第17話 どうして姫は姫なの?
アスペルガー症候群。
発達障害の一つ。社会適応能力、コミュニケーション能力、共感能力などに難を抱える。
相手の立場になって物事を考えたり、場の空気を察知することを苦手とする場合が多く、対人関係に不和を生じやすい。また興味が限定されやすく、こだわりも強いために思考が偏ってしまい、他者からの理解を得にくい。日常生活がルーティーン化する傾向にあり、それが崩れたりなど、些細なことでパニックに陥ってしまうこともある。
反社会性パーソナリティ障害。
通称、サイコパス。パーソナリティ障害の一つ。罪悪感、倫理観、良心の欠如。恐怖、緊張を感じない。極度の自己中心性など。
違反行為に快感を覚えたり、スリルそのものを強く求めてしまうがために、規則やルールを守ろうとせず、またそれを正当化する傾向がある。フィクションに登場するような殺人鬼はあくまで誇張だが、そうした逸脱が猟奇的に映ってしまうことはある。
また、欲求に耐える力が弱い。
眼皮膚白皮症。
通称、アルビノ。皮膚疾患の一つ。メラニンが合成されない。あるいは少ない体質のために、体毛、皮膚、瞳の色素が薄い。
色素の薄い身体は紫外線への抵抗力が弱く、日焼けの対策は常に行わなくてはならない。プールなどの屋外では水浴びできない、服装に制限がかかるなど、周囲との違いが生じる。
白を基調とした珍しく特異な外見が、誤解を招くこともある。
先天的に三つの病を抱えた桜木姫には、困難な運命が決定づけられていた。
目を閉じれば蘇る。
光を封じてしまいたくなるような暗い記憶。
『なにそのかみ! すっげーへんじゃん‼』
『ねえ、なんで目の色がちがうの? かっこつけなの?』
『ガイジンだ! ガイジン!』
『桜木ぃ! また体育は見学か! 情けない!』
『障害者はこっちこないで』
『うちでバイトするなら、髪を染めてもらわないとねー。ほら、我々はよくてもお客様がさ』
『桜木さんのお宅の子、あれはちょっとねえ。あんな格好させてる親御さんも常識が……』
『あの子きらい。だってすぐ嘘つくじゃん』
『なんだよ……! お前怖ぇよ……!』
『ルールはルールだ! 守れないヤツは、社会で通用しないぞ!』
『おはようサイコ』
『社会不適合者ってああいうヤツのこと言うんだよね』
『ダメダメ! そんなに見せびらかしたら、アイツに盗られちゃうでしょぉ???』
『死ね。ゴミクズ』
『ねえ! みんな協力してくれてるじゃん! なんで姫ちゃんはいつもいつも……‼』
『どうしてそんな酷いこと言えるの?』
『お前、変だね』
『ちょっとは空気読みなよ……』
『今から桜木のモノマネします! イヤァァァァ――――――――――――‼』
『クラスに同調しない私カッコいい、とか思ってるんでしょ?』
『うわっ! ホンモノの桜木姫じゃん!』
本当に悪質なものもあれば、姫に非があるものもある。
だが、当時の姫にとってはどれも等しく理不尽だった。
辛い思い出ほど、鮮明に残る。
二〇〇六年 四月五日
両親ともに、不慮の交通事故で他界。
桜木努、享年三十九歳。
桜木巴、享年三十八歳。
姫の中学校の入学式。その前日のことだった。
娘を愛していた二人は、その成長を見守ることなく無念にもこの世を去った。
手のかかる子であったから、なおさら。
姫はその後、母方の祖父母の世話になることになり、東京から新潟へ引っ越した。
母の旧性ではなく、生まれ持った桜木性のままにしているのは本人の意思である。
葬式の際にも、彼女は涙を流さなかったという。
姫を無条件に愛し、守ってくれる二人はもういない。
姫がどれほど偉大な芸術家になろうと、どれほど優れた作品を世に生み出そうと、一番に褒めてくれる相手はもういない。
そんなことを自覚するのに、九年もかかった。
♥
桜木姫 二十三歳
靴ひもを結び直す。
キャリーケースと鞄は持った。財布と携帯も大丈夫。その他の荷物はすでに新居に送ってある。
年季の入った木造の平屋。世話になった祖父母の家に振り返る。
この家を見るのも、もう最後だ。
玄関の引き戸がガラガラと開く。
「姫ちゃん」
出てきたのは祖母だった。
眉を下げた神妙な面持ちで、何を言うのかはわかっている。
「やっぱり、おばあちゃんは反対だよ」
憂う目は親同然。
姫を引き取ってから十一年間、藝大に通っていた一人暮らしの四年を除いても七年間、我が子のように愛情を注いできた。若くして亡くなった娘――巴が与えるはずだった分も含めてだ。
責任と覚悟を持って預かった子が、危険な道へ進もうとしている。
ならば、引き留めるのは当然のことだった。
「今からでも考え直さんかね。就職は、なにもすぐじゃなくたっていいんだから」
姫は無表情だった。
『白』ではない。色を極限まで落とした、『無』の顔をしていた。
「ううん、行くよ。姫は……、私は、やらなきゃ」
取りつく島もなく、踵を返す。
ややあって立ち止まり、もう一度だけ振り向いた。
「今までありがとう」
連絡先も教えていない。
このやり取りが終われば、祖母と会うのも本当に最後だ。
「おばあちゃんは、芸術のことはよくわかんないけどねぇ……」
彼女は、心を押し殺すように言った。
「姫ちゃんの才能は、ここまでやと思うわ」
できれば言いたくなかっただろう言葉、しかしどうしようもない本音を祖母は告げる。
姫は変わらず、表情筋一つ動かさない。
「姫ちゃんにはきっと、特別な才能があったのねぇ。神様からの贈り物よ」
生まれた時から知っている。
姫は天才だった。
それもただの天才ではない。百万人に一人、どころか、一千万人に一人レベルの、光り輝く原石。
そしてその才能に溺れた。
あんなに明るくて、いつも楽しそうで、自信にあふれていた少女が、感情を消すほどボロボロの自己嫌悪に陥るなど、尋常ではない。
天才だったのに。天才だったからこそ、壊れるまでのめり込んだ。
「その腕に心が追いつくかどうか。心が強いこともね、才能だって、おばあちゃんは思うんよ」
だから行ってはいけない。
この先にある進路には、理想には、向いていないと祖母は言った。
「そう」
それだけ言うと彼女は、素っ気なく踵を返す。
悲しいくらいの執着のなさは、育て親の想いをたしかに傷つけた。
今度こそ。
本当に本当に、さようなら。
どうしようもなく自分を見失ったまま、姫は歩き出す。
「困ったら、いつでも電話するんだよ……!」
風が、声を阻んだ。
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