第七十話 喜び難き勝利

 ミーリィ——否、ミーリィの姿をした誰か。


 哄笑と共に彼女は右腕を海面に突き出した。

 ボスカルの獣が突っ込んでいったことで、さながら嵐の時のように荒れている海。波は暴れ、海に呑まれていなかった街を浸食している。


 その荒ぶる海が、怒濤に呑み込まれた街が、一瞬にして氷の世界と化した。俺と彼女を除き、動くものは何も無い。


 ——何だ、これは。


 消し飛んだ体の再生を忘れ、空から落下しているのに、彼女から目を離すことができなかった。

 勿論彼女の冷気の魔術は何度も見てきたし、何度も魔術で出した水を凍らせてきている。

 だが、こんな規模で冷気の魔術を、しかも自らの意思で行使するのは初めて見た。ともすれば、先日彼女がボリアで暴走した時以上の規模だ。


 ——ボリア程では無いが、ウルスとて都市だから広い。それを、一瞬にして……


 石畳に近付くにつれて極寒の冷気が体を蝕んでいき、体は自然と震える。

 魔術で体温を上げ、体の失った箇所を再生させる。そうしているうちに石畳が目と鼻の先にまで迫り、巨槍を突き刺して着地する。

 すぐさま引き抜いて彼女へと歩み寄り——


「ッ!? ミーリィッ!」


 氷の大地から、透明色の獣の頭が生じた。氷の獣は大口を開けて彼女へと猛然と迫っていく。

 しかし彼女は動かなかった。一歩も歩かず、また得物を構えることすらしなかった。


「何やって——」

「動く必要など無い」


 自信に満ちた声で、彼女は声高に言い放った。こちらに一瞥もくれず、じっと氷の獣を眺め——

 彼女が言った通り、動く必要は無かった。大口を開けて迫った氷の獣は、しかし彼女に届くこと無く氷の像になった。


「ここまでして死なない生物など、いるはずが無かろう」


 そう言うとようやく彼女はこちらを見た。


 ——不思議な感覚だ。


 目の前にいる女性はミーリィのはずである。

 しかし、何と言うか——彼女の魂が感じられない。

 喋り方に身振り、纏う雰囲気——どれも普段の彼女とは異なる。

 特に明らかに違うのは戦い方だ。ファレオで訓練を積んだとはいえ、彼女はまだ戦い慣れていない。しかし先程の彼女は魔獣の皮の包みを、冷気の魔術を駆使し、魔獣を圧倒して見せた。


 ——そうだ、冷気の魔術。


 どういう訳か知らないが、彼女は冷気の魔術で直接敵を殺すような真似はしない。だが先程彼女は、冷気の魔術のみで敵を殺した。

 これは、ボリアで暴走した際も同様であった。


 ——姿はミーリィだが、魂は彼女のものでは無い……? 何かの拍子に入れ替わった……なんてことが、あり得るのか……?


 見慣れた彼女の姿が、酷く不気味に感じられた。

 そんなこちらの内心を見透かしているからか、彼女は怪しく微笑んだ。その微笑もまた、普段の彼女なら見せるものでは無かった。


「貴様は誰だ——とでも言いたげな顔だな、ダス・ルーゲウスよ。無理も無い。眼前にいる馴染み深い女が、姿はそのままに言動が一瞬にして変わってしまったのだからな」


 彼女は徐に歩き出し——


「ぐっ……!?」


 彼女は途端に苦しみだした。氷の大地に膝を突き、彼女は蹲って呻き声を上げている。


「時間か……!」

「ミーリィ——」

「来るでない……! 死ぬぞ……!」


 咄嗟に動いた体が、苦しみに満ちた彼女の一言で止まった。

 苦しみに堪えながら彼女は頭を上げ、睨むようにこちらを見た。


「一つ忠告をしよう、ダス・ルーゲウスよ……聞いたら疾く逃げろ……!」


 そう言った彼女をじっと見つめ——


「……もし貴様がミーリィ・ホルムのことを思うのであれば…………絶対にな……!」


 ——詮索はするな。


 その言葉が脳内に反芻される中、彼女の言う通りこの街から逃げた。






 街のすぐ側の草原で待機している。

 どうやら以前暴走した際と同様の現象が起こっているようで、肌に伝わるひんやりとした感覚がそうではないかと物語っている。


 ——だとすると、やはりあの時の暴走と関係があるのだろうか?


 しかしあの時と先程とでは明らかに違う。あの時のミーリィには意識が無かったのに、先程の彼女は意思疎通ができただけでなく、彼女以上の実力を持っていた。

 やはり魂が入れ替わったのか——


 と、ふとそこで思い出した。

 魔腑にはこんな噂がある——魔腑には魔術師の魂が宿り、魔腑の持ち主の魂はその魂と入れ替わってしまう。

 ただこの噂はちゃんと証明されている訳では無く、実際にこの噂通りなのかは分からない。ただ、有力なのはこの説であろう。


 そしてもう一つ——と言っても、これに関しては以前暴走した際にも思い出したが——過去に「冷気の魔術師」と呼ばれる存在による事件があった。

 街、都市規模の大虐殺だ。丸々冷気に包まれ、生存者は誰一人として存在しなかったという。

 その事件が多発したのは俺とミーリィが出会った年で、出会った後には一切発生しなかった。そしてその事件の概要は、ミーリィの暴走と類似している。

 


 ——糞、胸糞悪い……


 彼女の先程の発言から、この事件には彼女が関わっているだろう。

 しかしまだ確定した訳では無い。別の人物、或いは彼女と入れ替わった魂による犯行の可能性もある。仮に彼女によるものだとしても、彼女が自分の意思で殺したのでは無い。


 俺にできるのは、これだけだった。

 彼女に詮索しないよう止められ、何より語るかどうかは本人が決めることだ。俺が強制することでは無い。

 彼女の潔白を信じることが俺のできること——するべきことだ。

 しかしそれでもやはり、あれやこれやと考え、疑念を抱かずにはいられなかった。


 ——だがもし、彼女が自分の意思で大虐殺を起こしたとしたら——






 






 長年に亘ってブライグシャ地方を苦しめてきた魔獣、ボスカルの獣。時を経て遂にブライグシャ地方は苦しみから解き放たれた。

 しかしその犠牲は多く、またミーリィの謎が増え——


 この勝利は、喜び難い勝利と呼ぶに相応しかった。

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