男装の弁護人は王子の溺愛に気づかない
藤乃 早雪
私と貴女の婚約破棄
第1話 初めての相談者
「御免ください」
丁寧なノックの後、ドアの隙間から若い女性が躊躇いがちに顔を覗かせる。
ぱっちりとした目が可愛らしい。金の巻髪にドレス姿であることからして、どこぞのご令嬢だろう。
「済みません、お父さ……あっ、いや、ウィスティー伯爵は只今不在にしております」
予期せぬ来客に戸惑い、ハルシアは伯爵のことを危うくお父様と呼びそうになった。
ハルシアはウィスティー家の一人娘だ。
母の連れ子であるため伯爵とは血が繋がっていないものの、「お父様」と呼んで差し支えのない関係である。
――ここが職場で、ハルシアが男装をしていなければ。
「姉様、ここは僕が」
どうやら客人はもう一人いたらしい。背の高い青年が、ご令嬢に代わって扉を大きく開ける。
ぶわりと舞い込んできた風に乗り、仄かな花の香りが鼻腔をくすぐった。長い冬を越し、ロスティランゼ王国が春を迎えた証だ。
「伯爵に御用があるのではなく、こちらに腕の立つ弁護人がいると聞いて伺いました」
青年が説明している間に、整理したばかりの手紙の束が、風に煽られて宙に舞う。
邸宅の一部を改装し、伯爵の仕事場兼、弁護人事務所となっているこの場所は、殆ど書物庫のようである。
つまりは大量の書類が存在し、今すぐ被害を最小限に抑えるべきなのだが、ハルシアはそれどころではない。
なにせ、彼らはここにいる弁護人にとって初めてのお客様なのだ。
「それ、私のことです!! たぶん。中へどうぞ。すぐに紅茶を準備するので、座ってお待ちください。うぎゃっ!!」
気が動転したハルシアは、床に散らばった羊皮紙に滑って尻餅をついた。
ピンクの長髪を隠すためのカツラが外れそうになり、慌てて頭を押さえる。
「この方に頼んで大丈夫なのかしら」
「法学者であるウィスティー伯爵の紹介なんだ。間違いないよ」
入口の扉が閉まり、部屋は静けさを取り戻す。ご令嬢と、ご令息の不安げな囁きもよく聞こえた。
いきなり醜態を晒してしまったハルシアは、羞恥に震えながら散らばった紙をいくらか拾い上げ、客人からは見えない裏手へと回る。
火照る体を鎮めようと、姿見の前で大きく息を吸って吐いた。
(大丈夫。女だってことはバレていないはず)
金の装飾に縁取られた鏡には、ごく平凡的な短いブラウンの髪に、地味なベストとジャケットを着込んだハルシアが映っている。
元より豊かでない胸には布を巻きつけ完全に潰し、上着の裏地には男性らしい骨格に見えるよう肩当てを縫い付けてある。
我ながら完璧な男装だ、とハルシアは思う。
「どうぞ」
ハルシアは緊張しながら、初めての依頼人たちの前に紅茶を置いた。
伯爵のお気に入りである、美しい褐色が自慢のウォールナットのテーブルに紅茶を溢すわけにはいかないので、尚更緊張してしまう。
「改めまして、私はハル=マグノリーと申します。国に認められた弁護人であることの証明もこの通り」
ハルシアは仕事用の偽名を名乗り、天秤の形に彫られたブローチを見せる。
女の弁護人は認められた前例がないこと。また、とある事情からハルシアは男装し、ハル=マグノリーを名乗ることとなったが、このブローチは本物だ。
実在しない人物の名でよく試験に通ったものだが、そこは父親が地位と権力でどうにかしてくれたのだろうとハルシアは思っている。
「これが厳しい試験に通った者にのみ与えられられるという、銀のブローチ……初めて見ましたわ」
「お詳しいのですね」
ブローチを見て感嘆の溜息を漏らすご令嬢に、ハルシアは少しばかり驚く。
ロスティランゼ王国は長くに渡り、隣国同様の神明裁判――誤解を恐れずに言えば、神頼みで信憑性に欠ける裁判を行ってきた。
新しい司法制度を取り入れたのはつい数年前のことで、それもまだ王都と富裕層に限定した試験導入に近い。
よほど裁判や法に関心があるか、聡明で知識豊富なご令嬢でなければ、弁護人になるために試験を受ける必要があることはおろか、弁護人という職すら知らないだろう。
「実は身内が法関係の仕事を志していまして。申し遅れましたが、私はセレナ=トルマリア。こちらが弟のアレスです」
ご令嬢は優雅に微笑んだ。
「お会いできて光栄です。法律関係の仕事を志しているという身内は僕なんです」
紹介された弟のアレスは、わざわざ立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。
ハルシアも慌てて真似をし、ぎこちない礼を返す。
(トルマリア……トルマリア公爵家! ご令嬢の婚約破棄が社交界で噂になっていた。お相手は確か王族だったはず)
「もしかすると、本日いらしたのは……」
トルマリア家はこの国の三大公爵家の一角を担う。ウィスティー家よりも遥かに格上の依頼人に、ハルシアは恐る恐る話を切り出す。
「ご存知なのね。ご想像の通り、婚約破棄の件ですわ」
「お辛くなければ、話を詳しく聞かせてもらってもよろしいでしょうか」
「ええ、勿論」
痴情のもつれに関する弁護は、ハルシアが特に力を入れたい分野である。
なぜなら、弁護人になることを決意したのは、自身の婚約破棄がきっかけだったからだ。
忘れもしない、あれは昨年の晩夏のことだった。
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