第四十三話 ポン、拉致監禁女装遊戯

 そろそろ人のいる環境に慣れるべきだと思った。


 そもそも外の世界は危険だと言いつけられて育った上に、先日の件もあってミーリィ達ファレオの面々以外が怖く感じてしまう。

 しかし、この旅で各地を転々とすることを考えると、いつまでも怖気付いてはいられない。

 怖気付いていたらまともな旅にならないだろうし、何よりその分ミーリィとダスに負担を掛けてしまう。


 そういう訳で、おれはボリアの街に出ている。


「本当に大丈夫? わたし、手伝うよ?」


 ミーリィは心配そうにそう言ったが、それを拒否して単身街に繰り出した。


 荒療治であることは否定できない。本来であればミーリィ達と一緒に外に出て、その後に一人で外に出る、といった具合に段階を踏むべきなのだろう。

 しかしボリアを出るのは三日後だ。一刻も早く慣れなければいけないし、これに関してもあまり彼女達に迷惑を掛けたくない。


 ——しかし。


「今日はどこ行こうかー?」

「お父さんあれ買ってー!」

「今日は肉が安いよーっ!」


 街行く人々、店営む人々、その声が酷く大きく聞こえてしまう。

 往来の人々が皆敵に映ってしまう。

 皆がおれのことを狙っているんだと、理性ではそんなことは無いと分かっているのに、ありもしない忌々しい空想に襲われる。


 高鳴る心臓が穏やかになる気配は無い。

 自然と己の呼吸は荒くなっていた。

 汗が背中を伝っていく感触がはっきりと分かる。

 足はまるでこの状況から、或いは襲い掛かってくる空想から逃げるかのように速くなる。


 ——駄目だ、怖い。


 やはり荒療治であった。素直にミーリィに手伝ってもらえば良かったと、後悔の念に心が締め付けられる。


「……ぁ」


 そそくさと歩いているうちに、人気の無さそうな路地が目に入った。そこに逃げ込むかのように入り——


「——ふぅ」


 一息吐いてひんやりと冷たい石畳に腰を下ろした。


 ——やっぱり、こういう所の方が落ち着く。


 薄暗く、冷たく、道行く人もいない自分だけの世界。歪で、そして壊されてしまった心には、この暗く孤独な雰囲気が丁度良かった。

 冷たい空気に自分の心臓も緊張も落ち着いていき——


「ちょっと、君ッ」


 心臓が跳ね上がり、おれの体も跳ね上がって立った。声の方を咄嗟に向き、障壁を願ってその声の主との間に生じさせる。


 その声の主は、小太りで髭を蓄えた男であった。言ってしまえばちょっとだらしない風貌に体格だが、纏う服だけは整っている。


「な、何」


 再び心臓の鼓動が高鳴って緊張が体を包み、その声は自然と敵意を帯びていた。


「こんな所にいちゃッ、危ないよッ」


 ……何と言うか、変な喋り方である。

 まあこのおっさんの言い分も分からなくは無いが……とはいえ、往来は往来で怖く、ここの方が落ち着くからここにいるのである。

 それに、おれには魔術が——


 ——あれ?


 何故か眠気を覚えた。昨日はちゃんと寝たはずだし、さっきまで眠気なんて一切感じていなかったのに。


「……何、で……」


「…………だからッ、オヂサンとッ、一緒に行こうねッ……!」






 目が覚めると拘束されていた。


「——ッ!?」


 眠気が一気に消え、目がかっと開かれる。家の中で、何年も使われていなかったかのようにぼろぼろで、家具は埃被っている。


 腕と脚は枷が掛けられている上に、鎖で寝台に繋がれている。口には何かが差し込まれていて、舌で触るといくつもの穴が開いていることが分かる。

 体を僅かに起こして奥の方を見ようとして、先程まで着ていた服では無く別の服を着ていることに気付く。鮮やかな色使いと派手な柄、そして肌の露出が通常のキムスより多い——女性向けのキムスだ。


 ——終わった。


 自然と涙が零れ落ちた。自分の人生が、こんな気持ち悪いおっさんに滅茶苦茶にされて終わってしまうという事実に恐怖を覚えたのだ。

 次いで後悔が自分を責めてきた。あの時ミーリィに手伝ってもらえば、こんな事態にはならなかったのだと。


 緊張と恐怖が体を支配し、まともに考えることもままならない。心臓の鼓動も体を伝う汗も酷く、体には戦慄が走る。


「あッ! 目ッ、覚めたッ……?」


 気持ち悪いおっさんが奥の部屋から顔を覗かせ、そして満面の笑みを浮かべてこちらに歩いてきた。

 男は服を脱いでおり、獣のように毛の生えた裸体を晒している。近付いてくるにつれて、劇物のような吐き気を催す臭いが強くなっていった。


 ——来るな来るな来るな来るな——


 そう思い、声を出せど、口に異物が差し込まれていることもあって言葉を発することができない。


「オヂサンはねッ、『女装遊戯』のビットだよッ……! よろしくねッ!」


 おれの悲痛な叫びを意に介さず、男は言葉を紡ぎ続ける。


「ずっとねッ、君のことが気になっていたんだッ……! もうねッ、君のことを襲いたくて堪らなかったんだよッ……!」


 ——来るな来るな来るな来るな——


 しかしおれから出る声は、意味を持たない叫びだけであった。


「それじゃあッ、早速ッ……!」


 男は寝台に上がり、おれに覆い被さるように体を乗せてきた。至近距離なことで、その体に纏う汗がはっきりと見えた。

 気を失いそうな——否、きつすぎるが故に却って気を失えないような臭いが鼻腔を酷く刺激してくる。

 いっそのこと気を失った方が、どれ程良かったことか。


 ——嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ——


「オヂサンと唾液交換ッ、しようねッ……!」


 ——ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい——


「——ッ!? 誰だッ!?」


 轟音と共に、家の壁が破壊された。希望のような光が差し込む方を見遣り——


「…………」


 そこにいたのは、ミーリィとダスだった。


「……っ……!」


 頭の中が、二人への感謝の言葉に満ちた。


 二人は呆然とこちらを眺め——


「う゛っ゛!?」


 呻きの叫びを上げたミーリィが咄嗟に物影に隠れ——次の瞬間には嘔吐えずく声と、口から出たであろう何かがぼとぼとと落ちる音が響いた。


「……待ってろ、ミーリィ」


 彼女を一瞥してダスはそう言い、巨槍を構えてこちらに近寄ってくる。

 その顔は、憤怒に歪んでいた。双眸には殺意が宿り、それが向けられていない自分さえも震え上がる。


「なッ、何だ君た——」


 男の首が空中に舞った。

 激流の刃で飛ばされた首は血を撒き散らしながら床に落ち、頭を失った体は力なく頽れて血を垂れ流し続ける。


 男の亡骸を、汚物を見るかのような目でダスは見て——


「冥海に堕ちろ、糞野郎が」


 そう吐き捨てた。






 男に滅茶苦茶にされる直前に救われたのはいいが、おれの心はもうぼろぼろだった。

 正直、もう外に出たくない——いや、出なきゃいけないんだけど。


 ミーリィとダスがいる分には多少安心できる。しかしそれでも、周囲に対する恐怖は消えていない。寧ろ強まってしまった。

 ただ、全面的に自分が悪い。素直にミーリィに手伝って貰えば良かったのに、拒否してしまったのだから。

 故に、二人には何の責任も無い。


 ——だけど。


「……ごめんね、ポン君……本当に、ごめんなさい……」


 ミーリィはずっとおれを抱いて、肩に自分の首を乗せて俯いている。先程から延々と繰り返している謝罪の言葉は、悲痛さに満ち満ちている。

 顔は見えないが——嗚咽の混ざった声で分かる。彼女は泣いているのだと。


 彼女に声を掛けることができなかった。


 抱いて貰って安心感がある、ということは否定できない。

 ただ、それ以上に——何て声を掛ければいいのか分からなかった。


 こう表現するのは悪いが、様子がおかしい。

 おれを助けに来た時に、こちらの様子を見るや否や彼女は吐いた。そして今はおれのことを強く抱いて、延々と悲痛に満ちた謝罪の言葉を繰り返している。


 そして、「本当に、ごめんなさい」という言葉——消えそうな程にか弱い声で発せられたその言葉。

 あくまでおれの印象だし、出会ってまだ少しの付き合いのおれが言うのも変だが——普段の彼女なら絶対に使わないような言葉で、絶対に出てこないような声であった。

 さらに言えば、どこか自分を責めているようにも感じられた。


 そこに何かがあるのだと、感じずにはいられなかった。


 ——ミーリィの過去を探ろうとするな。


 ダスの言葉を反芻する。

 しかし、おれの知らない過去抜きにしても、こんなに弱々しい彼女に掛ける言葉が見つからないのだ。

 それは、彼女が普段はバカみたいに明るいからなのだろう。そんな彼女がこうなってしまえば、どんな励ましの言葉も届かない——そう思った。


 結局彼女は、声から嗚咽が消えるまでおれのことを抱き続けた。


 おれはこのミーリィの様子を、忘れることは無いだろう。

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