第16話 一等星のように
美しい心でありますように。
明るく、優しく、健やかに。
人の幸福を願う。
たくさんの人を愛し、たくさんの人に愛され、世界に毎日を祝福されるような。
そんな、華やかな人生でありますように。
――――姫。
姫は、姫という名前が好きだ。
無邪気で、傲慢で、奔放で、美しい響き。
この世の誰よりも姫にふさわしい。
この名前をくれた両親には感謝している。
桜木という苗字も好きだ。
淡く鮮やかな色合いと、真っ直ぐな芯の強さを連想させる。
手放したくない。
だから別れた。
結婚したら、苗字が変わってしまうから。
♥
深夜の三時を回った、冬の寒空の下。
小さな公園のベンチに姫はいた。
缶のホットミルクを両手で持ち、コクコクと飲む。
あったかい。苦い。
嫌いなのに牛乳を飲んでいる。理由は、白い飲料だから。
これを飲んだところで白くなれるわけじゃないことは、もちろん知っている。むしろ成分表には人工物や添加物がいっぱいで、体内に不純物を感じた。
けれどもう、姫にはどうすれば『白』になれるのかわからない。
『白』の魅力に取り憑かれた彼女は何年もそれらしい活動に没頭してきたが、成果が出ているのかすら未だにわからない。
『白』の定義ってなんだ?
と、最初の疑問に戻ってきてしまった。
徒労だったかのようだ。これまでの努力の何もかも。
はあ、とため息をつくと、白い息が口から漏れる。
あ、白が逃げちゃう、と思った。
慌てて手を伸ばしたところで掴めるはずもなく、あっという間に霧散する。
あー、せっかくの白だったのに、また減っちゃった。
なんて、ね。
当然だが、白い吐息は『白』ではない。白く見えるだけの水分だ。だから、手に入れようが無くなろうが意味はない。
無意味なものに一喜一憂する様は、いっそ病的だった。
「……ホント、イヤになるなあ」
嫌になる。
自分が、嫌になる。
姫は露出している左手首の血管を、右手の人差し指で縦になぞった。
何度も。何度も。
決して傷つけているわけではない。爪を立てているがそれが皮膚に食い込むことはなく、言うなれば血管を優しく撫でているにすぎない。
だがそれは肉体が傷ついていないだけであり、精神状態から判断するならば立派な自傷行為であった。
撫でるだけであったとしても、その威力は指と刃物で大きく異なる。
ふとしたきっかけで、今日はカッターナイフを使おうなんて考えた暁には、死が待っている。
そんな拡大解釈が妄想で済まない程度には、彼女の状態は危険だった。
死の瀬戸際、あと一歩の断崖で留まっているのだって、「傷は『白』じゃないから」などという抽象的な観念に囚われているからにすぎない。
リストカットは、自己嫌悪の果ての果てだ。
あんなにも自分を愛し、あんなにも自分を特別としていた姫は、たった数年でここまで追い詰められてしまった。
その原因が、創作という名を冠する無限の魔窟にあることは明白である。
彼女の気持ちを理解できるのは地球上でごくわずか――同じく真性の作家だけだろう。
姫が『白』に取り憑かれたのは、十七歳の頃。
その年の学園祭の準備期間中、雷が落ちたような衝撃とともに、『白い作品』は顕現した。
ミスコンの舞台で披露し、失敗し、必ず完成させると誓ったあの最高のアイデアこそが、『白い作品』だったのだ。
その輝きは今もなお脳内で燦然ときらめき、かつてないほど魅惑的な悪魔となって、鼓膜を突き破るような絶叫を放っている。
それから五年、彼女は失敗し続けた。
今まで、作ろうと思って作れなかった作品は一つもなかったというのに、いつまでもいつまでも完成しない。明確なビジョンすらも見えてこない。
悪魔は年々その存在感を強くし、暴れ狂うほどの哄笑を響かせているにもかかわらず、だ。
焦れる。苛立つ。病む。
ギリッと、血が出るほど唇を噛む。
姫は『白い作品』の素材として、自分自身を選んだ。
思えば、それが最初の間違いだったのかもしれない。
――人間を芸術に用いることにはリスクがある。
そもそも、『自分』という存在は完璧にはなりえない。
どれほどのことができようと、どれほどスペックが高かろうと、自身のことを一つも非の打ちどころのない、あらゆる方面に卓越した超人であると、心の底から考えている者は一人もいないはずだ。
芸術家は、素材に完璧を求める。
あえて不完全なものを用いたり、不完全さを利用して作られる作品も数多く存在するが、こと姫の作品においては、素材は完璧でなければならない。そうでなければ成立しない。
たった二十二年の人生で、すでに妄執と呼べるまでに煮詰められた恐ろしいこだわりだ。
プロ、学生問わず、類稀であろう我の強さ。
想像してみてほしい。
天性の色覚を備えた審美眼。絵を一枚描くたびに洗練され、鍛え上げられ、日常生活で扱うものとは別物と化した、作家の『眼』。
それが、自分自身に向いたとしたらどうなるか。
たまらないだろう。
普段は気にも留めていなかった欠点が、蕁麻疹のように浮かび上がる。
厳密には、蕁麻疹の一つ一つは欠点ではない。欠点と呼べるようなものでは決してない。
だが違うのだ。
オシャレをする上での欠点ではない。男にモテる上での欠点ではない。
作品を作る上での欠点なのだ。
例えば、手の平に新しいしわができた。
例えば、ほくろの位置が二ミリもズレてる。
例えば、髪の毛の一本が綺麗に染まっていない。
そんな、誰も気に留めないようなところまで理想を追求し、水準に満たなければ「使い物にならない」と断ずる毎日。
こんなものでは足りない。
こんなものでは素材にならない。
こんなものは『自分』ではない。
外見だけならまだかわいいもので、そこに性根の清らかさ、他者からどう見られているか、社会的地位、大自然の循環の一部としての『自分』までもを気にし始めたならば、それはもう永劫に苦行を課し続ける地獄のような日々なのである。
自らを人として扱わず、作品を構成する要素の一部とみなした姫は、外面にも内面にもバツをつけ続ける。それこそ、素材に対してそうするように、千回も万回も「ダメ」と言い続ける。
人生は、小さな希望と、小さな絶望の積み重ねだ。
明日はおいしいご飯を食べる。
そんな小さな希望で、ちょっとだけ幸せな気分になれる。
明日は嫌な課題をやらなくてはならない。
そんな小さな絶望で、ちょっとだけ不幸せな気分になれる。
人間の情緒は、それくらい簡単に変動する。
小さな希望が集まれば幸せな人生だし、小さな絶望が集まれば不幸せな人生なのだ。
姫は、絶望を積み重ねすぎて壊れてしまった。
「ぁぁぁぁ…………!」
涙が出てくる。
できない。できないよ。
できない自分なんて、もう、嫌いだ。
天を見上げると、夜空には雲一つかかっていないというのに、星が、見えない。
深夜であっても、東京の街灯に負けてしまうのだ。
輝きが、足りない。
だから、届かない。
姫は、『白い作品』を絶対に完成させなければならない。
絶対に、絶対に、白くならなければならない。
なぜなら、彼女は親不孝な娘だったから。
『姫』という名前に込められた願いは知っている。
今の姫が、その願いにそぐわない駄作であることも知っている。
ならせめて、ちょっとでも二人が望む『姫』になって、喜んでもらえたらなっていう、思いつきだったのかもしれない。
彼女の中で、『姫』という存在のイメージは『白』。
性格はもう変えられないから、せめて作品として最高のものをプレゼントしよう。
もっと白くなる。
もっともっと白くなる。
そしていつか真っ白になって、一等星のような輝きを放てたのなら――。
天国まで、届くかなあ。
「お母さぁぁん……! お父さぁぁん……!」
泣き声は、夜空に吸い込まれて消える。
本物の一等星ですら人工の光に阻まれるのに、声なんかが届くはずもなかった。
もういないんだって、最近気づいた。
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