第5話 天使は微笑まない

 ある日の午後、逃亡中の公爵令嬢ソフィアは、住み始めて間もない巨大な悪魔の城の、広大な庭を散策していた。一緒に歩いているのは、人狼のランドルフだ。この間の一件もあって、ソフィアはランドルフとだいぶ仲良くなれた。今日も、毎回城の中で迷っていたソフィアを、こうして、ランドルフの方から城の案内がてらの散歩に誘ってくれたのだ。ソフィアの肩の高さよりも小さな少年が、ソフィアの手を引いて、庭を歩いている。

(レオン、元気にしてるかな……)

 時折ソフィアに対しても笑顔も見せるようになったランドルフを見て、ソフィアは弟を思い出していた。

 境界の空は、雲がかかっていつもどんよりとしていて、うららかとは言いがたい天気だ。さらに、境界は一面霧で覆われていて、遠くの山々が微かに見えるだけだ。しかし、ここテルミヌス城は丘の上にあるからか、城の周りだけ霧が晴れていた。ソフィアは、空を見上げた。いつも山や森を暖かな光で照らしていた太陽が、少し懐かしく感じた。

 一番明るい南の庭に出た時、ランドルフが、それまでギュッと握っていたソフィアの手を、突然離した。そして素早く狼の姿へと変化すると、それまでソフィアが見上げていた空に向かって唸り声を上げ始めたのだ。

「ランドルフ?どうかしたの?」

 ソフィアは訪ねたが、ランドルフは唸り声を上げるだけだった。

「ソフィア」

 名前を呼ばれて振り返ると、いつの間にか後ろにへーミシュが立っていた。

「危険だから、城の中に入ってろ。がまた来やがったんだ」

 ソフィアは「って誰?」と聞こうとしたが、それより先に

「きゃあああああああ!」

 という悲鳴が空から降ってきた。声がした方を見ると、雲に覆われた空の一部が一瞬光り、そこから、人の形をした何かが、こちらに向かって落ちてきているところだった。このままでは、ソフィアにぶつかる。しかし、ソフィアは動くことができなかった。影がどんどん迫ってくる。

「危ねえ!」

 へーミシュがソフィアの手を引っ張った。直後、大きな地響きと砂埃が辺りを包んだ。どうやら、人影のようなものは、ソフィアが立っていたところにそのまま真っ直ぐ落ちてきたらしい。へーミシュが助けてくれなかったら、間違いなく大惨事だっただろう。

「あ、ありがとう、へーミシュ」

 へーミシュは「ああ」と返事をして、砂埃を睨んだ。ランドルフも、今にも飛びかかりそうな体勢になっている。


「い、いたたたた……」

 砂埃が落ち着くと、人影の動きがようやく見えるようになった。人間が落ちてきたのかと思って、ソフィアは心配になって「大丈夫ですかっ⁉︎」と駆け寄った。そして、驚きのあまりその先の一歩が踏み出せなかった。

 空から落ちてきたのは、金色の髪をした少女だった。白い衣を身に纏ったその少女は、地面に座り込み、腰を痛そうにさすっている。問題は、その少女の背に、大きな白い翼が生えていることだ。羽毛の一本一本が、雪のようにふわふわとしている。真っ白なその翼の美しさに、、ソフィアは見とれた。

「あーもう、いったいわ。まさか足を踏み外すだなんて……」

 ソフィアはその姿を、教会の壁画で見た記憶があった。思わず声に出る。


「て、天使……?」


 ソフィアの声に、少女が顔を上げた。晴れた日の空を映したように青い瞳が、ソフィアを見つめる。

「に、人間!?なんでこんなところに!?」

 天使の少女は、目を見開き、大きな声を上げた。ソフィアが返事に困っていると、へーミシュが横から口を挟んだ。

「お前こそ、なんでこんなところにいるんだ?ここは天使の来るところじゃないだろう、使さん」

 すると、少女は顔を真っ赤にして言った。

「堕天使じゃないっ!あんな奴らと一緒にするな!!」

 へーミシュがすかさず「でも、落ちてきたじゃないか」と嘲笑うように言った。こういうところは、へーミシュは実に悪魔らしい。

「きぃーー!!あんたのおじいさんとは違うわよ!!」

 少女はまだ怒りが収まらないらしい。そして、へーミシュを指差すと、こう言った。

「悪魔の子へーミシュ!イニティウム様の御名を持って、この”天使の長”ミカエルのしもべアルマが、今日こそ倒してやる!覚悟なさい!」

 いきなりの宣戦布告に、しかしへーミシュは慌てる素振りも見せずに落ち着き払っていた。

「そう言って、こないだも、その前も倒されてたじゃねえか。こりねえな」

「うるさい!つべこべ言わず、とっとと勝負よ!」

「め、めんどくせえ……」

 へーミシュは煩わしそうに呟いた。一方、ソフィアは、突然始まろうとしている悪魔と天使の戦いに焦りを感じていた。このまま、神話に出てきたような争いが起こってしまうのだろうか。その時、アルマが矢筒に手をかけた。へーミシュはそれを見て、腰に下げた剣に手をかける。ランドルフは牙を剥き出しにしている。一触即発の雰囲気に、空気が凍りつく。

 アルマが素早く矢を放った。日が当たっている訳でもないのに光を帯びたその矢は、光のような速さでへーミシュに向かっていく。あわやその矢がへーミシュに突き刺さろうとした。その刹那、へーミシュの周りが一瞬燦然と輝き、少女の放った矢が塵となって消えた。へーミシュはドーム状の光を纏っている。ソフィアがへーミシュと初めて会った時に使っていた結界と、おそらく同じものだろう。一方のアルマという少女は、自分の攻撃が全く効いていないことにうろたえていた。「ええ!?なんで効かないの!?」と叫んでいる。

「お前なんかの攻撃が当たるかよ」

 へーミシュは当たり前のように言った。「て言うか、攻撃消されたの何回目だよ。少しは学習しろよ」と呆れる。


「お、おのれぇ!呪われた、悪魔と人間の子のくせに!」


 小馬鹿にされた少女が、かんかんに怒って言った。


「あ、悪魔と人間の子……?」

 ソフィアは、今聞いた言葉が信じられず、アルマの言葉を繰り返した。

(悪魔と人間の子……?それってつまり、へーミシュは……)

 すると、

「ほう?」

 へーミシュの目元が不敵に歪む。そして、黒いモヤのようなを放ち始めた。

「こうなったら、多少痛い目見てもらわなきゃな」

 そう言ってへーミシュが剣を抜いた。夜の闇のような漆黒の剣が、鈍く光る。そして、へーミシュは剣を構え、アルマに突進していった。アルマは危険を察して空に逃げたが、へーミシュもそれを追いかける。アルマはへーミシュの斬撃をかわして庭中を逃げ回った。

「なんで追いかけてくんのよ!しつこいわね!」

「しつこいのはどっちだよ。毎回お前が先に勝負をふっかけてくるだろーが」

 城や城壁の壁面を走りながらアルマが叫んでいる。へーミシュも後に続きながらアルマに反論した。売り言葉に買い言葉。二人の追いかけっこは終わりそうにない。

「へーミシュ、相手は女の子なんだし、ら、乱暴なことはやめてあげて!」

 アルマが怪我しないか心配になってきたソフィアが、へーミシュを止めようとへーミシュに訴えかけた。しかし、へーミシュは、再び空へと舞い上がったアルマを睨み、顔だけソフィアに向けて言った。

「あのなぁ、これは天使と悪魔の安全保障上の問題なんだよ。天使にそう簡単に悪魔の城に来られちゃ困るからな。だからこうして追い払ってるんだ」

「そ、そうなんだ……」

(安全保障上の問題だなんて、国と国との関係みたいなこと言うなぁ)

 へーミシュの言い方に心の中でツッコむソフィア。しかし、へーミシュはよほど先ほどのアルマの言葉に腹が立ったらしく、追いかけるのをやめようとしない。

 ソフィアがそれ以上なにも言えずに立ち尽くしていると、ランドルフが近くにやってきた。

「へーミシュはああなったら、しばらくは何言ってもやめないのである。私は他の天使が来ないか見張るから、ソフィアは中に入っている方がいいのである。下手にこんなところにいると、ソフィアが怪我をしてしまうのである」

 ランドルフはそう言い、城壁の方へ向かおうとした。が、次の瞬間、全身の毛を逆立てた。

「ランドルフ?大丈夫?」

 ピクリとも動かないランドルフに、ソフィアは声をかけたが、その時「ソフィア様〜〜!」と呼ぶ声がした。振り返ると、羊の執事・セバストスがこちらに向かって走ってきているところだった。後ろにポテスタスとグレモリーもいる。

「ソフィア様、ここは危険ですから早く中へ。それと、絶対城の外に出てきてはいけませんぞ」

 そういうと、セバストスはへーミシュに向かって「へーミシュ様〜〜!」と大声で言いながら走っていった。そして、へーミシュに耳元で何か言った。それを聞いたへーミシュの顔色が曇る。

 ソフィアがキョトンとしていると、グレモリーが「さあ、早く行って!ここにいると、本当に危ないわよ」とソフィアの背中を優しく押した。しかしその顔は少し強張っている。ポテスタスはといえば、ソフィアの身長の倍はありそうな槍を構えている。只事ではない雰囲気に、ソフィアは思わず、城の中に戻ることすら忘れて聞いた。

「何かあったんですか?それとも、これから何かが起こるんですか?ひょっとして、あの子を……?」

 グレモリーがぎこちなく笑って言った。

「あの子だけだったらよかったんだけどね……。でも、何も心配はいらないわ。だから——」

 その言葉を遮るように、へーミシュがソフィアに向かって大きな声で言った。

「ソフィア!早く中へ!」

 しかし、ソフィアは足を動かすことができなかった。周りの悪魔たちが感じている張り詰めた空気が、ソフィアにまで伝播してきている。その緊張感からか、緊急事態だとわかっているのに、逃げることができない。

「何してる!早く——」


 へーミシュの言葉は、眩い光に阻まれた。


 光が止み、ソフィアが目を開けると、一人の青年が城壁の上に、目を閉じ佇んでいた。金色の長い髪が、風に吹かれて揺れている。背中には純白の大きな翼が生えていた。そして、見開いた切れ長の目は、空のように青い。


「ミカエル……!」


 へーミシュが掠れた声で呟いた。名前を呼ばれた青年がへーミシュを見る。

(ミカエルって、あの”天使の長”の?)

 ソフィアは、あまりにも聞き慣れたその天使の名に、驚きを隠せなかった。辺りを見渡すと、いつの間にか城壁をたくさんの天使が囲っていた。ミカエルと呼ばれた天使の周りにも、数柱の天使がいる。

 真っ直ぐへーミシュを見つめる天使の長は、しばらくするとへーミシュから目を逸らし、口を開いた。

「何をしている、アルマ」

 唐突に名前を呼ばれたアルマの肩が跳ねる。アルマはそのまま、青い顔をして後ずさった。「ご、ごめんなさい……」と言ったが、つまづいて尻餅をつく。それを見たミカエルはため息をつき、呟いた。

「全くお前は……。には行くなと、何回言ったらわかるんだ!」

「ご、ごめんなさい……!」

 アルマが謝る。しかし、ミカエルはまた大きなため息をつくだけだった。そして、アルマの前に来ると、

「帰るぞ。いつまでもこんなところにはいられない」

 と言い、踵を返した。ソフィアはその様子を呆然と眺めるだけだった。


 そんなミカエルたちを呼び止める声があった。


「待てよ」


 怒気を含んだ声。それは、それまでずっと俯いていたへーミシュの声だった。再び剣を構え、ミカエルに向き直る。その体からは、先ほどよりもずっと濃い闇が放たれていた。

「お前は、俺にも何か言うことがあるんじゃないのか?」

 へーミシュは、眉を吊り上げ、目を大きく見開いて言った。普段は飄々としているへーミシュの、初めて見る禍々しい気迫に、ソフィアは息もできなかった。

「へーミシュ様!落ち着いて!」

 セバストスが呼びかけるが、へーミシュには聞こえていないようだ。


「答えろ!なぜ母さんを……!」


 そこまで言ってへーミシュは唇を噛み締めた。鋭い八重歯が唇を切る。


 ミカエルは無表情のままへーミシュを見ていたが、一瞬だけ目元を細めた。その様子が、ソフィアには悲しげに見えたような気がした。


 無言のままのミカエルだったが、アルマの手を乱雑に取ると、空へと羽ばたき始めた。

「この野郎!」

 へーミシュが上空高く舞い上がった。そして、勢いをつけてミカエルに襲いかかった。ミカエルは握っていたアルマの手を離し、へーミシュを迎え撃った。

「ミカエル様!」

 アルマが悲鳴を上げる。

 へーミシュの刃が、ミカエルを切り裂きかけたその時、ミカエルが素早く剣を抜いた。光を纏うその刀身が、へーミシュの剣を受け止め、鍔迫り合いになる。しかし、力ではへーミシュは勝てなかった。ミカエルはへーミシュを剣ごと薙ぎ払い、へーミシュは、そのあまりのパワーに吹き飛ばされ、城壁に叩きつけられた。剣が宙を舞い、庭の端の地面に突き刺さる。

「へーミシュ!」「へーミシュ様!」

「へ、平気だ……」

 そう言って立ち上がろうとしたへーミシュだったが、よろけて城壁にもたれかかってしまった。ミカエルが剣をしまい、平然と言う。

「無駄なことはするな。貴様が私に勝てるとでも思ったのか」

「ち、ちくしょう……」

 へーミシュがうめいた。

「へ、へーミシュ!」

 ソフィアはへーミシュに駆け寄ろうとした。しかし、天使兵がへーミシュの周りを取り囲み、近づけない。天使兵がへーミシュに剣を突きつけた。きっさきがへーミシュに限りなく近づく。ソフィアは恐怖で目を瞑った。


 ソフィアはまだ知らない。

 この少年に隠された過去も、この少年の背負う運命も。


《第4話 天使は微笑まない 了》

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