第18話 約束

(うっ……何が、起こったんだ……?)

 冷えた洞窟の空気に吹かれて、ネカレウスは意識を取り戻した。ぼんやりした頭を無理やり働かせ、記憶を遡る。

(確か、あと一歩で出られるってとこで、急に目の前に水精ウンディーネが……そうだ、ソフィアは!?)

 再び閉じかけた目をこじ開ける。ソフィアは、壁にもたれかかってぐったりとしていた。月明かりに照らされ、その姿がうっすらと浮かび上がって見える。

「ぐっ……ソ、ソフィア……げほっ!」

 吸い込んでいた水を吐き出したネカレウスは、ソフィアのところへ駆けつけようとした。だが、全身が水で濡れて重く、また、地面に叩きつけられた時の衝撃で、這って動くことしかできない。

「ネカレウス、来ちゃ、だめ……!」

 ソフィアの弱々しい声が聞こえる。が、ネカレウスは頭を横に振り、自分を奮い立たせた。このままソフィアに危害が加えられるのを、黙って見ているわけにはいかない。

 少しずつ這って進んでいたが、不意に腕の力が抜け、ネカレウスは再び倒れ込んだ。辺りには、水の霊力が満ちている。水に冷やされて、自分の体温が下がっていくのを感じた。

(……じわじわ息の根止めようとしてんのかよ……!)


「ふっ、無様よのう、火精サラマンドラ。そのトカゲのような姿こそ、お主らにふさわしいわ。——お前なんぞの力で、我ら水精ウンディーネ族に勝てると思ったのか!」

 あたりに満ちた霊力が一段と強くなる。冷えて体が動かなくなりはじめた。

「ぐっ……ちくしょう……」


(……このままじゃ身が持たねえ……何かいい手は……!)



「”慈悲クレメンスの巫女”よ。もしそなたが今ここで火の精との関係を断ち、我々に協力するというのなら、そなたの命は助けよう。なんなら、そこの火精サラマンドラの小僧も助けてやってもよい。さあ、今すぐネプトゥーヌス様をお助けするのだ!!」


 突然、フルクトゥスがソフィアに向かって言い放った。その言葉を聞いた途端、ネカレウスの中に今まで感じたことがないほどの怒りが湧いてきた。



「……そんなこと、ソフィアには関係ねえだろ。あんたらの都合で勝手に連れてこられて、怪我までさせられて……」



「なんだ、まだ抵抗する気力があると言うのか、火の精の小僧」

 余裕の笑みを浮かべていたフルクトゥスだったが、ネカレウスが立ち上がったのを見て目を見開いた。

「ふん、まだ我らに刃向かう気か。ならばこうだ!」


氷晶グラキエス


「——っ!」

 左足に熱いような感覚が走り、ネカレウスは声にならないほどの短い悲鳴をあげてうずくまった。それが痛みだとわかるまで時間がかかるほど、頭が回っていない。

「やめて!」

 聞き覚えのある声が聞こえ、綺麗な群青色の髪が揺れた。

「……アクア! 何してる、離れろ!」

「あなたをほっとくわけに行かないでしょ!」

 ネカレウスとソフィアを庇うようにして立ちながら、アクアが前を見て言った。月の光を浴びているからか、こんな時に限って、霞む視界に映るその青い髪を、美しいと思った。

「……ほう、アクア、お主までもが裏切ると言うのか。ならば——」

 アクアが裏切ったと解釈したらしいフルクトゥスは、彼女にも容赦なく魔法陣を向けてきた。アクアは結界を張ってなんとか防いでいるが、それも時間の問題だろう。ネカレウスには、攻撃をしているフルクトゥスの姿も霞んで見えているくらいだ。それに、これまで以上に強くなった霊力が、彼女の怒りの強さを如実に伝えていた。次の攻撃で、確実にネカレウスたちを仕留めてくる。そんな気迫を感じていた。


 こっちだって、足はふらふらするし、頭もうまく働かないが、それでもソフィアを守ることで精一杯だった。


 怒り。今まで負の感情としか思ってこなかったものを、こんなにも強く感じるとは思ってもみなかった。身体中に力を込めることで、なんとか立っているネカレウスは、今攻撃を浴びたらひとたまりもないだろう。


(それでも、ソフィアを守らなければ……)



『ソフィアを頼んだぞ』



 へーミシュの言葉が脳裏に蘇る。


 ネカレウスは、痛まない右足に体重をかけ、再び立ち上がった。左足を引き摺るようにして、アクアの隣に立つ。

「……怪我人はすっこんでなさいよ、っ」

「へいへい。でもあいにく、こちとら約束したんでね。ソフィアを連れ帰るって」

「あっそう、じゃあ、勝手になさい」

 こんな時までも、アクアと顔を合わせればこう言い合いになる。しかし、それも構わないと思った。


「話は済んだか。ならばさよならを言うべきだな、小僧」

 フルクトゥスが、鼻で笑いながら言った。アクアが、ネカレウスの袖を引き、ネカレウスを後ろに下げた。サラサラと流れる髪が、かすみがかかったように見えて、幻想的だった。


「さあ、裏切り者たちよ、あの世で後悔するがいい!」


(なんとしても、ソフィアだけは守ってみせる……この命に変えても……!)

 ネカレウスは拳を握りしめた。


氷柱スティーリア


 フルクトゥスが魔法を唱えた途端、ネカレウスたちの周りを、青い魔法陣が囲む。すると、魔法陣から分厚い氷の壁が現れた。氷からの冷気がすぐに伝わり、息が凍りつく。そして、徐々に氷は内側に迫ってきていた。

イグニス!』

 ネカレウスは、咄嗟にソフィアの周りに炎の魔法陣を巡らせた。これでソフィアが凍りつくことはないだろう。最後の力はすでに使い切った。ちょうどその時、「きゃっ!?」と言う悲鳴とともに、隣にいたアクアが倒れ込んできた。ネカレウスもバランスを崩し、後ろに倒れる。

「おい、大丈夫か!?」

「あ、足が……!」

 見ると、すでにアクアの両足は凍りついていた。

「……大丈夫だ、俺がついてる」

 ネカレウスは、不安を押し殺して無理やり笑顔を作ってみせた。せめてアクアが不安にならないように、と。

「……あなたが一緒でも、あまり安心できないんだけど」

 アクアが呆れ気味で言ってきたので、ネカレウスは思わずいつもの調子に戻ってしまった。

「なんだよ、こんな時まで。せっかく気を遣ってやったのに」

「ふふふ、冗談よ。……まあ、ここで死ぬのも悪くないわね……ネカレウスと一緒なら」


「……は?」


 なぜか心臓が大きく脈打った。


 顔を上げると、アクアの顔が目の前にあった。思えば先ほど倒れ込んだ姿勢のままから動くことができていなかった。

(何言ってんだこいつ……)

 そのまま口を閉ざすことができずに、ネカレウスは思わずたずねた。

「お前、それ、どう言う意味だよ……」

「……!?!? な、ななななんでもないわ!!」

 アクアがなぜか動揺している。アクアはプイと顔を背けると、膝を抱えてうずくまった。一瞬だが、その頬が赤く染まっているように見えた。


(……何なんだか……これで死ぬなら、コイツの姿も見納めか。ま、冥界への土産にちょうどいいかもな)


 寒さで朦朧とする意識の中で、目を閉じ、そんなことを考えていた。



「遅ぇんだよ」



 ため息混じりの呆れ声が聞こえた次の瞬間、何かが割れるような凄まじい音がした。驚いて目を開けると、ネカレウスたちの周りを覆っていた氷が割れ、辺りに散らばっていた。そしてその先には、見覚えのある黒い角を生やした人影があった。


「……へーミシュ!?」

「よう、待たせたな」

 いつもと同じ軽い口調で、さっきと真逆のことを言ったへーミシュは、剣を構え直した。その隣では、狼姿のランドルフが、フルクトゥスに向かって牙を剥いている。

「よくもソフィアをさらってくれたな」

「ふっ、お主こそ、魔族がこの聖域に入ってきて許されると思うのか、カリタスの子へーミシュ」

 フルクトゥスは、へーミシュが現れたことを驚きもせずに、憎悪に満ちた声で言った。

「ほう、俺のことを知ってるのか。なら話は早えな。お前らこそ、の仲間をさらうなんて、ただじゃすまさねーからな」

 へーミシュまで物騒なことを言っている。

「ほう、ならば——お主もろとも海の藻屑と化してくれるわ!」

 そう言ったフルクトゥスの体が渦に包まれた。洞窟のはるか高い天井にまで迫ったその渦は、徐々に形を変え、やがてもやが晴れると、そこには、巨大な大蛇がいた。胴回りだけで二人がかりで抱えなければならないほどで、その体は、前にいるへーミシュの身長を何倍も超えていた。月の光を受けて不気味に輝く一対の目が、ネカレウスたちを見下ろしている。


宵闇ヴェスペル


 へーミシュが剣に魔力を込め、ランドルフに合図をした。

「悪いな、こっちはお前に構っている場合じゃないんでな」

 へーミシュが目を剥き出し、まさに不敵という言葉が似合いそうな顔で笑った。剣を抜いたへーミシュは、翼を広げて羽ばたき出し、天井近くまで急上昇すると、フルクトゥス目がけてノクスを振り下ろした。

「くらえっ!」

「洒落臭い!」

 フルクトゥスも、大きく口を開けて待ち構えている。

荒波フルクトゥス!】

 フルクトゥスが呪文を唱えた。あれは、おそらく彼女の能力デュナミス——! あれが直撃したら、いくらへーミシュでもひとたまりもない……!

「気をつけろ、へーミシュ——」



「やめて!」



 ネカレウスが、へーミシュを逃すために声をかけたのと同時に、はっきりとした悲痛な声が聞こえた。

「——!?」

 皆が驚いて、声の主を探す。牢獄の一番奥にいた声の主は、ゆっくりと立ち上がると、よろけながらもフルクトゥスの前へと歩み出た。

「——っ、ソフィア!?」

 ネカレウスとへーミシュの声が重なった。「何してる、離れろ!」と言うへーミシュの声を聞き入れずに、ソフィアはフルクトゥスに近づくと、そっとその固い鱗で覆われた体に触れた。

「……今ここで私たちが、この世界を守っているあなたたち精霊が、争って傷つけあうなんて、そんなの間違ってる……本当なら、みんなで協力して生きていたはずなのに……」

 フルクトゥスが、もたげていた鎌首をそっとソフィアに近づけた。あれだけ荒れ狂っていたのに、今はただ、ソフィアの小さな声を聞き取ろうとしている。ソフィアはなおも続けた。

「ブルカヌス様やネプトゥーヌス様が封印されてしまったのも、きっとあなたたちのせいじゃない……何か他に理由があるはず。必ず私たちが、その原因を突き止めてみせる。だから——」

 ソフィアの背中は血で汚れていた。今もその血が服を赤く染め続けている。それでも、ソフィアは笑って言った。


「——少しだけ、待っていてね」


 フルクトゥスが目を見開いた。その直後、まばゆい光と共に、フルクトゥスの姿は元に戻った。膝から崩れ落ちたフルクトゥスに、アクアが駆け寄る。その様子を見届けたソフィアもまた、ふらりと後ろへ倒れた。

「ソフィア!」

 へーミシュがソフィアを受け止めた。

「……こいつ、立ってるのもやっとだったんじゃねえのか……?」

 へーミシュの言葉に、ネカレウスはソフィアの様子を見た。気を失っているだけのようだが、それだけの痛みを堪えながら、フルクトゥスに語りかけるとは、どれほど大変だったのだろうか。

「……ソフィアは強いんだな……俺だったら、あんなことできねえよ……」

 ネカレウスは、もはや苦笑いすることしかできなかった。

「ところでネカレウス、お前は大丈夫なのか?」

「ん? あ、そういえば、なんか、体の力が、入ら、な……」

 痛みを忘れていた左足から崩れ落ちた。気がついたら、体が縮んでトカゲの姿になっている。それに加え、なんだか体が冷えて眠くなってきた。

「ネカレウス、ほら、これ」

 へーミシュが何かをネカレウスに見せた。


 それは、火打ち石だった。


「ウルクスからのプレゼント、なんてな。これは霊力で火を起こす代物だ。お前ら霊力を核とする精霊には、ぴったりだろ?」

「……おう、ありがとな」

 ウルクスの心遣いに、今度は自然と笑顔が溢れた。トカゲの顔ではうまく笑えなかったが。


「ふっ……」


 息を吐くような声が聞こえて、ネカレウスは振り返った。見ると、フルクトゥスがアクアに支えられて立ち上がるところだった。その顔は、嵐が去った後の海のように、穏やかな顔だった。

「……”慈悲クレメンスの巫女”が目覚めたら、伝えるがよい。我らは待つ。その代わり、約束は必ず果たせ、と」

 フルクトゥスはそう言い残し、去っていった。


「ネカレウス、大丈夫!?」

 アクアが、フルクトゥスを見送った後、ネカレウスの元に走ってきた。

「あ、ああ」

「ど、どうしよう、ここには火なんてないし、そもそもここで火なんてつけたらすぐ消えちゃうし……」

 アクアの慌てぶりがあまりに激しいので、ネカレウスは、へーミシュに火打ち石で火花を起こしてもらった。打ち出された火花を素早く飲み込む。体中に熱が広がっていくのがわかった。

「ぷは〜っ! 生き返る〜っ!」

 人型に戻れて、思わずそんな声を上げた。この隠れ里に来てから、水の中を通ったり、水分を含んだ空気で息がしづらかったりと、ずいぶん危なかったなあ、などと考えてみる。

「ネカレウス」

 名前を呼ばれて、へーミシュの方を見る。

「ソフィアを守ってくれてありがとな」

 目を細め、にっと笑ったへーミシュに、ネカレウスも「おう!」と返した。


 これで、約束は果たせたな……と、静かに眠るソフィアを見ながら、ネカレウスは思ったのであった。


《第18話 約束》

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