第17話 手記

 水の精・ウンディーネ族にさらわれたソフィアは、水精ウンディーネの少女・アクアの協力を得て、火精サラマンドラの少年・ネカレウスと脱出を試みていた。

 アクアが、ソフィアたちのいる牢獄に誰も近づかないように嘘を言いふらしている間、ソフィアは、ネカレウスが牢獄の壁をよじのぼり、遥か高い天井に開いた穴を目指しているのを、じっと見守っていた。


 鍾乳洞である壁は、水分が多くて滑りやすい。さらに、火精サラマンドラであるネカレウスは、その水分でじわじわと体力を削られているようだった。


「うわっ!?」


 壁を半分ほど登ったところで、ネカレウスの足元が崩れ、ネカレウスが片手でぶら下がった。

「ネカレウス!! 大丈夫っ!?」

 思わず悲鳴を上げたソフィアに、ネカレウスが「だ、大丈夫だ……」と言う。ネカレウスは慎重にもう片方の手を伸ばして、なんとか体勢を立て直した。



『——この穴の上には、見張りはいないわ。だから、あなたさえ出ることができれば、きっとソフィアさんは脱出できる——』



 アクアの言葉を思い出しながら、ネカレウスは再び岩肌を掴む手に力を込めた。


(絶っっ対に、助け出してやるからな、ソフィア……!)


    *  *  *  *  *


「……遅いな……」

 闇に包まれ、激しく打ち付ける水の音だけが響いている周囲を見渡して、へーミシュはつぶやいた。雲の切れ目から差す月光が、ぼんやりと、水精ウンディーネたちの住処を映し出していた。

「ふあぁ〜っ……何だか眠くなってきたのである……」

 ランドルフが、その小さな牙がちらりと見えるほど、大きなあくびをした。さっきからずっと、アルマにもたれかかって眠そうにしている。

「どうしたんだろう、ネカレウス……ひょっとして、ソフィアがまだ見つからないのかな……それとも、まさか水精ウンディーネに見つかってしまったんじゃ……」

 ウルクスは、なかなか出てこないネカレウスを、いろいろと心配しているようだ。アルマはといえば、うつらうつらと船を漕いでいた。

「なんでお前が寝てんだよ」

 へーミシュがそう言うと、アルマが一瞬びくりと肩を揺らし、「……あれ、あたし、寝てた……?」と寝ぼけ眼で言った。

「全く……」

 こんな時に限って……、と、もはやため息しか出ないが、そうも言っていられない。

「ランドルフ、動けるか?」

「う〜ん、大丈夫なのである〜」

 まだだいぶ眠そうだが、ランドルフの力がどうしても必要だ。へーミシュは、次にウルクスの方を見た。

「ウルクス、ここを頼む」

「どうするの、へーミシュ」

 ウルクスの問いかけに、「ああ」と答え、へーミシュは今からの計画を話した。


「今から、ランドルフと一緒にソフィアを探してくる。こうも時間がかかっているなら、ネカレウスが捕まっている可能性もあるしな。だから、二手に分かれる。ウルクスとアルマは、ここでネカレウスの帰りを待っていてくれ」


 少し無茶かもしれないが、水精ウンディーネたちの目的がわからない以上、ソフィアが危害を加えられないとも限らない。

「……わかった、気をつけて……!」

 へーミシュの考えが読めたのか、ウルクスはそれ以上何も聞かなかった。代わりに、肩にかけていた布袋から、何かを取り出した。

「これをネカレウスに……彼はきっと、水を浴びて力が弱っていると思う。だから——」


 ウルクスが差し出したその道具に、へーミシュは一瞬意表を突かれたが、すぐにその意図を理解してニヤリと笑った。

「了解。ネカレウスを燃え上がらせてくるからな」

「うん。でも、水精ウンディーネのためにも、あんまり使いすぎないでね」

 ウルクスのその言葉に、すでに歩き始めたへーミシュは、手を上げて答えた。


(ソフィアに、ネカレウス……ぜってー助けてやるからな……!)


    *  *  *  *  *


(ここが入り口か……)


 へーミシュは、ランドルフとともに、”大瀑布カタラクタの隠れ里”のすぐ近くの茂みまで来た。遠くからでも聞こえる水の叩きつける音が、ここまで来ると会話もできないほどに大きかった。大きな音量に加え湿度も高いので、一度気を抜いてしまえば、息苦しさなどからくる切迫感に体を支配されそうだ。

 水精ウンディーネたちの様子を観察していると、二人の水精ウンディーネがやってきて、元々見張りをしていた二人組は隠れ里に戻って行った。


(今だ)


 へーミシュはランドルフと目を合わせ、うなずき合った。


 談笑している水精ウンディーネたちの隙を突いて近づき、そのうちの一人を後ろから殴りつける。ランドルフも、素早く狼の姿になると、もう一人の水精ウンディーネに飛びかかり、噛み付いた。


「中に用がある。悪いが入らせてもらうぞ」


 へーミシュは、かろうじてまだ意識を保ち起きあがろうとした水精ウンディーネに、剣を突きつけながら言った。

「ひ、ひぃっ!」

 水精ウンディーネが悲鳴を上げ、両手を上げた。水精ウンディーネに抵抗の意思がないことがわかると、へーミシュはランドルフと共に、隠れ里へと踏み込んだ。



「魔族が侵入したぞ!」

「気をつけろ!」


 そんな声が響く中を、へーミシュとランドルフは奥へと進んでいた。闇魔法で姿を消し、水精ウンディーネと出くわさないよう慎重に進んでいるため、少しずつしか探せない。

「おいおい、これじゃらちがあかねえぞ……」

 へーミシュは小さく唸った。囚われの身のソフィアが早々見つけられる場所にいるわけもなく、だんだん迫ってくる追手から隠れながら進むのが精一杯だ。


「ランドルフ、ソフィアたちの匂いは辿れそうか?」

 へーミシュはランドルフに尋ねたが、ランドルフは「ごめんなさいなのである」と首を振った。

「さっきから探しているのであるが、水で匂いが消えていて全然わからないのである……」

「そうか……いや、いいんだ、ありがとな」

 へーミシュはランドルフの頭を撫でた。


「そこにいるのは誰だ!!」


 後ろから声がして、水精ウンディーネが走ってきた。

「ちっ、面倒な……!」

 へーミシュは、ランドルフを抱えて走り出した。闇魔法で洞窟の闇に紛れ、姿を消しているとはいえ、このままでは捕まるのは時間の問題だ。


(一旦隠れて奴らを巻くか……どこかに隠れる場所は……)


 二手に分かれた曲がり角を右に曲がった時、へーミシュたちの目の前に、おもむろに扉が現れた。

「……あそこだ!」

 へーミシュは、一旦扉の前で立ち止まり、水精ウンディーネたちが過ぎ去るのを息を殺して待った。そうして、足音が遠ざかったのを確認すると、静かに扉をあけ、中に入った。


(行き止まりだが仕方ねえ……これで巻くことができたらいいが……)


「へーミシュ、ここ、なんだか懐かしい匂いがするのである」

 ランドルフが、へーミシュの袖をくわえて引っ張った。へーミシュが光魔法を唱え、辺りを照らし出すと、そこには、いくつかの本棚があった。

「……本なのである! 久しぶりなのである〜!」

 本棚にぎっしり詰まった本を見て、ランドルフが小さな歓声を上げた。育ての親の影響だろうか、ランドルフは本を読むのが好きだ。テルミヌス城にいた時も、よく城の図書室で本を読んでいた。同じ年頃の子供たちに比べて大人びているのもうなずける。

 

(にしても、水精ウンディーネたちがこんなに本を持っていたとは……)


 書庫のようなこの部屋の空気は、鍾乳洞の中とは思えないほど乾燥していた。本をしまっておくにはうってつけの部屋だろう。


「わあ〜、すごいのである——って、ぎゃふっ!?」


 ランドルフが悲鳴を上げ、倒れそうになった。


「大丈夫か!?」


 へーミシュがなんとか支えたため、転ばずに済んだ。

「ありがとうなのである……何かにつまづいたのである……これ、なんなのである?」

 ランドルフが、転倒の原因を拾い上げた。


 それは、手のひらに乗るほどの大きさの、古びた本だった。幾千年かの時は経ていそうで、本の隅の留め具が水分で錆びていた。珍しくて貴重な”紙”が使われていることからも、これを作った人物、そして、これの持ち主が、ただものではないことが伺えた。

(ここにあるってことは、おそらく神が作ったもの……それも、”いと高き所スペルスの神々”の誰か……)

 へーミシュは、ランドルフからその本を受け取って、じっくりと眺めた。


(ん? ……これは……!)


 表紙に刻まれた見覚えのある紋章に、へーミシュは勢いよく本を開いた。



『——今日もここの森は平和そのものだわ。あの恐ろしい戦から数千年経って、ようやく森も元に戻ってきている。生き物たちは森の恵みを受け、命を育み、次の世代へと繋いでいくのでしょう。これでやっと私も落ち着ける——』



(これは……日記か?)


 ところどころ薄れて読めなくなっている文章は、柔らかい、女性のような文体で書かれていた。


 数千年という年月、そして、戦を知っているとなると——。



『——やけに空の上が騒がしいと思って来てみたら、やはり下界は荒れていたわ。それにしても、これほどまでの地獄絵図になっていたとは……。私のいる世界まで喧騒が聞こえてくるなんて、よっぽど激しい戦争だったのね。彼も、この争いに巻き込まれたのでしょうか——』



(彼……? 彼って、まさか……)


「へーミシュ、ど、どうしたのである……?」

 ランドルフのその呼びかけにも答えられないほど、へーミシュの意識はその日記へと吸い込まれていた。周りの音が一切聞こえなくなり、代わりに、明かりの魔法陣にさらに魔力を込める。へーミシュの視界には、ただその本だけがあった。



『——彼が目を覚ましたわ。私の力では治せなかった傷も、少しずつだけど治ってきている。でも、最初見つけた時に血濡れて真っ赤に染まっていた純白の翼が、だんだん羽が抜けて蝙蝠のような翼に生え変わってきているわ。これも、”かの神”の呪いなのかしら。”地に堕ちた者”への——』



『——少しずつだけど、彼は私に心を開いてくれている。私も、彼の傷を癒せるよう、頑張らなくては——』



(”かの神”、と、”地に堕ちた者”、か……)


 薄れて読めなくなりつつある日記の、その持ち主に、いつの間にかへーミシュは思いを馳せていた。遥か昔に書かれた文章なのに、その様子が、まるで今、目の前で起こっているかのように、脳裏に浮かんでくる。


(やはり、これは——)




『——彼が、天界で何が起こったのかを話してくれたわ。彼の名は——』



 その先に続く者の名を、へーミシュは知っていた。だが、知っているからこそ、どうしても確かめたかった。己の今に繋がる出来事の、真相を。急いでページをめくろうとした、その時——。


「へーミシュ、へーミシュ!!」


 ランドルフの必死な声で、へーミシュは我に返った。その瞬間、一気に手の力が抜けて、危うく本を落としかけた。

「お、おう、すまない。どうした?」

水精ウンディーネたちの匂いが近づいてきているのである。逃げたほうがいいのである!!」

 ランドルフの切羽詰まった表情を見るに、事は急を要するのだろう。本来の目的を忘れるところだった。へーミシュは明かりを消すと、読んでいた日記を懐にそっと仕舞った。

「……よし、行くぞ!」

「わかったのである!」

 ランドルフの返事とほぼ同時に、へーミシュは扉を開け、駆け出した。扉の前には、数人の水精ウンディーネが待ち構えていたが、へーミシュはランドルフを抱えて軽やかに跳ねると、水精ウンディーネたちの上を飛び跳ねるようにして次々と蹴り倒し、通過した。地面に着地したへーミシュは、ランドルフを下ろすと、「悪いな、今お前たちに構ってる場合じゃないんだ」と言って、再び駆け出した。


(待ってろよ、ネカレウス、ソフィア……!)


    *  *  *  *  *


 一方その頃、牢獄の壁をよじ登っていたネカレウスは、竪穴の縁に手が届きそうなところまで来ていた。

「頑張って、ネカレウス!」

 ソフィアは、水精ウンディーネたちが来ないか気をつけつつ、ネカレウスを応援していた。

「あと、もう少し——!」

 ネカレウスが右手を伸ばす。その手が縁に届いた時、竪穴の外に人影が見えた。

(もしかしてへーミシュたちかな……?)


 しかし、その頭の上に、もはや見慣れてしまったあの黒い角はなかった。直感的にソフィアの背筋が凍りつく。


「逃げて、ネカレウス——」


 やっとの思いで声が出た瞬間、竪穴の上の人影が『急流トルレンス』と唱えるのが聞こえた。闇夜に青白い魔法陣の光が瞬く。


 ネカレウスが顔を上げた。しかし、その姿は、ほんの僅かな時間の間に、濁流の中に飲み込まれた。


「ネカレウス!」


 ソフィアは声を上げた。大量の水が、まるで滝のようにこちらに向かって降ってくる。ソフィアはあまりの恐怖に、避けることもできずにうずくまった。



「全く、手加減せいと言ったのに」



 心底呆れたような声に、ソフィアは顔を上げた。恐怖で思考停止した頭をなんとか働かせる。どうやらソフィアは生きているらしい。痛みも感じていなかった。上を見ると、あれほど大量の水が、消えていた。金属が擦れる音とともに、鉄格子の向こう側から、人影が現れる。


 現れたのは、不敵な笑みを浮かべた水精ウンディーネの長・フルクトゥスだった。

「フ、フルクトゥスさん……?」

「ふっ、まさか火の精と結託して逃げ出そうとするとはな、”慈悲クレメンスの巫女”よ」

 月がちょうど竪穴の真上に出ている。月明かりに照らされているはずなのに、フルクトゥスの笑みは暗かった。

「見損なったぞ。そなたの本分を忘れて、火の精如きに加担するなど——」

 フルクトゥスが、詠唱をすることなく魔法陣を構築した。


「——断じて許されぬ!」


 途端にソフィアは吹き飛ばされた。宙を舞い、壁にぶつかってなんとか止まる。それが、フルクトゥスが発した凄まじい力によるものなのだと、ソフィアは背中に衝撃を受けながら、頭の片隅で理解した。


(これが、霊力……これが、精霊の力……)


 フルクトゥスは、ソフィアがうずくまるのをみて鼻で笑った。

「お主の力はその程度のものか、それでも”慈悲クレメンスの巫女”か。——笑わせるな!!」

 目を剥き出してそう言ったフルクトゥスは、なおも強い力を放っている。次が来たら、命はない。ソフィアは直感でそう感じていた。


(誰か……助けて……! ……へーミシュ……!)


 ソフィアは、声すら出すことができずに、痛みで朦朧とする意識を、なんとか保つことしかできなかった。


《第15話 手記 了》

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