第13話 一日百善①

 桜木姫 二十歳 東京藝術大学 二年生


 大学内のカフェテリアに、鋭い威圧感を放つ一角があった。

 危険なものがあるわけではない。ただ、浮世離れした雰囲気の女性が二人座っているだけだ。


 片方は、一般人には手が出ないような高級なブランド服を全身にまとうお嬢様のような女で、もう片方は、毒々しいほどカラフルな格好で体中を包んだ芸能人のような女だ。


 どちらも都内の高層マンションに居を構えてそうな風格があり、いかに才気あふれる藝大生といえども近よりがたいものがあった。

 髪を七色に染めた芸能人のような女――姫は、飲み終えたカフェラテのストローをかじりながら呟く。


「真っ白になりたい……」


 一見すると意味不明のセリフだが、対面に座るお嬢様のような女には伝わったようだ。

 彼女はサングラスを外すと、淡白な態度で尋ねる。


「何? また失敗したの?」

「そう」


 姫はなんでもないような顔をしていたが、内心では大きく落胆していた。

 その苛立ちのほどは、ボロボロになったストローに現れている。

 お嬢様は、歯型のついたそれを指差して顔をしかめる。


「アンタそれやめなよ。行儀悪いから」

「姫の勝手でしょ?」

「そんなんじゃ、白くなれないよ」

「……それもそっか」


 彼女の指摘に姫はもっともだと思い直し、ストローを可能な限り小さく折り曲げると、ゴミ箱に捨てた。

 我が道を行く在り方を曲げて素直に言うことを聞くくらいには、『白くなる』という文言は姫にとって重要なものなのである。


「今年は完成すると思ったんだけどなー」


 東京藝術大学に入学してからというもの、彼女はある作品を完成させることに心血を注いでいる。

 その作品には、まだタイトルはつけられていない。

 言語化できるほど明瞭なイメージが定まっていないのだ。


 モチーフは白。脳内にあるその作品は、いつも純白の輝きを放っている。鑑賞した者の心を癒し、浄化し、崇拝の念を抱かせるような、穢れのない白だ。

 彼女は名前のないそれを便宜上、『白い作品』と呼んでいる。


 二年次の進級制作はすでに終えたが、作ったのは『白い作品』ではなかった。作品としての水準に達しなかったので、保留にしたのである。

 一年生の時も失敗し、今度こそと奮起した二年生だったが、間に合わなかった。

 今年は、完成させたかったのに。


「姫がもっと白かったらなー」


 姫はまだ、『白』ではない。

 彼女は服の袖をまくり、お嬢様に自身の肌を見せつけた。


「ほら見てよ姫の腕、こんなに肌色でしょう?」

「……嫌味なくらい白いけど」


 誰もが羨む透き通るような美白を見て、お嬢様は面倒くさそうに答える。

 姫は無視して続けた。


「はーぁ、人間の肌が混じりけのない一色だったらよかったのにね。ところどころ赤かったり、青かったりするからこんなに汚くなる。特に、血管が通ってるところなんて最悪。そう思うでしょ?」

「……そうね」

「でしょー?」


 半ば強引に同意させられたお嬢様はため息をつき、姫は自分の腕の観察を続けた。

 決してふざけているのではない。彼女は大真面目に創作の過程を踏んでいるだけだ。


 藝大に入学してからの姫の作品テーマは、『驚き』と『自分』である。

 最も得意な分野が絵画であることは未だ変わらないが、平面しか使えない作品では表現の幅に限界がある。そこで使うことにした新たな立体素材が、自分の肉体。

 全身である必要はない。例えば髪、例えば目、例えば手。また本物である必要もなく、模型で偽物の足を作ったり、人間の構造上ありえない羽を作ったりしたこともある。


 肉体の色を変えて、質感を変えて、形を変えて、手触りを変えて、普遍的でない姫だけの個性を引き出しつつ、見た者のリアクションを誘う。

 高校二年生の時に再構築した、エンターテイメントに富んだ作品性である。


 そのアイデアの中には、当然『白い作品』も含まれており、つまり『白い作品』とは、『白い姫』のことなのだ。


 だからこそ彼女は、白くなりたいと望む。

 制作者であり素材でもある彼女が穢れのない『白』となって、初めて『白い作品』はスタートラインに立てる。

 だがここに来て、迷いが生じ始めた。


「白の定義って何だと思う?」


 姫はお嬢様に尋ねた。

 もちろんそれは、色相としての白の定義ではない。人間としての白の定義だ。

『白い人』と呼ばれるのはどんな人なのか、それが知りたい。


「体が白いってことかな? 心が白いってことかな? やっぱり清潔なことが大事? 善良なことが大事? それとも、人に愛されることが大事?」


 首を傾げながらうんうんうなり、自問自答する姫。

 非常に難しい命題だった。どこまでも突き詰められるし、どこまでも妥協できる。人によって解釈が変わる様はいっそ哲学的で、回答は無数にある。

 お嬢様は答える。


「芯の通った人、とかね」

「そっか、そういうのもあるね」


 違う視点の意見をもらい、姫は頭の中にメモを取る。

 そうやって吸収と表出を繰り返しながら、いつも、いつまでも考え続けている。

 一生懸命な彼女を、お嬢様は気だるげに眺めていた。


「本当、聞けば聞くほど気が遠くなりそうな作品……」


 疲れたように頬杖をついて、続ける。


「私には、完成するとは思えないな」


 必ず完成させると意気込む姫を、彼女はなんの遠慮もなくバッサリ切り捨てた。

 無理だから諦めろという、忠告でもあるのだ。

 その言葉を受けて、姫は怒ることも落ち込むこともしない。

 むしろ自信ありげに、精悍な顔つきで微笑んだ。


「まあ見ててよ。来年、絶対完成させるから」


 その瞳は曇りなく、何か確信があるようだった。

 思わぬ返答にお嬢様は少々面を食らい、つられて口角を上げる。


「へえ、じゃあ楽しみにしてる」

「そうして」


 友人の期待に、姫はますます決意を強くする。

 今はまだ、『白』にふさわしくない。

 けれど必ず、最高の素材になってみせる。



       ×××



 ある日、とあるサークルの忘年会があった。

 乾杯の音頭とともに賑わう若人たち。彼らは先輩後輩、男女問わず仲が良く、楽しい雰囲気が伝わってきた。


『やっほー』


 先に集まっていた一団に、遅れてやって来た姫は手を振る。

 すると、うるさいくらいだった盛り上がりが一瞬にして冷めた。

 凍りついたようだった。


 みんな、戸惑いの眼差しでこっちを見つめている。なんどここにいるんだと言いたげに。だが戸惑っているのは姫も同じだ。なぜ急に盛り下がってしまったのだろう。

 しばらく膠着していたが、やがておずおずと、サークル長が前に出て尋ねる。


『えっと桜木さん……、呼んでない、よね?』

『え? そうだけど?』


 即答する姫に、彼女は頬をヒクつかせる。


『じゃあ、なんで来たの……?』

『だって、来ちゃダメって言われてないから』

『えっと……』


 サークル長は言葉を詰まらせる。歪な苦笑をして、黙ってしまったのだ。

 困っているようだったがその理由がわからなくて、姫は首を傾げた。

 ふと周りを見てみると、一団の困惑はなぜか苛立ちに変わっている。

 どこかから、舌打ちが聞こえた気がした。


『それは、さ……、ほら、わかるじゃん?』

『なにが?』


 サークル長の言い分は、なんだか要領を得ない。

 質問をしてみても、彼女はまた黙り込んで答えない。


『ハッキリ言わないとわかんないよ?』


 だから、ちょっと注意してみた。それだけのつもりだった。

 しかしサークル長は眉を寄せ、こらえきれないとばかりに肩を震わせ、むしろ苛立ちを強くしている。

 よくわからない。

 わからないが、どうやら怒らせてしまったらしい。

 というか、そもそも来てはいけなかったらしい。


『ふぅん、まあいいや』


 邪魔者扱いされている空気をようやく察して、姫は踵を返す。


『今度からはちゃんと、来ちゃダメって言っといてね』


 それだけ釘を刺すと、彼女は店を出た。

 現場から離れ、さっきの状況を頭の中で俯瞰して見る。

 やっぱり、何が問題だったのかわからなかった。けれどどうやら失敗してしまったらしい。


 顔を上げ、夜空を眺める。

 星は、見えない。


『なんで、うまくいかなかったんだろう』


 彼女は少々気を落としていた。


『最近、こんなことばっかりだなあ』


 独り言をつぶやきながら、絢爛な街並みを歩く。


 先日定義した、『白』になるための条件の一つ――『愛される自分』をぼんやりと思い浮かべた。

 そこに大きく、バツ印を、刻む。

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