第14話 一日百善②

 三年生


 カフェテリアの一角は、相変わらずステージ違いの空気に占拠されていた。

 しかし今日はそこに、ネガティブな淀みが加わっている。

 全身を濃い緑とキツい赤の二色で包んだ姫が、机に顔を突っ伏してうなだれているせいだった。


「は~ぁ……」


 いつでも上機嫌な彼女は珍しく、深い、深いため息をつく。


「今年も、完成しなかった……」


 その原因は、またも『白い作品』の制作に失敗したことにある。

 去年の今頃、強い手ごたえをもって「来年こそは形にできる」と確信していた姫にとって、その落胆はあまりにも大きい。

 藝大に入学してから三年もの間、こうして足踏みをしている事実もまた不愉快だった。

 絶対に、完成させなければならないのに。


「……」


 ワインレッドを基調としたブランド服を身にまとうお嬢様は、追い詰められている姫を無機質な眼差しで眺めていた。何を言うでもなく、じっと見守っている。


 彼女は、一条茜といった。

 外見からも察せられる通り名家の生まれであり、私生活には執事がつき、通学は送迎されるような、まさしく令嬢である。そして、姫と同じく最難関の東京藝術大学に現役で合格した、有望な作家の卵でもある。


 常に腕と足を組み、切れ長の瞳で見つめる姿には高貴な迫力があった。

 気だるげで、淡白で、表情筋をピクリとも動かさない。上流階級の、それも絶世の美女による無表情はそれだけで怖ろしく、周囲が圧倒されてしまうのも十分にうなずけた。

 しかし姫は、そんな茜に少しも臆することなく愚痴を吐き出している。


「真っ白になりたい……」

「またその話?」


 茜は呆れて息をつき、普段の鉄のような顔色にわずかな不快感をあらわにした。

 彼女が感情を表現するのは珍しいことだが、つい苛立つのも当然だ。何せこの一年ずっと同じ愚痴を聞かされているのだから、ストレスが溜まっても仕方ない。

 しかし、たとえ相手が不機嫌だろうと、話したいことを話すのが姫だ。彼女はやはり無視して続ける。


「白人に生まれてたらなー。それだったら、こんなに苦労しなくても『白』になれたと思わない? ね、そう思うでしょ?」

「あー、はいはい」


 同意を強要してくるような口ぶりを雑にあしらい、頬杖を突く茜。

 彼女は興味ない風な素振りをしながら、しかし話には耳を傾けていた。


「ううん、それでも変わんなかったかも。姫、環境保全を支援する組織に入ったでしょ? そこで活動してるうちにわかったの。地球は、ホントにおぞましいくらい穢れてるんだって。外側がこんなに汚いのに、いくら内側を綺麗にしても『白』にはなれないって」

「……」


 茜は何を言うでもなく姫を見つめていた。その心中に複雑な感情を含んで。

 姫は彼女が望む『白』になるために、今年度から新たに環境保全活動を始めている。目的は本人が口にした通り、自身の外側を白くすることにある。


 一見すると意味不明だが、理屈としてはこういうことらしい。


 曰く、『人間は大自然の一部であり、その循環に囚われながら生きている。例えば呼吸は、外側の世界から酸素を吸って、二酸化炭素として内側から吐き出す。例えば食事は、外側から栄養を吸収して、不純物を内側から輩出する。人間自身だって死ねば有機物の塊となり、分解者に分解されてやがて地球の一部になる。人間は、地球に存在するいくつもの大きな循環の、通り道の一つなのだ。であるならば、地球そのものが『白』でなければ、姫もまた『白』にはなれない。汚らしい『灰色』の空気を吸えば、いかに姫が『白』であっても上から塗りつぶされてしまう。腐敗した『黄緑』の食物を摂取すれば、いかに姫が『白』であっても不純な色がにじんでしまう。だから環境を守らなければならない。だから地球を『白』にしなければならない』と。


 それを聞いた時、茜は思った。

 迷走している、と。


 必要以上にスケールを大きくして作り手の理解を超えてしまい、正しい道筋がわからなくなる。その典型だった。

 ただでさえ気が遠くなりそうだったのに、それ以上に途方もないものにしてどうするというのか。


 しかし、彼女は口を挟まない。

 作家が別の作家に助言をすることは、場合によっては他者のアイデアを吹き込むことになる。求められたならともかくとして、他人の作品に深く入り込むような無粋はしない。


「ていうか、そういうのは彼氏に相談しなよ」


 だから茜は、聞き手としての役割を別の者に投げることにした。


「一緒に住んでるんでしょ? 私なんかより、よっぽど親身に聞いてくれるよ」

「春樹くんとは別れた」

「は?」


 予想外の言葉に、彼女は姫と出会って初めて驚きの表情を作った。

 すぐに取り繕ったが、動揺は大きい。いつものような無機質を装って、努めて冷静に尋ねた。


「そう、ちなみにどうして?」

「恋人がいない方が『白』っぽいでしょ?」

「ゴミクズかよ……」


 なんでもないように答える姫に、思わず暴言を吐く。

 だがすぐに考え直した。彼女の極端な思考に、まずい兆候を直感する。


 作家というのは時折、殺人鬼よりも傲慢な態度を見せる。

 もっと素晴らしい作品を作るために。そんな大義名分を振りかざして、人の心を平気でもてあそぶ輩がそれなりにいるのだ。

 ただ茜には、姫がそういった人種であるようには思えなかった。


 たしかに彼女は人の機微に鈍感で、自己中心的で、性格が悪い。だが、彼氏を大切に思っていることは、これまでの話からよく伝わってきた。

 それを切り捨てるなんて。


「……アンタ、大丈夫?」


 自身に課している制約を破る。今回ばかりは、口を出さないわけにはいかなかった。

 しかし姫は、


「何が?」


 本当に何もわかっていないように、首を傾げた。


「……」


 言葉に詰まる。

 どう言えばいい。どう言えば伝わる。そもそも茜は、姫にどうしてほしい。


「復縁、したほうがいいんじゃない?」

「なんで?」

「いや……」


 なんでもない、とも言い切れず、不安定の立ち位置のまま固まる。

 数秒、逡巡して、


「……なんでもない」

「そう」


 それしか言えなかった。

 茜が複雑な心情を抱えていることにも気づかず、姫は話題を切り、遠い目をする。まるで、届かないものに思いを馳せるかのように。


「いつ着れるのかなあ、白い服」


 改めて見ると、姫の服装には白色が欠片ほどもなかった。

 プリントされてる文字にしても、ちょっとしたワンポイントにしても、靴紐に至るまで、徹底的に白が排除されている。

 ファッションにおいて白色を完全に取り除くことは相当難しいはずだが、構わずに貫いてしまう精神はいっそ病的ですらある。


 姫は『白』にふさわしくない。だから『白』は使わない。

 そういう意思表示。


「姫」


 名前を呼ばれて、彼女は顔を上げる。


「……危ないこと、しないでね」

「? しないよ?」

「……」


 意図が伝わったかどうかはわからない。おそらく伝わっていない。

 しかし、茜に言えることはそれだけしかなかった。



       ×××



『それって、別れたいってことだよね?』

『そうだよ』


 夏であることが信じられないくらい、冷たい夜だった。

 突然切り出された別れ話。

 姫は一方的に『別れよう』とだけ告げて、それきり背を向けると創作に没頭する。傷つく相手などいないかのような態度で、眼中にあるのは作品だけだ。


 しかし、春樹の顔に悲しみはない。どちらかといえば深刻さが勝る。

 ああ、とうとうこうなってしまったかと、自身の不甲斐なさを呪ってすらいる。

 けれど、諦めるわけにはいかなかった。もう糸のように細い縁をなんとか繋ぎ止めようと、言葉を選ぶ。


『もう、ダメなの?』

『……』


 姫は無言で絵の具を混ぜ続ける。

 答えてすら、くれない。

 心が折れそうだった。


『……作品のために、別れたいんだよね?』

『……』

『……』


 冷たい沈黙が張り詰める。

会話のない時間が長ければ長いほど、春樹の胃が削れていくようだった。


『それだけじゃ、ないけどさ』


 やっと返ってきた言葉が救いに思える。

 彼はなんとか話をしようと、もっと話がしたいと、気まぐれの一言にしがみつく。


『そうなの? じゃあ、なんで……?』

『……』

『……』


 再びの沈黙。そして、


『言ってもわかんないよ。春樹くんにはさ』


 断ち切られてしまった。

 心臓が縮む音がする。目頭に熱いものが込み上げてくる。

 直感的に、もうダメだと悟った。


 春樹の目には、確かに見えている。知らぬ間に恐ろしく広がった溝、心の距離が。

 その間にあるのはおそらく、一般人と芸術家との差なのだろう。断層よりも隔たった感性や価値観のズレ。住む世界が違う、というやつだ。

 姫の言った通り、春樹に彼女の心境は理解できないのかもしれない。よしんば理解できたとしても、共感には至らないかもしれない。

 わかり合えるイメージがつかない。だからこそ、溝なのだ。


『……だったら、だったらせめて、休んでほしい。もう、ずっと寝てないでしょう?』


 最近の姫は、いつ見ても鏡の前に座っていた。

 朝起きた時も、食事中も、大学から帰ってきた後も、寝る前だって、鏡の中の自分を見つめてはその肌に色を塗り、「ダメ」と言い続けている。

 化粧を落とした姫は、心配になるほどやつれていた。

 今だってそうだ。

 だからせめて休んでほしい。会話なんてしなくていいから健康でいてほしい。なのに、


『少しは、話聞きなよ……』


 彼女は決して、筆を離そうとしない。

 ずっと無視されていて、追い詰められていて、春樹はもうどうしたらいいかわからなくなってしまった。

 そんなだから、思ってしまったのかもしれない。


『そんなに、必死になったって……』


 少し踏み込んでみようなんて、愚かなことを。


『……報われるとは思えない』

『うるさいなぁっ!』


 癇癪。

 目覚まし時計が投げつけられた。

 額に直撃して、傷口から血が流れる。

 ああ、失敗した。言葉を間違えた。

 力が抜けた春樹は姫に押し出されながら、もう本当におしまいなんだなと思った。

 気がつくと家の外にいて、ガチャリと、鍵の閉められた音がする。


『姫……』


 放心したままの弱々しさで、彼はゴンゴンと扉を叩く。


『力になりたいんだ、姫。俺が高校を卒業できたのも、大学に進学できたのも、姫のおかげだと思ってる。だから……』


 もう一度、ゴンゴンと叩く。

 返事はない。

 とうとう、涙腺が決壊した。


『……俺じゃなくてもいい』


 崩れ落ちて、声を震わせて。

 出てきた言葉は、最後まで彼女を想うものだった。


『今の君は、誰かがそばにいなきゃダメだ……!』


 扉の向こうから、耳障りな泣き声が聞こえてくる。

 泣かせてしまったのは姫自身だと気づいて、彼女は少しだけ心を痛めた。鏡に映る自分が、いつも以上に醜く見える。


 赤い絵の具をつけた筆を手に取って、姫は『白』になるための条件の一つ――『優しい自分』をぼんやりと思い浮かべた。

 左頬に大きく、赤く、バツ印を塗る。

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