第15話 一日百善③
四年生
東京藝術大学は、日本最高峰の美術大学。
だがその卒業生でさえも、作家として生きていく者は一握りだ。芸術の世界とはそれだけ厳しく、狭き門なのである。
しかし桜木姫には、その門をくぐる資格がある。彼女はその年の在校生の中で相当な有望株だったのだ。
評価されているのは、やはり色と世界観。また、今年の文化祭で良くも悪くも注目を集めたことが大きい。
藝大には界隈とのコネクションが豊富にあり、彼女のもとにはすでに、たくさんのオファーが来ている。
「これが、連盟の人からのやつ。これが、オークション会社の人からのやつ。これは……、たしか個人からの依頼で。これが、ドイツからのやつ。それと……、なんでかわかんないけど、芸能プロダクションから」
机に並べられた名刺には、そうそうたる法人、個人の名前が記されていた。
周りの学生からすれば、ろくに就職活動をしていない姫にこれだけの声がかかるのは、さぞ羨ましいことだろう。
決して大成が約束されたわけではないが、卒業後すぐに大きな仕事があるというのは強い。芸術家として歩みだすその一歩目が保障されたのだから。
だというのに、姫の表情は晴れない。
こんな名刺は彼女にとって、紙切れも同然のようだった。
「だって、これで『白』になれるわけじゃないし……」
姫は、能面のような無表情でいる。
顔色から掴める情報量があまりにも少ない。
まるで、感情が抜け落ちてしまったかのように。
「結局、ダメだったな……」
四年、経った。
それだけの時間をかけても、『白い作品』が完成することは終ぞなかったのだ。
それが悲しくて、悲しみすらも通り越した虚無があって、全身からかすかな悲哀をにじませている。
「……」
茜はそんな姫を、じっと見つめていた。
「ねえ」
声をかけると、彼女はゆっくりと振り向く。
「文化祭、なんであんな作品を展示したの? 今更だけど」
茜の質問に姫は、意味がわからないと首を傾げる。
「危ないことしないでって、言ったのに」
言及しているのは、四年次の文化祭で姫が発表した、『黄色人種』という作品のことである。
『アジア人の否定』という痛烈なテーマを表現した傑作であったが、マスメディアが立ち入るような場に出すべきではなかった。
結果的に何事もなかったからよかったものの、展示期間中に茜がどれほど神経をすり減らしていたことか。
姫は目を逸らし、情緒の希薄な顔で反論した。
「だって、仕方ないじゃん。あれしか思いつかなかったんだから」
彼女の本来の予定では、文化祭には『白い作品』を展示するつもりだったらしい。
しかし例のごとく、『白い作品』は完成しなかった。だからその代打として、『白い作品』と同じくらいのクオリティで、同じくらい魅力的で、同じくらいの驚きを与えられる作品を作らなくてはならなかった。
それがあの、復讐心とも呼べるほどの劣等感にまみれた、『黄色い作品』だったのだそうだ。
姫はこだわりとリスクを天秤にかけて、前者を優先した。
その気持ちは、わかる。姫ほどではないが、茜だって研鑽を積んできた作家なのだ。特別な舞台で特別なものを発表したいという心理は、誰しもが共感できるものだろう。
だからといって自ら火の中に飛び込んでいくような行為は、見過ごせるものではなかった。
意を決して、言う。
「姫、もう諦めな」
固まっていた姫の表情が、さらに硬くなる。
「もう無理だよ。これ以上は――」
「どうしてそんなこと言うの?」
声を遮って姫はこちらを見た。その瞳は、暗い。
おぞましい執念を感じる真顔だ。普段、人を威圧する側の茜をして、恐ろしさに息を呑んでしまうほどの。
たったそれだけ。それだけで、彼女は言葉を紡げなくなってしまった。
「大丈夫だよ」
黙り込んでしまった茜の代わりに、姫は話を続ける。
「思いついたんだ。新しい、『白』になれる方法。だから、きっともう大丈夫だよ。なんでもっと早くこうしなかったんだろうって、後悔してるくらい」
そう語る彼女は、どこか安堵しているように見えた。
何をするのか。なぜ大丈夫だと言い切れるのか。
尋ねる前に、答えは返ってきた。
「宗教に入信したの」
ピシリと、茜は固まる。
絶句というものを初めて経験した。驚愕で声にもならないなんてことが、本当にあるなんて。
反応できない彼女を差し置いて、姫は心なしか楽しそうに、朗々と語り聞かせる。
「これまでは外側から『白』になろうとして環境保全なんてやってたけど、それじゃダメだったんだね。だってキリがないもの。それで困って相談したら、教祖さんが教えてくれたんだ。『だったら世界と姫を切り離しなさい』って。ね、すごいでしょう? 姫が四年も悩んでたことが、あっさり解決しちゃったの。きっと、今だったんだね。姫の人生の転換点は、今だったの。あの場所にいれば今度こそ、姫は『白』に出会える。『白い作品』を作れる。茜も、そう思うでしょ?」
「そんなわけない!!」
茜は大声を上げた。
周囲の目も気にせず、深い思慮もなく、ただ、止めなきゃという使命感だけがそうさせた。
人生で一番の絶叫だったかもしれない。
彼女は震える手で姫の肩を掴む。
「姫、アンタ絶対にだまされてる! 世界と切り離すとかなんとかって、どっちにしろ無理難題じゃない!? そんなこと吹き込むような人間がまともなはずない! どうしてアンタはそう、いつもいつも極端なの!? お願い正気になって! 目を覚ましなさい!!」
茜の必死の懇願は、届いたか否か。
姫はしばらく沈黙していた。
やがてゆっくりと、肩にかかった茜の手を払うと、薄桃の右目と水色の左目を、失望に染める。
「そ、茜はもう、姫に期待してないんだね」
届かなかった。
茜は苦渋に顔を歪めると、もう一度、何度でも言葉を尽くそうとして、
「姫の話を聞いてる時、茜つまんなそうだったもんね」
「……え?」
予想外の方向から、突き放すような言葉が来て、放心する。
身に覚えのある糾弾が、彼女に反論をためらわせた。
「おぼえてる? 二年生の時、茜が姫の作品を楽しみにしてるって言ったの。あれね、すごく嬉しかったんだよ」
「がっかりしたでしょ? 三年生になっても完成しなかったから」
「いつもため息ばっかりついてたもんね」
畳みかけるような不満が、茜の心をえぐっていく。
自身の気だるげな態度がずっと誤解を招いていたのだと、彼女は今気づいた。
「ち、ちがっ、私は――」
「涼しい顔してる人に、姫の気持ちなんてわかんないよ」
弁解を許さず、姫は立ち上がると帰り支度を始めた。
一瞬のうちに、茜の脳内では後悔が渦巻く。自身の性格的な欠点がこんなところで不利に働くなんて、微塵も考えていなかったのだ。
「待っ……」
ようやく動き出せたときには、姫はすでにカフェテリアを出るところだった。
彼女はややあって立ち止まると、茜の方を振り返る。
久しぶりに見せたいたずらっぽい笑みに、本物の苛立ちを乗せて。
「ホント、何考えてるかわかんない顔」
鈴の音とともに扉は閉められて、茜は置き去りにされた。
力いっぱいに突き刺された言葉のナイフはあまりにも痛くて、その場に座り込む。
涙が止まらなかった。
一条茜は、冷淡な人物だと誤解されることが多い。
気だるげで無機質な態度は多くの人に、「他人に何の興味も示さない冷たい女」という印象を抱かせてしまうのである。だがその評判は間違いで、彼女は人並みの感受性と情緒をちゃんと持ち合わせている。感情表現が下手なだけの普通の女性なのだ。
姫のことは、唯一の友達だと思っていた。
彼女はただ不器用に、心配をしていただけだった。
×××
鏡の前に立った。
何種類かの絵の具を乗せたパレットを持って、筆を力いっぱいに掴んで。
今日こそ『白』になるのだと、覚悟を決める。
『すぅぅ――――――――――――――――ぅぅ』
力いっぱいに息を吸う。
絶対に切らさない。切らしてはいけない。
『はぁっ――!』
集中。
鏡に映る自分自身を、彩っていく。
白をメインに。その他の色や装飾は、白を強調させるためのアクセントに。
肌を、筆でえぐる。
………………………………。
失敗。
『すぅ――――ぅ、はぁっ――!』
集中。
もう一度。
……………………。
失敗。
『すぅ――ぅ、はぁっ!』
集中。
失敗。
『―――――――――――――――――』
『――――――――ぁぁあっ‼』
集中。
集中。
集中。
失敗。失敗。失敗。
集――、
『すぅ――――――――、
限界
――げほっ、げほっ、――――ぜぇ』
行き過ぎた無茶に耐えきれず、姫はとうとう崩れ落ちた。
うずくまって、心臓を抑える。
鼓動が早すぎて痛い。痛い、痛い痛い痛い。
頭を床につけてのたうち回った。
『はぁっ、はぁっ、はっ、』
過呼吸のように、肺の運動が止まってくれない。
まるで痙攣するかのように上下する肩。
時折、ひゅーひゅー、という危険な息も混じる。
苦しみは、地獄のようだった。
何時間かして、ようやく落ち着いた。
うつ伏せに寝転がったまま、よだれで濡れたカーペットを見つめる。
爪を立てる。
ウールの繊維を、引きちぎるように握りしめた。
『……………………できない…………!』
死にかけるまで繰り返しても、理想には届かなかった。
『白い自分』の想像図が、頭の中でひび割れる。
大きくついた傷は、バツ印をしていた。
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