第2話 境界
「あんた、いったん俺の城に来ないか?」
公爵令嬢・ソフィアは、逃亡中で危うく囚われの身となりかけていた。そんな彼女を助けた悪魔の少年の問いかけに、ソフィアの動きが止まった。それも、目を大きく見開いたまま。
ソフィアがあまりにも動かないので、少年が逆に慌て始めた。
「お、俺、そんなに変なこと言った……?」
「い、いやそうじゃなくて・・・私、人間ですよ?」
「俺は別に構わないけど?」
「私が構いますっ!」
(そのまま生贄代わりに食べられるんじゃ……)
ソフィアは警戒心を高めた。しかし、このままここにいても捕まるだけ。
「そ、ソフィア嬢……」
声がした方をソフィアが見ると、先程少年の魔法で吹き飛ばされた騎士団長が、ズリズリと地面を這ってこちらに来ているではないか。
ソフィアは恐ろしさのあまり半泣き状態で少年の後ろに隠れた。
「ソフィア嬢……。逃しはしませんよ……」
ボロボロになりながらもソフィアに手を伸ばす騎士団長は、禍々しいほどの気迫を纏っていた。しかし、体力が尽きたようで、その手はソフィアに届くことなく地に落ちた。
「あいつ、あんなこと言ってるけど、このままでいいのか?」
少年が尋ねてきた。こうなってしまっては仕方がない。もう、生贄になろうがどうなろうが知ったこっちゃない。ソフィアは覚悟を決めた。
「よ、よろしくお願いします……」
ソフィアは少年に頭を下げた。
「……恩着せがましいことを言ったつもりじゃないんだがな。ま、いっか。こっちだ」
言いながら少年が目の前の岩の方を向く。巨岩を見つめる少年にソフィアが首を傾げていると、少年がにっと笑って、「まあ見てなよ」と言った。
少年が岩に両手をかざした。
『神聖なりし古代の扉よ、その力を持って、我を"異郷"へと導け——
少年が呪文を唱えた。その途端、中央にあったひときわ大きな石が光を放ち始めた。少年が現れた時と同じ光だ。同時に、まるで地響きのような轟音がソフィアの鼓膜を包む。
光が消え、再び静けさが辺りに満ちると、目の前の大岩が消えていて、そこには大きな洞窟があった。まるで、岩肌を鋭利な刃物で上へ上へと高く切り裂いたような、黒々とした入り口がぽっかりと口を開けている。少年が、その中に入っていく。洞窟の暗さに固まっていたソフィアだったが、置いて行かれそうになって慌てて着いて行った。
洞窟の中は、入り口から想像したよりもずっと広かった。入り口から差し込む光が、天井から牙のような鍾乳石が垂れ下がっているのを映し出している。ぴちゃん、ぴちゃん、と、水滴が落ちてくる音が、遠くまで響いていた。奥からひんやりとした風が吹いてくる。首筋に水滴が滴り落ちてきて、ソフィアの肩がビクッと跳ねた。へーミシュが『
ソフィアが目を凝らしていると、薄暗い明かりで洞窟内が照らされた。なんと、少年の左手に浮かび上がった魔法陣から、蝋燭のように小さな光が放たれているではないか。その光に照らされて、さらに奥へと続く狭い道が、闇の中へと消えているのが見えた。
「あ、あの、それは一体……?」
「ああ、これ?
「え、ええ」
便利だとか魔法を発動などという問題以前に、さっきから信じられないことばかりが起こっていて、ソフィアはまだ混乱中なのだ。次から次へと魔法を見せられても、ますます脳内がごった返すばかりだ。
さらに、元々ソフィアの初対面の人間(?)とのコミュニケーションの苦手さも相まって、会話に沈黙が訪れる。
「そういや、あんた、名前は?」
「あ、ソ、ソフィアです……」
再び沈黙。会話が続けられない。しかし、少年は気にせず話を再開した。
「俺はへーミシュ。よろしくな」
そう言われて、ソフィアは初めて、まじまじと少年の顔を見た。
明るい光の魔法陣が、少年の、自分よりずっと高い位置にあるその涼しげな面持ちを写し出していた。紅い瞳の切れ長の目に、ツンと高い鼻。真一文字に結ばれた口から聞こえてくる声は、少し枯れていた。社交界だったら間違いなくマダムたちの注目の的だろう。俗に言う”イケメン”なのかもしれない。頭に生えた角と、背中にある大きな翼を無視すれば。
(悪魔だし、こういうかっこいい 感じの姿にも化けられるのかな……)
じーっとソフィアが観察していると、へーミシュと名乗ったその少年と目が合った。目を合わせることが苦手なソフィアが、慌てて目をそらそうとすると、へーミシュは涼しい目元を細めて笑った。ソフィアは思わず、
(おお、これは絶対に御令嬢方が放って置かないぞ)
なんて思ってしまった。へーミシュの笑顔に苦笑いで返すと、へーミシュは少しキョトンとした後、面白そうに笑って言った。
「そんなに怖がんなよ。俺の仲間たち、みんないい奴ばっかりだからさ」
ソフィアを思い遣ったような口ぶりのその言葉に、ソフィアは頷いた。
「てか、あんな森の中で一体どうするつもりだったんだ?魔物とかに遭遇したら、大変なことになってたぞ?まあ、すでに大変そうな状況だったけど」
またもやへーミシュが質問した。
ソフィアは、この少年を信じていいかまだ不安だった。「そ、それは、その……」と、言い淀んでいると、
「……言いたくなければ別にいいけど」
少年が少し残念そうな声色で言った。そして、さらに付け足した。
「俺は場合によってはあんたを助ける。だから、そのつもりでなんでも話してくれるとありがたい」
「は、はい。ありがとうございます、へ、へーミシュさん……?」
「へーミシュでいいよ。あと、できれば敬語もやめてくれ。なんか違う」
さん呼びはなんだか違う気がする、などと困ったようにつぶやいているへーミシュを見ていると、ソフィアの心に一点の疑問が生まれた。へーミシュは確かさっき”俺の城”と言っていた。悪魔だから実年齢とは違う見た目なのだろうが、それにしてはへーミシュは若かった。何ならソフィアと同じぐらいの年に見える。
その時、ソフィアの脳裏に、誰かが話していたことが蘇ってきた。
《……知ってる?『へーミシュ』っていう言葉は、古代の言葉で『半分』という意味を表すんだよ……》
それと同時に、昔、何かを『忘れないで』と言われたことも思い出した。しかし、誰から、何を言われたのかは、思い出すことができなかった。それにしても、”半分”という名前を持つ悪魔と出会うとは。
(へーミシュって、一体何者なんだろう……)
「それより、早く行くぞ。どこで誰が俺たちを追跡してるかわかんないぞ」
「え、う、嘘!?は、早く行きましょ!!」
「おい、あんまり慌てると滑るぞ!?」
ソフィアを落ち着かせるためか、「誰か追跡してたら、隠密が得意な魔族とかじゃない限り気付くけどな」などとへーミシュがボソボソと言っているが、ソフィアからしてみたら危機的な状況なのだ。一刻も早く安全な場所、なのかはわからないが、悪魔の城だろうがとにかく彼らの手の届かないところへ行かなければならない。ソフィアの足が自然と早くなる。
洞窟を抜けると、そこはまた一面の森だった。だが、霧が立ち込めていて、遠くまでは見通すことができない。微かだが先ほどまでいた森よりも草木の香りや土の湿った匂いが強かった。洞窟の前にも高く雑草が生い茂っていたが、よく見ると、一筋の獣道のようなものがあった。
「ここは……どこ……?」
「ここは、”境界”だよ」
「”境界” ……?」
「そう。人間の世界と魔界の狭間にある世界。俺みたいな悪魔とか、魔物とか、精霊とか、そういうやつらが暮らしてる場所だ」
「つ、つまり異世界ってこと?」
「いや、異世界じゃない。この世界には、いろいろな”異郷”と呼ばれる場所が、高い山脈に区切られてあるんだ。そのうちの一つが、ソフィアが暮らしていた”下界”や、”
「そうなんだ」
相槌を打ち、そこでソフィアはあれ、と言って首を傾げた。
「そういえば、さっき言ってた、イニティウムって……?」
”イニティウム”とは、確か”始まり”という意味だったような気がする。遠い昔の記憶がそう告げていた。
「ああ。下界を最初に作ったと、多くの人に信じられている神だ。他にもいろんな神が携わったと信じている人もいるから、実際のところは神々にしかわからない」
「神様って、他にもいるの?」
ソフィアにとってはシンプルな疑問だったが、それを言うと、へーミシュは驚いたような顔をした。
「し、知らないのか……。他にも神はいるよ。ソルとか、ルーナとか、クレメンティアとか」
「クレメンティア?」
ソフィアはその名前に聞き覚えがあったので、思わず聞き返した。
「慈悲の女神だよ。まあ、下界に残っている神といえば、クレメンティアぐらいだな」
「そうなんだ……」
(クレメンティア……?どこかで聞いたことがあるなぁ……)
そんな会話をしながら、へーミシュが歩き出したので、ソフィアも後に続いた。森の中に入ると、木々の間まで霧がかかっていて、ほんの少し先すら見通せなかった。手で掴めそうなほどの濃霧が、ソフィアの来た道を再び閉ざしていく。前後を霧で覆い隠され、今にも魔物が飛び出して来そうな中、ソフィアはただ無言でへーミシュの背中を追って歩くことしかできなかった。
歩いていると、いきなり霧が開けて視界が広がった。そこには、ソフィアが今まで見たことがないほどの巨大な城があった。城は断崖の高台にあり、城壁は端から端まで歩くのもやっとそうなほど長い。また、あちこちに建てられた塔は、屋根の辺りに霧がかかって、てっぺんが見えないほど高かった。そんな絶壁の巨城に、へーミシュはためらうことなく進んでいく。
「へーミシュ、あれがひょっとして……?」
「ああ。あれが俺の城だ」
「すごい、大きい……」
(都のお城や、マグナニムス家のお屋敷より大きい。さすが悪魔のお城……)
ソフィアは今まで見てきた大きな建物を思い浮かべてみたが、どれもこの城には、かないそうもなかった。すると、へーミシュが手を差し出しながら言った。
「城の入り口はあの崖の上にあるんだ。歩いて行くことはできないから、飛ぶぞ」
「う、うん……って、え!?」
空を飛ぶ、ということに驚く暇もなく、ソフィアの体がふわりと浮かび上がった。それが、へーミシュに抱えられたからだと分かった頃には、すでに空高く舞い上がった後だった。
(お姫様抱っこ!?)
しかし、へーミシュはなんとも思っていない様子で翼をバサバサと羽ばたかせている。「ん、どうかしたか?」と、これまたなんとも思っていなさそうな声で聞いてきたへーミシュに、「い、いや何も……」と返した。
(それにしても、お姫様抱っこって……)
いまだにへーミシュの行動に動揺中なソフィアだが、もはや現実の状況がぶっ飛び過ぎていて、かえって冷静になりつつあった。
なぜかソフィアを助けてくれたへーミシュ。彼との出会いが偶然ではないことは、今はまだ、知るよしもなかった。
《第2話 境界 了》
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