プハンタシア哀歌 〜へーミシュの旅〜

天ツ空氷結

境界探訪編

第1章 プロローグ

第1話 出会い

 ある深い森の中を、一人の少女が走っていた。

 シンプルで質素な、庶民の服を着たその少女は、おとなしそうな見た目とは裏腹に、どこか気品を湛えていた。

 そんな高貴な雰囲気にもかかわらず、少女はなぜか森の中を、一人駆けていた。

 木々の間をすり抜け、小川を渡り、谷間を超えて、どこまでも遠くへ。

 ——少女の名はソフィア。エオーニオン王国の第二王子である公爵の元に生まれた。頭からすっぽりと被っているベールに隠れた、母似の深緑色の瞳には、疲労が見えている。そんな中、なおもソフィアは走り続けている。


 どこからか微かに犬が吠える声が聞こえ始めた。

 迫る追っ手の気配に怯えながら、ソフィアは逃げ続けた。それでも、逃げても逃げても、犬の唸り声と馬の蹄の音が近づいてくる。早朝から走り続けたソフィアの足は、もう限界だった。


 目の前の山腹に大きな岩が見えた。”パクスの岩”と呼ばれるその岩を越えれば、その先はもうカエルム帝国だ。しかしそこで、ソフィアは力尽きて座り込んでしまった。


 すでに東の空は白くなり始めていた。もうそろそろ、闇に紛れて動くことも出来なくなる。しかし、朝早くから行動していたためか、ソフィアは徐々に強烈な眠気に襲われた。ゆっくりと瞼が閉じていく。もう動くこともできない。


「いたぞ!」

「あそこだ!」


 兵士の声が聞こえて、ソフィアの肩がびくりと跳ねる。薄暗い林の中から、その姿が少しずつ見え出した。

(ああ、ついに見つかってしまった……)

 脳が危機的な状況だとはっきり伝えている。しかし、その本能的な警告に反応することもできないほど、ソフィアは疲弊していた。

 そうしているうちに、すぐに兵士に取り囲まれてしまった。

 兵士たちに剣を向けられる。そのヒヤリとした輝きに、背筋が凍った。身動きが取れない。

「お久しぶりですなぁ、ソフィア公爵令嬢」

 薄笑いを浮かべた教皇騎士団の団長が話しかけてきた。

「な、何のことでしょう?」

 何とか誤魔化そうとしてソフィアのベールの下の顔が強張る。それでもソフィアは平静を装っていた。

 すると、団長がこう言った。

「何を今更おとぼけになられるのですか、ソフィア嬢。我々はあなたをお迎えにあがったのですよ。まさか、殿下との婚約を忘れたとは言わせませんよ?こんな粗末な服を着て、我々をごまかせるとでもお思いで?」


 騎士団長の声が耳にこだました。

 一気に思考が停止する。


 わかっていた。逃げてもどうせ捕まることを。そして、捕まったら最後、カゴに入れられた鳥は、自由に羽ばたくことはできない。


「さ、早く戻りましょう!そうでなければ、じきに魔物が現れてしまいます。それに、サンクトゥス様もお待ちかねですよ」

 騎士団長が目で合図を送ると、騎士が二人近づいてきて、両側からソフィアの腕を掴んだ。兵士がベールを取ると、王族の証である、ソフィアの銀色の髪があらわになった。

「は、離して……‼︎」

 しかし、振り解こうともがけばもがくほど、より強く腕を掴まれる。

(い、いやだ……!誰か、助けて……‼︎)


 その時だった。


 突然、大きな音と共にあたりを光が包み込んだ。

 その光が、木々の間からのぞいた朝日ではないと分かった瞬間——



  ——ソフィアは、騎士たちの目の前に一人の少年が降り立つのを見た。



 目を開けると、巨岩の前に、人の姿をした、けれども人ではない異形のものがいた。

 頭には、鈍く光る黒い二本のツノ。

 背中には、蝙蝠のような翼。


 すらりとした背の高いその者の、怪しく光る紅い瞳がソフィアたちを捉えた。

「ひ、ひいっ!」

 後ろで誰かが悲鳴をあげる。

 遅れて恐怖心が湧き起こってきた。血の色のような瞳に見つめられて、まるでその瞳に吸い取られるように血の気が引いた。


(これが……悪魔……!)



 すると、悪魔の少年が口を開いた。



「これ、どういう状況?」


「えっ」

 思いがけない反応に、ソフィアは首を傾げた。見ると、驚くことに、その少年まで首を傾げているではないか。

(あれ、悪魔って普通、『我は○○なり。我の力を借りたくば生贄をよこせ』とか言って登場するんじゃないの?)

 あまりにも突拍子もなさすぎて、ソフィアがこんなことを考えていると、少年が、ひらひらと手を横に振りながら言った。

「いや、こんな森の中で女の子が騎士に捕まってたら、どういう状況って聞きたくなるだろ、普通」

 なんだか悪魔が正論を言っている。もう、ソフィアがどういう状況かと聞きたいくらいだ。

 騎士団長が、震える声で「お、お前は何者だ!」と叫ぶ。

「ただの通りすがりの悪魔ですが?」

 少年が、嘲笑うかのように言った。

(うわあ、やっぱり悪魔なんだ……)

 ソフィアは、恐怖を通り越してもはや思考と感情を放棄しかけていた。今の心情は、おそらく呆れにも近いものだろう。

「な、何を・・・!おのれ、ものども、かかれぇ!ソフィア嬢をお守りするのだ‼︎」

 騎士団長が騎士たちに命令した。しかし、その声に従うものはいない。振り返ると、大半の騎士が腰を抜かしてしまっていた。

「な、何をしておる!早くやつを始末しろ!」

 その声でようやく我に帰った何人かの騎士が、剣を構える。そして、少年に剣を振り下ろした。

「だああああああ!」


 金属が折れる、高音と低音が混じった音がした。残響があたりに響き渡る。

 それは、振り下ろされ、完全に少年を切り裂いたかに思われた剣が、真っ二つに折れる音だった。

「なっ⁉︎」

 騎士たちが驚嘆の声を上げる。

 少年の周りが、ぼうっと薄く光っているのが見えた。結界でも張ったのだろうか。

 すると、少年が何かを唱えた。


『聖なる金色の光よ、燦然と輝け——閃光ミカーレ


 突然、眩い光が迸った。辺りが瞬時に見えなくなる。

(殺される……‼︎)

 鋭い光が全てを包み込む。あまりに強い光に、咄嗟に目を閉じる。それでもなお、光は瞼を通してソフィアの眼に突き刺さってくる。ソフィアは死を覚悟した。


 ゆっくりとソフィアが目を開けると、横で騎士たちが倒れていた。でも、不思議なことに、ソフィアだけ何ともなかった。痛みもない。自分の周りをよく見ると、ソフィアは、少年の周りにあるのと同じような光をまとっていた。

(あれ……?なんで私だけ……)

 しかし、騎士団長は辛うじてまだ意識を保っていた。

「おのれ・・・悪魔め・・・」

 足がフラフラしている。それでも、騎士団長は剣を杖代わりにして立ち上がる。少年へと剣を向け、そして少年に襲いかかった。

「死ねえええええええ‼︎‼︎——あ?」

 騎士団長が少年に飛びかかったその刹那に、少年は騎士団長の目の前に迫っていた。不敵な笑みを浮かべた悪魔の少年の紅い瞳が、騎士団長を睨む。

「俺から見たら、あんたらの方がよっぽど悪魔だよ」

 少年の左手には、闇色の魔法陣ができていた。魔法陣が発するおどろおどろしい色の霧が、辺りの木々も草も、鳥のさえずりさえも飲み込んでゆく。朝日に照らされていたはずの森は、じわじわと闇夜に包まれていった。


『冥界の底から湧き上がりし深き闇よ、その魔の力を持って、我の敵を葬り去れ——暗澹の夜陰テネブリス


 そう呟いた、その瞬間、少年はその左手から真っ黒なを放った。夜空の色よりも暗いその闇が、騎士団長を吹き飛ばした。遠くへとまっすぐに飛ばされた騎士団長は、光線の延長線上にあった大木に叩きつけられてそのまま倒れた。


「騎士団長!」


 思わず叫ぶ。


 まさか、死んでしまったのだろうか。

 ピクリとも動かない騎士団長を見て、ソフィアに改めて恐怖が忍び寄ってきた。騎士団長や騎士たちも心配だが、今はそれどころではない。

(もしかして、私もこうなってしまうの……?)

 次は自分だ。本能がそう告げている。ソフィアの頭は、先ほど騎士たちに腕を掴まれたときとは違う恐怖を感じていた。


 少年がこちらへと振り返る。


「ひっ!」


 再びその紅い瞳に見つめられて、ソフィアは地面にへたり込んでしまった。震えが止まらない。

 少年の姿をした悪魔が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。じりじりと後ずさったが、後ろにあった木にぶつかって、それ以上進めない。少年がソフィアの前でしゃがみ、目線がソフィアと一緒になる。

 少年が口を開いた。


「大丈夫か?」


「えっ?」


 少年が放った一言があまりにも意外すぎて、ソフィアは目をしばしばさせた。

(あれ?こういうシチュエーションだと、悪魔ってその人を攫って生贄として食べるって聞いたことがあるんだけどな??ていうか、悪魔ってこんなこと聞くの???)

 状況があり得ないせいか、そこまで考えてソフィアの脳は完全にフリーズした。

「ん?おーい、大丈夫かー?」

 少年が、虚空を見つめるソフィアの顔の前でひらひらと手を振った。それでようやく我に返ったソフィアは、

「だ、大丈夫ですっ!」

 と咄嗟に勢いのある返答をしてしまった。もはや、なぜ悪魔と普通に会話できているのか、という疑問すら忘却の彼方にあるが、何とか思考が戻ってきたソフィアを見て、少年はこれまたなぜか、少しホッとしたような顔をした。

「そうか。ならいいけど。すごく切羽詰まったような顔してたから、心配してたんだ」

(え???悪魔が心配?)

 脳内の混乱に終止符が打てないほど、ソフィアは混乱していた。しかし、それを知ってか知らずか、少年が続ける。

「というかあんた、何でこんなところでこいつらに捕まってたんだ?貧相な格好してるけど、見たところ高貴な身分っぽいし。こいつらも、いかにも由緒正しいですよーって感じの出で立ちの騎士だし。何かあったのか?」

「わ、私は……」

 そこまで言いかけて、ソフィアはハッとした。いくら人(?)が良さそうでも、目の前にいるのは悪魔。きっと、弱みを握って、騙して恐ろしい契約を結ばせようとか、そういうことを考えているのに違いないのだ。ソフィアが警戒の目線を向けると、それを察したのか少年がこう言った。

「おいおい。俺は確かに悪魔だけれども……」

 そこまで少年が言いかけたその時、近くに倒れていた騎士が、呻き声を上げた。ソフィアはびっくりして悲鳴を上げてしまった。

「あ、こいつら、気絶させただけだから、そのうち起きるぞ」

 少年が、これくらいどうってことないよ、とでも言いたげな様子で言った。

「ええ⁉︎それは困りますっ……!」

 ソフィアがあたふたし始めると、

「やっぱり大丈夫じゃないんじゃないか」

 少年が、やれやれと言った感じでそう言った。

 そして、こんな提案をしてきたのだ。


「あんた、いったん城に来ないか?」


《第1話 出会い 了》

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