の敷地内にある薔薇園を歩きながら、彼は唐突に尋ねた。
「暴力となると民法ではなく刑法にあたります。第百八十条に、身体に暴行を加えた場合の記載があり、妥当な刑罰としては――はっ、語りすぎました、済みません!」
夢中で語るハルシアだったが、聞かれていないことまで話していることに気づき、歩みを止めて頭を下げる。
シノ王子は優しい表情のままだった。
ハルシアが多くを語ると不機嫌になる元婚約者とは大違いである。
「ハルシア、君はきっと優秀な弁護人になると思う」
「私が、ですか? いや、いや、いや、女の私には無理ですよ」
「女が弁護人になってはならない決まりはある?」
「……法にはないです」
「それなら問題ない。もし困ったことがあったら僕に教えて。必ず助けになるから」
美しい人は微笑みを浮かべると、ハルシアの手を取り、甲に唇を落としたのだった。
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