第6話 慈愛の悪魔
悪魔の城に居候中の公爵令嬢・ソフィアは、恐怖で目を瞑った。彼女を助けた悪魔の少年・へーミシュが、天使に取り囲まれ、剣を突きつけられている。助けたくても、ソフィアには何もできなかった。
「二人とも、下がっていてください」
声が聞こえて目を開けると、ポテスタスが槍を構え直し、天使兵たちに突進していくところだった。そのスピードは凄まじく、天使兵たちがぶつかった衝撃で吹き飛ばされる。ポテスタスはへーミシュを守るように前に立つと、”天使の長”ミカエルに槍を振るった。しかし、ミカエルが光の結界を張り、それを防ぐ。
「貴様、よくもへーミシュ様を」
「攻撃してきたのはそちら側だ」
ポテスタスの攻撃に微塵も動じず、ミカエルが答えた。ポテスタスが眉を吊り上げ、ミカエルを睨む。ミカエルは相変わらず無表情のままだ。すると、ミカエルの周りにいた天使たちが、次々とポテスタスを攻撃し始めた。ポテスタスがその攻撃を退けている隙に、ソフィアはへーミシュに駆け寄った。
「へーミシュ、大丈夫!?」
「あ、ああ、っておい!?危ないから中に入ってろって言ったのに!」
へーミシュは大きな声で言ったが、すぐに「いたたたた……」と言って、うずくまってしまった。彼の言うことももっともだ。しかし、怪我をしたへーミシュを放っておくなど、ソフィアには出来なかった。
ソフィアは、へーミシュの怪我の具合を見た。血は出ていないようだ。へーミシュが人間だったら、即死だったかもしれない。考えて、背筋に悪寒が走った。それでも、いつまでも怪我を放置しておくわけにもいかない。
『
魔法を唱えると、へーミシュが少しだけ動いた。閉じた瞳が開かれる。
「……ありがとな、ソフィア」
「うん。へーミシュ、立てそう?」
「ああ」
しかし、へーミシュが立ち上がる気配はない。腕に力を込めようとしても、その手はブルブルと震えるだけだ。
「くそっ……! 体に力が入らねえ……!」
「だ、大丈夫!? ゆっくりでいいから——っ!」
そこでソフィアは、自分達の周りを天使兵が取り囲んでいることに気づいた。天使兵たちは、顔色ひとつ変えずに、じりじりと距離を詰めてくる。自分の体が凍りついたように動かなくなるのを感じた。
ランドルフが唸り声を上げた。空中に飛び跳ねて狼の姿に変わると、横から一人の天使兵に噛み付く。しかし、天使兵に振り解かれ、へーミシュの横の城壁に叩きつけられてしまった。ランドルフは、「キャン!」という鳴き声を上げ、動かなくなってしまった。
「ランドルフ!」
ソフィアは駆けつけて治癒魔法を使おうとしたが、ソフィアが動くよりも前に、ソフィアの鼻先を掠めるように天使兵の投げた槍が刺さった。ソフィアは一瞬怯んだ。しかし、このままでは、動けないランドルフとへーミシュに、天使兵たちは容赦なく攻撃を浴びせてくるだろう。
「ま、待って!」
ソフィアはへーミシュとランドルフを庇うように立った。
「ソフィア様!」
グレモリーとセバストスの叫ぶ声が聞こえた気がした。しかし、ソフィアは、煌めく天使兵たちの槍や剣に怯えながらも、その場を離れようとはしなかった。
「貴様、人間のくせに、悪魔をかばうのか!」
ソフィアの行動を見た瞬間、天使兵たちが鬼のような形相になる。天使もそのような顔をするのだなと、ソフィアは遠くなりかけた思考で考えた。
天使兵がソフィアに剣を向ける。
「イニティウム様に反するなど、愚か者めが。思い知れ!」
ソフィアは再び目を瞑った。鋭利な刃物が虚空を切り裂く音が、闇の中に響く。
金属と金属がぶつかり合う音で、ソフィアは目を開けた。目の前に誰かが立っている。
すらりと高い背。
風になびく漆黒の髪。
天使兵たちの攻撃を受け止めている、へーミシュの闇色の剣。
見覚えのある姿に似た、その後ろ姿が、ソフィアを助けたのだと気づいた時には、すでに天使兵たちは倒されていた。グレモリーが息を呑む声が聞こえた。
「天使が我が城で狼藉を働くとはな……」
ソフィアを救ったその者が、ゆっくりと振り返る。頭の角は、緩やかなカーブを描いていた。真一文字に結ばれた口元は、しかしその端にうっすらと微笑みを浮かべている。その瞳は真紅の色だった。
「と、父さん……!」
へーミシュの驚嘆するような声が聞こえた。
「久しぶりだな、へーミシュ。しかし、随分とひどくやられたようだな」
父さんと呼ばれた悪魔は、へーミシュを見ると優しげに目を細めたが、その怪我の様子を見て顔をしかめた。
「こ、このくらい平気だ!」
へーミシュがムキになって立ちあがろうとした。
「まあまあ、そう焦るな」
悪魔がなだめる。そして振り返ると、一連の様子を眺めていたミカエルに向き直った。
「悪魔の城に来て早々することがこれか、ミカエル」
「貴様らこそ、我が天使たちを傷つけておいて、タダで済むと思うのか、カリタス」
悪魔がふわりと羽ばたき、ミカエルと対峙する。悪魔が闇を放ち始めた。先程、へーミシュから感じたものより遥かに強い闇は、まるで世界が夜に包み込まれていくように広がっていった。ミカエルも、光を放ち始める。太陽が近くにあるのかと思うほど眩しくて、ソフィアは手をかざした。
「……やべーな、逃げるぞ」
「え?」
へーミシュが呟いた。ソフィアはその言葉の意味がわからなかったが、なんとなくこのままここにいては危ない気がした。危機感を感じるほど、ミカエルと悪魔の気迫は凄まじく、ソフィアはまた動けなくなりそうだった。
へーミシュが立ち上がる。まだふらふらしているが、なんとか動くことはできそうだ。ソフィアはへーミシュの腕を掴んで、横から支えた。何歩か歩いていると、ポテスタスがやってきて、ランドルフを担いで連れて行った。グレモリーもやってきて、ソフィアとへーミシュの周りに結界を張って守ってくれた。
セバストスが、城の入り口で、「お早く!」と叫び、手を振っている。そこまで避難すると、へーミシュは城の壁にもたれかかった。息が荒い。投げ飛ばされた時にへーミシュが受けた衝撃は、相当のものだったらしい。
ソフィアは、ランドルフの様子も見た。ランドルフは、ポテスタスが自分のマントを敷いて寝かせていた。へーミシュよりもぐったりとしている。
(こんな小さい子に……ひどい……)
ソフィアの胸がずきんと痛んだ。すぐさま治癒魔法をかける。これで痛みはなくなるはずだが、へーミシュと同じく、しばらくは動けないだろう。ソフィアは、ランドルフを運ぶのを手伝ってもらおうと、グレモリーに声をかけようとしたが、
グレモリーは、じっと、ミカエルと、かの悪魔を見ていた。どこか物憂げなその表情は、無意識に、話しかけるのを拒ませた。黙ってグレモリーの隣に立つ。その視線の先にある人物の名を、グレモリーは静かに呟いた。
「カリタス様……」
そのカリタスは、ミカエルと睨み合いを続けていた。攻撃をしている訳ではないのに、それぞれが放っている光と闇の境目が、バチバチと音を立てている。離れたところにいるソフィアにも、それが聞こえるほどだった。
「貴様、やる気か」
ミカエルが声のトーンを変えずに言う。それを聞くと、カリタスは、ふっと息を吐くように笑った。
「私は構わないが、このままここで戦い始めれば、じきに魔界からの援軍が来ることになる。そうなれば、全面戦争は避けられないぞ」
ミカエルが目を細める。カリタスは微笑を浮かべたままだ。やがて、光が収まった。カリタスも闇を放つのをやめた。
「皆のもの、帰るぞ」
ミカエルがそう言い、天使兵たちはそれに従った。負傷した天使も、仲間に支えられて飛び立つ。
「あ、待って!」
物陰からアルマが飛び出した。ずっと隠れていたのだろうか。慌ててパタパタと羽ばたいて、天使たちを追いかけていく。
全てが嵐のように去っていき、ソフィアは一気に体の力が抜けた。グレモリーがハッとした様子で、「大丈夫?」と声をかけてくれた。
「はい……。あー、怖かった……」
「大変だったわね。へーミシュ様とランドルフを守ってくれてありがとう」
そう言ってグレモリーは力なく笑った。ソフィアも苦笑いで返す。
「勇敢な御令嬢だな」
声がして振り返ると、後ろに、真紅の瞳の悪魔、カリタスが立っていた。
「カリタス様!一体いつの間にお戻りになったんですか!?」
グレモリーが驚きの声をあげる。カリタスは、「ついさっきだ」と言って、浮かべた微笑みをさらに濃くした。
「しかし、なんとも微妙なタイミングに帰ってきてしまったな。もう少し早く帰ってくれば、ここまでの被害にはならなかったのに」
カリタスはそう言って申し訳なさそうな顔をした。
「あ、あの、グレモリーさん、この方は……?」
ソフィアは、やや察してはいたが、改めて聞いてみた。グレモリーが、「確かにそうね。ご紹介してなかったわ」と言った。
「この方は、テルミヌス城の城主、カリタス様。へーミシュ様の父君よ」
「お、お父様……やっぱり……」
想像通りの返事に、ソフィアはかえって面食らった。まあ、へーミシュにそっくりだったし、へーミシュが『父さん』と呼んでいたから、その通りなのはわかっていたのだが。
「で、こちらが、エオーニオン王国の、ソフィア・エオーニオン公爵令嬢。訳あって、今ここで匿っていますの」
グレモリーが、ソフィアのことも紹介してくれた。カリタスは、「ほう」と頷くと、ソフィアのすぐ横で聞いていたへーミシュに向かって言った。
「へーミシュ、攫ってきたのか?」
「攫ってねーし! なんでみんなそうなるんだよ!」
「攫っていなかったとしたら、なぜこの方はここにいるんだ?」
「ソ、ソフィアは、い、色々あって、ここに連れてきたんだよ!」
「しかし、お前の趣味がこういう感じの御令嬢だったとは……」
「ちげーよ! なんで俺の趣味の話になるんだよ!」
「まあ、どのみち誘拐したことに変わりはないな」
「だから攫ってないってば!」
へーミシュが喚くと、カリタスがからかう。ソフィアは、「違います……」と言おうとしたが、カリタスは明らかに面白がっているようだった。親子の他愛もないやり取りが続く。
「当人たちがそうは思っていなくても、側から見たら攫ったも同然だよ」
笑顔でそう言ったカリタスだったが、そのどこか哀愁漂う表情に、ソフィアは少し引っかかることがあった。不意に、脳裏に天使の少女、アルマの言葉が蘇ってきた。
『呪われた、人間と悪魔の子のくせに!』
「あの……」
ソフィアは、ついにこの疑問を抑えきれなくなった。頭で紡がれた言葉が、聞いてはいけないと思う思考を押し退けて、口を衝く。
「こんなこと聞くのもどうかと思うんですけど、へーミシュのお母さんって、もしかして……」
その場にいた全員が固まるのがわかった。後ろからやってきたポテスタスですら、ピタリと動きを止める。やはり聞いてはいけなかったかと思って、慌てて前言撤回しようとした。しかし、その前に口を開く者があった。
「彼の母親は、人間だよ」
それは、カリタスの声だった。声は途切れることなく、その先を告げる。
「彼の母親——もとい、私の妻イリスは、彼が十歳の時に亡くなったんだ」
ソフィアは言葉を失った。予想していた通りだった。いや、後半部分は予想外だったが。しかし、改めてその事実を突きつけられると、何も言うことができなかった。自分が質問してしまったことのあまりの重大さに、申し訳なくなってきた。
「また固まってる……」
へーミシュの声で現実に引き戻された。顔を上げると、へーミシュが呆れ気味の表情でこっちを見ている。
「ご、ごめんなさい、私、変なことを聞いちゃいましたね……」
ソフィアは謝った。すると、へーミシュはため息をついて言った。
「ま、いずれはわかることだしな。別に謝る必要はない。そんなに深刻な顔をするなよ」
そう言って、へーミシュが悲しげな笑みを浮かべる。
「まあ、そういうことで」
カリタスがパンッと手を叩いた。
「改めまして、ソフィア嬢、ようこそテルミヌス城へ。セバストス、歓迎のパーティーでもしよう!」
「かしこまりました」
セバストスが一礼し、パタパタと駆け足で去っていった。ポテスタスは、「よぉし、宴だ!」と言って、ドスドスと音を立ててセバストスの後を追った。グレモリーも「パーティーは久々ね」と喜んでいる。ソフィアは、嬉しいような、恥ずかしいような気持ちになってきたが、とりあえず感謝の意を伝えることにした。
「あ、ありがとうございます……。でも、へーミシュもそうですけど、カリタスさんもお優しいんですね。そういえば、ここの悪魔さんたちは、みんな優しいですし」
「……そうだね。私は、”慈愛の悪魔”だからね」
「”慈愛の悪魔” ……?」
「そう。私は、慈愛を司る悪魔なんだよ」
カリタスが優しい笑みを浮かべて言う。包み込まれるような、その眼差しに、ソフィアはどこか腑に落ちた気がした。なるほど、”慈愛の悪魔”とは、こういうことか、と。
「何話してるんだ?」
へーミシュがやってきた。もう動き回れるようになったらしい。「ああ、私の
(
ソフィアにはまだまだわからないことが多いが、わいわいと楽しそうにしている悪魔たちを見ていると、少しだけ、ここで過ごす時間が楽しみになってきた。
「おーい、ソフィア。早くこっちに来いよ」
へーミシュがソフィアを呼んだ。すでにパーティーの準備が出来始めている。
ソフィアは、へーミシュたちのところへと駆けていった。
《第5話 慈愛の悪魔 了》
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