第22話 異変

 女神テルースの館は、”土の街テルルプスの隠れ里”の一番奥、そこからさらに深く降りた場所にあった。煉瓦を積み上げて作られた宮殿が暗い地下の世界にどこまでも広がっていて、ところどころに炊かれた篝火がその全容を照らしだしている。

 宮殿の前には、すでに多くの土精ノームが集まっていた。へーミシュの腰ほどの背丈の彼らは、皆一様に動揺している。土精ノームたちの間を縫うようにして進むと、一際大きな建物にたどり着いた。外壁には細かなレリーフが施され、宝石や色とりどりの石で飾り付けられている。どうやらここは、テルースを祀る神殿のようだ。入り口から中は女神の聖域らしく、武装した土精ノームたちが守っていて、ほとんどの土精ノームたちがその手前で立ち尽くしていた。

 土精ノームの少年、ルペスとその兄貴分が中へ入ろうとすると、門番たちが持っていた槍を交差させ、通行を妨げた。

「侵入者は!? なんで中に入れないんだ!?」

 ルペスが門番を問い詰めた。

「中は今戦闘中だ。お頭が来るまで、何人たりとも入れはせん」

「で、でも……!」

 反論しかけるルペスに、門番はピシャリと言った。

「大体、緊急事態とはいえ、悪魔だの天使だの人間だの、訳のわからんやつらをテルース様の御前に出せるわけがないだろう」

「ぐっ……それは……」

 ルペスが言い淀んだ。

「とにかく、今は兵士が侵入者と戦っている。入るのは危険だ。誰も中には入れな——」


 門番が改めてルペスに言い聞かせようとしたその時、大きく地面が揺れた。土精ノームたちがざわめく。

「い、今の、なんなのである……?」

 ランドルフが、ソフィアにしがみつきながら言った。

「……た、大変だ……大地の霊力が消えていく……」

 ルペスが地面に手をついて言った。

「まさか、テルース様が……」

 土精ノームたちの顔がこわばる。

「へ、へーミシュ」

 ソフィアに呼ばれて、へーミシュは振り返った。ソフィアはランドルフの頭を撫でながら、困惑したようにこちらを見ている。

「また声が聞こえたの……今度は地面から……」

「なんだって!?」

 兄貴分土精ノームが叫ぶように声を上げ、「まさかあんた、テルース様の声が……」と独り言にしては大きな声でつぶやいた。

「声はなんて言ってるんだ……?」

 ネカレウスの質問に、ソフィアは「えっと……」と斜め上を見上げながら答えた。

「『大地の温もりは消え、草木の命は衰える。私は封じられた。だから、どうか、彼女だけは……』って……」

「そんな……テルース様が封印されたなんて……」

「誰がそんなことを……」

 土精ノームたちが口々に何か言い始めた。中には動揺のあまり泣き出してしまっているものもいる。

「『彼女』……って誰だ?」

 ネカレウスが腕を組んだ。ソフィアが「ええっと、確かその後に……」と言い、その名を口にする。


「クレメンティア。クレメンティアって言ってた……」


 突然飛び出たその名に、世界が一瞬動きを止めたように感じるほどの衝撃を受けた。だが、動揺を悟られないように、一瞬で感情を抑え、平静を装った。

「クレメンティア様って……あの森の女神の?」

 ウルクスの問いかけに、ソフィアは「そうなんだ。クレメンティアさんって、森の女神様なんだね」と興味深そうに答えた。


「まあ、それだけじゃないがな。クレメンティア様の司るものは、大きく分けて”慈悲”と”再生”なのじゃ」


 土精ノームたちの後ろから声が聞こえ、へーミシュがさらにその言葉に動揺している間に、声の主が姿を表した。

「お頭だ!」

「お頭が来てくれた……!」

「お頭なら、なんとかしてくれるかもしれない……!」

 土精ノームたちが一斉に安堵の声を上げる。周りの土精ノームたちに声をかけながら、一人の土精ノームが人混みの中から現れた。

「……ほう。”破壊”の血を引き継ぐ悪魔と、”慈悲クレメンスの巫女”が一緒におるとはな……」

 そうつぶやいた土精ノームの長は、へーミシュがあっけに取られているのに気づき、硬い表情を和らげた。

「フォッフォッフォ。すまぬすまぬ。物珍しくて、つい……わしは土精ノームの長、コルリスじゃ。して、今の話は本当なのかね? ”慈悲クレメンスの巫女”殿」

「は、はい……確かに聞こえたんです……」

 ソフィアがオドオドしながらも答えると、コルリスは「そうか……」と言い、眉尻を下げながらも優しい声で言った。

「とりあえずは、テルース様を助けにいかねば。手伝ってくれるかね、へーミシュ殿、ソフィア殿」

「お、おう」

(さすがは情報通だな……会ったこともない俺のことも知っているとは……これなら何かいい情報を知ってるかもしれねえな)

 へーミシュはそう思い直し、コルリスの後に続いた。



 神殿の中に入ると、真っ暗な室内の奥に、一人の女性が浮かんでいた。磔にされたような格好をしているその女性は、一目で女神テルースだとわかった。彼女の真下には、人が二、三人入れるくらいの大きさの魔法陣が白く光っていて、ぼんやりと彼女の濃い土色の髪を映し出していた。光で照らし出すと、辺りには土精ノームたちが倒れている。敵の姿は、すでに跡形もなかった。

「テルース様……!」

 ルペスが息を呑み、倒れている土精ノームたちに駆け寄っていった。コルリスがテルースを包む魔法陣に近づき、そっと触れる。その途端、コルリスの指先がさっと音を立てて砂のように崩れた。

「だ、大丈夫ですか!?」

 ソフィアが、今起こった光景に大慌てしていると、コルリスは「大丈夫じゃよ。わしら土精ノームの体は土や岩でできとるんじゃ」と言って、その指先に手を当てた。手を離す頃には、指はすっかり元通りになっていた。

「これは……風魔法のようじゃな。しかも、強力な呪い付きとは……」

 コルリスが独り言のように呟く。

「やはり呪いがかかってるのか……ウルクス、どう思う?」

 へーミシュは振り返り、ウルクスにたずねた。ウルクスは「う、うん……強力すぎて、僕にはどうにも……」と言い、なぜか浮かない顔をした。


「いつかはこのようなことが起こると思ってはいたが……ここまでとは」


 コルリスの言葉に、へーミシュは聞き返した。

「いつかは、って……あんた、こうなることを予測してたのか?」

「わしも本当に起こるかは予測ができとらんかった。だが、どうやら世界は変わりつつあるようじゃ……今起こっていることは、これからさらに起こる異変の幕開けに過ぎないと、わしは思う」

 コルリスは真剣な顔で言った。

「わしは、大いなる大地の女神、テルース様のお力をお借りして、この世界のあらゆる場所の事象を調べておった……私が誕生してからは、特に変わったことは起こっておらんかったのよ。じゃが……ここ数百年頃かのう、不穏な空気が漂い始めたのは……」

「不穏な空気、ですか……?」

 ソフィアが聞くと、コルリスはうなずいて話を続けた。

「この世界のあちこちで、怪しげな動きをしておるものたちがおる。奴らの目的はわからん……じゃが、この世界に何かしら害をなそうとしておるのは確かじゃ……」

 へーミシュは「つまり、神々を封印したのも、そいつらの仕業、ってことか?」とたずねた。

「その通りじゃ。わしは非力ゆえ、そやつらがどのような者かもわからぬ。じゃが、このまま神々が封印され続ければ、世界は崩壊しかねん。それに……ここから先はわしの憶測に過ぎんが……へーミシュ殿、そなたの母君も、これから起こる異変に大きく関わっておる気がするのじゃ」


 最後のコルリスの発言に、へーミシュは壁に強く叩きつけられたような衝撃を覚えた。完全に思考が停止し、コルリスの言葉が遠くでぼんやりと聞こえているような感覚に陥る。まるで、目の前で起こっていることが、全て夢のようだった。


(母さんが……どうして……)


「へーミシュ、へーミシュ!」

 ソフィアの声で、意識が現実に引き戻された。「大丈夫……?」と尋ねる心配そうなソフィアに、「わ、悪い……ちょっと外の空気吸ってくる……」と言い、へーミシュは神殿の外に出た。そのまま宮殿を出て、街をあてもなくふらふらと歩く。街の喧騒が、まるで色褪せた絵画のように、遠くでざわめいていた。


 気が付くと、人気のない裏路地まで来ていた。さすがに遠くまで来過ぎたかと思ったが、まだソフィアたちの所に戻れるほど、平常心のままではいられなかった。壁にもたれかかり、何気なく、この間水精ウンディーネの住処で見つけた人物の手記を開く。しかし、内容が全く頭に入ってこない。


 仕方なく手記を閉じ、顔を上げると、目の前に黒いフードを被った怪しげな男が立っていた。顔はフードに隠れて見えないが、なんとなく笑っているような気がする。それにしても、いつの間に現れたのだろう。へーミシュは気配すら感じ取れなかった。

「……何か俺に用か?」

 へーミシュが尋ねると、男の不敵な笑みがさらに濃くなったように感じた。

「私はこの辺りに店を構える商人です。今日は貴方様にぴったりの品を用意させていただきました」

 芝居がかった男の言葉に、へーミシュがノクスの柄を握ると、男は「まあそう警戒なさらずに」と言って、手に下げていた袋から、一輪の小さな花を取り出した。


「こちらの花……見た目はごくごく普通の花ですが、実は、時を遡ることができる、とても貴重な花なんですよ」


 自分の体から、黒い闇が溢れ出すのがわかった。男は一瞬怯んだが、めげずに品物をすすめてくる。

「使い方はとっても簡単。戻りたい時を念じて、この花の匂いを嗅ぐだけ——」


「貸せっ!」


 へーミシュは、男の手から花をもぎ取った。「金は後で払う!」と言い、最後に見た母の笑顔を思い出す。

(絶対に助けてやるからな……!)

 暗い天井を仰ぎ見てそう心に誓い、花に顔を近づけた。


 その強い香りを嗅いだ途端、くらりと眩暈がして、地面が傾いた。バランスを崩して倒れ込むと、今度は強烈な眠気が襲ってきた。起きあがろうとしても、体がまるで地面に吸い寄せられているように動けない。閉じていく瞼の向こうに、男の顔が初めて見えた。生気が感じられないその青白い顔は、ニタァと不気味に笑った。

「それでは、どうぞ、いってらっしゃいませ——」

 その後の言葉は、深い闇の中へと吸い込まれていった。


     *  *  *  *  *


「……ミシュ、へーミシュ」


 優しい声が、自分を呼んでいる。しかし、その声は、もう聞くことはできないはずだった。

「……母さん?」

「あらあら、ようやく起きたのね、へーミシュ」

 眠くてまだ瞼が開けられないへーミシュの頭に、何か温かいものがふれた。そのまま撫でられているのが気持ちよくて、再び眠気が襲ってくる。

「ふふ、まだ寝てていいのよ。昨日はいっぱい遊んだものね」

「……母さん」

 へーミシュは、寝言に近いとろんとした口調で言った。


「もう、どこにも行かないでね」


「ええ。もちろんよ」


 母の言葉を聞いた幼き日のへーミシュは、再び、眠りへと落ちていった。


《第22話 異変 了》

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