第六十九話 死は氷獄より来たれり
「ダス・ルーゲウスよ。マート・フィルスを安全な場所に連れていけ」
迫り来るボスカルの獣から視線を移さずに彼に言った。
「おい! 奴が——」
「案ずるな」
叫びを上げる彼を宥めるよう、衣嚢からある物を取り出して見せつける。
「これがあるのは把握している」
——何時の時代も、存外に戦法は変わらぬものだ。
己が手に携えるは、魔獣の皮の包み。放出した魔粒を含めることで、魔粒の事象への変換を止めることができる。魔術全盛の時代で無くとも、便利な道具だ。
その包みを開けて真下に捨て——
包みを開けて魔粒が放出されると同時に、魔粒が事象に変換——含まれていたダス・ルーゲウスの魔粒が激流へと転じ、激流が私を打ち上げた。
民家を破壊しながら進み、
「——ほう」
魔獣は巨頭を大橋の如き口へと、歯を無数の凶器へと変えた。
——突き刺し、噛み潰すつもりか。
すかさず衣嚢から短剣、そして包みを取り出して短剣を突き刺す。
包みを突き破るように生じたのは、激流の刃。止め処無く伸びる刃を、腕を振るようにして魔獣へと向け——
その大口を薙いだ。真っ二つにされたそれを、短剣を手首のみで振り回して更に細かく切り刻む。
激流の刃が消えたと同時に手を止める。肉片は鮮血を撒き散らして落下していき——
——当然、これで終わりでは無かろう。
ミーリィ・ホルムの視覚を通じて得た情報——ボスカルの獣は、切断された箇所を小さな魔獣へと変える。
その情報通り、奴は肉片を鳥の魔獣に変化させた。その半分程度が合わさって一つの獣と化し、もう半分程度はこちらへと迫ってきた。
民家の屋根に乗り、迫り来る鳥を睨む。その嘴はさながら槍のようで、殺意がひしひしと伝わってくる。
その殺意の群れを見て、思わず笑みが零れた。
「随分と、殺し易い姿になったな」
——冷気よ、殺せ。
その願いの直後に極寒の冷気が放たれた。
此方を見据えて飛来してきた鳥の群れが私に届くことは無く、私の前に落下して嘴が屋根に突き刺さった。
——斬るだけでは生命活動を終わらせたことにはならない。故にこそ、先程のような分裂を招いた。
ならば、直接生命活動を終わらせれば良い。
その光景を視界に収めたからか、ボスカルの獣は咆哮を轟かせた。これまで聞いた奴のどの咆哮よりも大きく、その煩さに顔が歪んだ。
その煩さの理由はすぐに分かった。
遠方より高速で飛来するのは、ボスカルの獣が縄張りを示す為に展開していた鳥の群れだ。
——本気で殺しに来る、ということか?
鳥の数から察するに、全ての鳥を連れてきたのだろう。此処にいる全員を殺す為か、此方を相応の相手と認めたか。
「……終わらせようか、ボスカルの獣よ」
奴を睨むのとほぼ同時に、大地が微かに揺れていることを感じ取った。
魔術で筋力を増強し——
地面の揺れが一際大きくなったのと同時に跳躍する。
ボスカルの獣の魔術により、民家の屋根から無数の槍が生えて襲い掛かってきた。それを跳躍で躱し、衣嚢から包みを取り出して開封——激流で己が身を遠方の鳥の群れへと飛ばす。
此方の速度と、奴等の速度——急接近する両者の距離は、あっという間に縮まった。
——奴等は恐らく私の魔術を知らない。ならば——
まるで鳥の群れを止めるかのようなボスカルの獣の咆哮が轟いた。そして実際鳥の群れはその場で止まり——
——冷気よ、殺し尽くせ。
「——はは。はははは。はははははっ!」
止まった鳥の群れの間を一瞬にして通過する。
水の魔術の効果が切れ、後方を振り返った時には、鳥の尽くが重力のままに真下へ落下していた。
——こうも此方の思い通りに行くとはな。
斯様に肉体を動かすことができないまま千年もの時を経ても、存外に実力は落ちていないようだ。
激流で再び自身を打ち出し、ボスカルの獣へ肉薄する。
「……学習したか」
冷気の魔術に対抗するには、熱を持てば良い——大方そう考えたのだろう。
ボスカルの獣が背中より放出したのは、燃え盛る炎を帯びた鳥だ。その群れがこちらへと飛来してくる。
衣嚢から包みを取り出し——しかしそれが使われることは無かった。
鳥は真下から生じた激流に呑まれ、更に激流の刃の襲撃を受けて切り刻まれた。
「ダス・ルーゲウスか」
一瞬、眼下に巨槍を携えた彼の姿が見えた。
冷気を願って鳥だった肉塊を確実に殺し、ボスカルの獣を睨む。
奴は頭を蠢動させながら猛然とこちらへと迫ってきて、跳躍した。その勢いのまま奴は空中で一回転すると、その頭を長大な銃に変化させた。
銃口は当然、此方に向けられている。
——砲撃か、ならば——
方向を変えず、そのまま敵に突っ込む。
先程取り出していた包みに短剣を突き刺し、激流の刃を勢い良く振り上げて魔獣を斬る。
放たれた砲弾は魔獣の巨躯諸共真っ二つになり、私の真横を猛然と通り過ぎていった。
民家の壁に激流を失った短剣を突き刺して止まり、魔獣を見遣る。
切断された肉は二体の大蛇へと転じ、結びついて一体の獣に戻った。
——いい加減、奴を殺すか。
「ダス・ルーゲウスよ!」
彼の名を叫ぶと、彼は激流に乗ってこちらへと駆けつけてきた。
「ボスカルの獣を海に沈める。貴様には私を運び、奴を引き付けて貰うが、良いな?」
眼下にいる彼にそう問い掛けると、彼は頷いて肯定した。そうするや否や彼は激流を生み出して飛翔し、私の腕を掴んだ。
飛翔の勢いに靡く髪に鬱陶しさを覚えつつ、背後を後目に見る——が、そこに魔獣の姿は無い。
——消えた……いや、違う。街に変化の魔術を行使してその中に隠れたか。
奴が厄介なことをしてくると、深く考えずとも分かる。
「注意せよ、ダス・ルーゲウス。奴が消えたとなれば——」
果たして、その予感はすぐに的中した。
「この街を変化させる。今まさにやっているようにな」
街が襲い掛かってきた。
石畳と民家の触手が何本も此方を目掛けて伸びてきた。此方を押し潰す為か、触手はお互いを激しくぶつけている。
その攻撃を、ダス・ルーゲウスは私の腕を掴んだまま縫うように躱してみせた。躱せないものは激流を纏った巨槍で斬り——
「ごがああああぁぁぁぁ————————っっっ!!!」
その断面からボスカルの獣が躍り出てきた。大口を開けてこちらへと迫り——
頭上から降り注いだ滝の如き水に押し出され、間一髪でそれを躱した。
「おい! 海に入れる必要はあるのか!?」
落下している状況で耳を劈いたダス・ルーゲウスの咆哮の如き問い掛けに、
「不可能では無い。しかし斯様な巨体を誇り、かつ高速で移動できる相手となると、確実に殺すのは難しい」
そう答えた。
それを聞くや否や彼は舌打ちを零し、再び激流を生み出して街路すれすれを飛行する。
ボスカルの獣は轟音を響かせて着地し、走って此方を猛追し始めた。
その頭には無数の銃口が生じ、それをこちらへと向けてきた。
「ダス・ルーゲウス、砲撃が来るぞ!」
そう叫ぶのとほぼ同時に激流が私達を打ち上げた。宙を舞って砲撃を躱し——
——いや、まだだ!
「ダス・ルーゲウス! 真下だ!」
悪寒が全身を巡ったと同時に真下を見遣る。
視界に映ったのは、無数の塔の如き大砲だ。
咄嗟に衣嚢に手を突っ込み——
「ッ! おいッ!」
彼は全力を以て私を放り投げた。それによって躱すことはできた、が——
「ぐッ!?」
ダス・ルーゲウスの苦悶の叫びが響いた。
砲撃を巨槍で迎撃せんと振り、しかしそれができず、白の骨の砲弾が彼の体を貫いた。
彼は身を翻したこともあり、魔腑は失っていない。そのまま吹き飛ばされた彼は、激流で自身を打ち出して体を再生させつつこちらへと迫り、私の腕を再び掴んだ。
「大丈夫か?」
「……問題、無い……」
魔粒の消費を抑える為か、痛みは消していないようである。
——本体は来ない。奴を出す為には、砲撃に対処できる距離にいるべきか?
「ダス・ルーゲウス。高度を上げよ。そうすれば恐らく、奴が現れる」
私の言葉通り彼は高度を上げた。眼下に映る街はこの掌に収まる程に小さくなり——
「——来たか」
私の予想通り、奴が姿を現して此方を追ってきた。奴との距離は瞬く間に縮まっていく。
ボスカルの獣、その向こう側にある街をじっと見る。街の中心にあるのは、海の広場。
「急降下せよ! あの海の広場目掛けて!」
「ああッ!」
彼の一声と共に、私達は激流に打ち出されて急降下し始めた。
一瞬にして魔獣の横を通り過ぎ、奴は此方を追って急旋回する。その頭を蠢かせ、奴は再び無数の銃口を生み出した。
「砲撃だ! 躱せ!」
ダス・ルーゲウスは激流の流れを縦横無尽に変え、奴の砲撃を躱してみせる。そうするうちに、街は眼前にまで迫っていた。
——このまま——
その時、ダス・ルーゲウスの手が離れた。
「ッ! ダス・ルーゲウス!」
彼の体を砲撃が掠めた——と言うより、体を穿った。彼は片足と脇腹を失い、血と臓物を零しながら激流から外れていった。
重力のままに落下していくダス・ルーゲウス。しかし激流の勢いの方が速く、彼は私の後方へと飛んでいった。
当然、ボスカルの獣が狙うのは私では無く彼だ。
——海は目の前だというのに、手間を掛けさせる……!
残り少なくなった包みを衣嚢から取り出し——
どん、と轟音が響き、その直後にボスカルの獣の体の一部分が爆発した。
その轟音の元へと視線を移す。
「……マート・フィルス……?」
——安全な場所に避難したのでは無いのか?
ヴォレオスの猟獣の戦車の昇降口からその姿を見せていたのは、マート・フィルスであった。
彼のいる場所は——海の広場の側。
彼の為そうとすることを、一瞬にして理解できた。
「——来い! ボスカルの獣! 貴様を討伐することが帝国の打倒に繋がるのであれば、私は命を捨てることさえ惜しくない!」
遠方なのもあって小さく、しかしながら力強い漢の咆哮が響いてきた。
或いはその咆哮が届いたからか、ボスカルの獣はマート・フィルスを見た。そして奴はすぐさま狙いを彼に変え、猛然と急降下し始めた。
私の真横を一瞬にして通過し、大口を開け——石畳ごと戦車を、マート・フィルスを喰らった。そして奴は石畳を破壊しながら海へと落ちていった。
海面の向こうの暗い海で、奴の頭が此方を向いたのが見えた。
マート・フィルス、帝国への反逆の道を歩む男。
その身を滅ぼしてまで帝国を打ち倒さんとするその意志、その最期、己が進むべき道を信じて進むその姿——
哄笑が口から溢れ、止まらない。
落下しながら己が右腕を海へと突き出し、海面の向こうにいる魔獣を、誇り高き男を見据える。
——嗚呼、やはり私は、貴様のような人間が大好きだ。
「美しき生であったぞ、マート・フィルス! 死を以て切り開いたこの道、この好機! 無駄にはせん!」
そして、願う。
——冷気よ、氷獄よ。海を凍らせ、魔獣を殺せ。
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