第5話 悪魔②

「よーし、傑作にするぞー」


 誰もいない美術室はかび臭い。

 窓から差し込む夕日が、舞うほこりを照らす。


 汚れてもいいTシャツと半ズボン。

 ゆるーい声で、白紙のキャンバスの前に立つ。


 青のビニールシートが敷かれている。

 その上には、十数個のペンキ缶。

 中身はペンキではなく絵の具だ。

 赤系統、青系統、緑系統など様々に。


 原色ではない。

 色量、暗めに。水分量、多めに。

 こだわり尽くして調合した、世界でここにしかない色。


 幅の広い筆を赤に浸し、

 深呼吸。


「すぅぅ――――――――――――――――ぅぅ」


 酸素をゆっくりと、めいっぱい、脳に取り込む。

 これから呼吸など、忘れてしまうだろうから。


「はぁっ――!」



 集中。


 音が遠のく。

 匂いが消える。

 味を失う。


 目と、手と、キャンバスだけが空間のすべてになる。

 それ以外はもう、何も感じない。


 およそ十四歳のものとは思えぬ、極限の集中を。

 この一枚に捧げる。


 叩きつけるように筆を振った。



       ♥



 桜木姫にとって世界とは、悪魔の巣窟である。


 綺麗な服に出会うと、目がさらわれる。

 美しく着飾った自分、華やかな自分の夢想に熱中し、支配される。

 着てみたいと、欲す。


 きらびやかな宝石との邂逅に、惑わされる。

 鮮やかな光に視神経に焼かれ、心をかどわかされる。

 手に取りたいと、欲す。


 甘いお菓子の匂いがすると、正気を失う。

 鼻から、舌から、極上が麻薬のように浸透し、脳が喜ぶ。

 食べたいと、欲す。


 花が、

 肉が、

 温かな風が、

 あらゆる便利が、楽が、

 娯楽が、

 人間が、

 金が、

 名声が、

 果てしない神秘が、

 どこまでも尽きない幻想が、

 それらの魅力を覚えている頭の中が、


 外側から、内側から、

 全霊で、

 姫を誘う。


 ――欲しいだろう?

 と。



 のどから手が出るなんてものじゃない。

 おぞましくも、全身の穴という穴から手が出るほど、渇望する。


 欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて――。

 たまらない。


 そしてつい、本当に手が出てしまう。



 万物には悪魔が宿る。



 ひとたび外界へ出れば、家の中にいても、様々な魅力の名を冠する悪魔が、姫を誘惑する。


 例えば布団。

 例えばイチョウの木。

 例えばヨーグルト。

 例えばドーナツ。

 例えば小さな女の子。

 例えば善の優越感。

 例えば習慣を守る達成感。

 学校の悪魔は、少しばかり力不足らしい。


 姫だけではない。

 そこで呆けているお前も。お前も。お前も。


 ――ダイエット中だけど野菜じゃなく、唐揚げを食べようかな。

 ――疲れたから階段じゃなく、エレベーターを使おうかな。

 ――宿題やってないけど、もう遅いから寝ちゃおうかな。


 ああ、悪魔がすぐそこにいる。

 魅惑的な手招きをして、お前に取り入ろうとしているぞ。



 どうして。どうして。

 こんなに、欲しいものがたくさんあるのに。

 こんなに、強烈に恋焦がれてるのに。

 どうして私のモノにならないの?


 お金が無いから。

 かといって盗んだら、捕まってしまうから。

 こんなシステムを作ったのは誰だ? 世界だ!

 世界の方から欲しがらせておいて、その世界が待てと焦らすのか。

 まるで欲望をもてあそぶ花魁のようだ。


 そんなことをされたら、頭がおかしくなってしまう。

 もっともーっと、欲しくなってしまうじゃないか。


 なんてなんてなんて、

 業が深い!!


 あまりにも残酷で苦しくて、美しい。

 そんなのまるで、まさしく、地獄そのものだ!!



 八百万の神ならぬ、八百万の悪魔がはびこる世界。

 あははっ、面白ぉいっ!!

 純粋な笑顔が弾ける。



 汗を飛ばし、筆を振った。

 禍々しい紫が走る。

 小さなキャンバスにすさまじい情報量が、

 感性の暴力が閉じ込められていく。


 脳みそがフル回転で、指先が絶好調で。

 今、傑出した想像力からなる『世界』が表現される。


 脳細胞から脊髄へ、脊髄から運動神経へ、運動神経から指の筋肉へ。

 よどみなく伝わる最高のイメージを、この一枚へ。


 さあ、ほとばしれ!




 どれくらい経っただろうか。

 わからない。

 時間が飛んだようだ。


 膝に手をつく。

 肩で息をする。

 背中の筋肉が痙攣する。

 Tシャツは、絵の具まみれでダメになってしまった。


 完成した。

 大きな大きな達成感と、余韻で胸がいっぱいだ。

 すがすがしい笑顔を浮かべる。

 仰向けで、大の字に倒れた。


「あー……、疲れたー……」




 姫には夢がある。

 まだ形にすらなっていない、漠然とした夢。

 今日、近づいたような気がした。


 私を虜にしてやまない、洋服や、宝石や、スイーツのような。

 そんな悪魔みたいな人になれたらいいなと、思うんだ。



       ♥



「はぁぁ……、すごいなあ」


 傑作に、男は静かにうなった。

 口元を手で抑え、メガネの奥の瞳は見かけ以上に輝いている。

 安達英明、三十六歳、美術担当。姫が所属する美術部の顧問でもある。


「いやぁ、センスのある子だとは思っていましたが、本領ではなかったんですねえ」


 彼は授業や部活で、何度も姫の作品を見てきた。

 どれも校内では頭一つ抜けていたが、これは別格だ。


 攻撃力が違う。

 特に独特で鋭い感性と、それを表現し切る色の力。

 辺境の中学校に置いておくのは、あまりにももったいない。


 朝、安達がいつものように美術室の鍵を開けると、見覚えのないキャンバスが真ん中に鎮座していた。


 作者名:桜木姫

 題名:世界


 彼がこれまで見てきた中学生の作品で、ダントツの最高傑作だ。


「……これを桜木が」


 同じく美術室に来ていた社会科の前川は、腕を組みながら呟いた。


「ええ、そのようです。前川先生は、この絵をどう思いますか?」

「ううむ……」


 前川は老眼の始まっている目を細め、顔を近づける。


 改めて観察すると奇妙な絵だ。

 画面いっぱいに、色違いのバケモノたちがひしめき合っている。

 いや、これはバケモノなのだろうか。

 それらは角を持つわけでも、牙を持つわけでもない。形すらなく、霧のように不安定で、不定形。いかようにも解釈できそうだ。

 しかしてそれは暗く、禍々しく、前川の目にはバケモノのように映った。


 一体一体が、独立しているわけでもない。

 色の違う二体はグラデーションで連なり、地続き。三体目も四体目も、十体目も、すべて繋がっている。


 それだけが描かれていた。

 大地も空も海もなく、バケモノの群れだけが。


 美術に関心のない者は、首をひねるだろう。


「正直なところサッパリです。これが『世界』だと言われても、よくわからん」


 そう、ちょうど前川のように。


「ええ、そうでしょうね」


 だが、安達にはわかる。

 これが、桜木姫から見た世界なのだ。


 美術は自由だ。

 何をしてもいい。何を描いてもいい。

 たとえそれが青かろうが、燃えていようが、パイナップルの形をしていようが、作者がリンゴだと言えばリンゴなのだ。

 桜木姫がバケモノの群れを世界だと言うのなら、それが世界なのだ。

 魂からの言語であれば、何だっていい。


 問題はその作品に、常識外れの我を通すだけの説得力があるか否か――。


「ただ、そうだな……」


 無理解を表明したばかりの前川は、頭をかきながら続ける。

 ――そしてこと、この作品おいては、『世界』という概念を覆すだけの強い強い力がある。

 美術に関心のない者は、同時にこうも言うだろう。


「きっとこれは、すごいものなのだろう」


 根っからの体育会系である前川は、目を奪われていた。

 まったく異なる価値観の人間を、芸の領域に引きずり込んだのだ。


 前川六郎はこの日この時、四十三年の人生で初めて、真の意味で絵画に『触れた』。

 少年がプロ野球選手のスーパープレイに憧れる瞬間。

 それと同じものを、彼は味わっている。


 この絵を完成させた瞬間から、姫は絵描きではなくなった。


「十四歳の若さにして芸術家になったんですよ。桜木さんは」


 安達とて、美術大学に身を置いていた秀才だ。画家にこそならなかったが、卒業後も己の芸と向き合い、絵を描き続けてきた。

 それでも、この境地に至ったのはつい最近のことだ。


 もちろん、純粋な腕なら安達の方が上。

 例えば二人で同じ風景画を描いたとしたら、上手いと言われるのは彼だろう。


 だがそんなものは些事だ。

 眼前の、無限の可能性と比べれば。


「が、それはそれとして! 桜木には指導が必要だ!」

「……ええ、そうですね」


 笑顔を消し、眉間にしわをよせ、難しい顔で腕を組む前川。

 思い出した安達もまた、苦笑気味に同意する。


 月曜の今日、姫の作品は突然現れた。

 前日の日曜日で、かつ改装工事のための点検もあって、生徒は立入禁止のはずなのに、だ。


 彼女は昨日、学校に忍び込んでこれを描いたのだろう。

 大方、学校の方が雰囲気が出るからとかそんな理由で。

 立派な校則違反だ。


 そもそもどうやって入ったというのか。美術室の鍵は閉めていたのに。

 というか、使われたキャンバスや絵の具はすべて学校のものだ。


「どれほどの才能があろうとも、ルールを破っていい理由にはならんっ!! 髪と制服もそのままだ!! まったくもってけしからんっっ!!」


 今度こそとっちめてやると、戦意を高めた前川は背を向ける。肩を張り切らせるその姿に、怒っている様子はなかった。


「前川先生、楽しそうですね」

「ん? ああ、最近の生徒はいい子が多いですからね。あれくらいの方が張り合いがあるというものだ。安達先生もそう思うでしょう?」

「……ええ、まあ?」

「ガハハ!」


 豪快に笑い、美術室から去って行く。

 静けさが戻り、安達とキャンバスだけが残された。


「もったいないですねえ」


 彼は再び作品を眺めると、独りごちる。


「素行さえよければ、本当に素晴らしい才能だというのに」


 優れた芸術家は総じて人格破綻者。

 なんて風潮があるが、それは間違いだ。キャラクター性を追求したゆえの誇張でしかない。彼らはみな、己の作品に真摯に向き合っているだけなのだ。


 たしかに作り手には変人が多いが、それは思考回路が特殊という意味であって、危険な思考を持つこととは異なる。

 変人は変人なりの対人能力が身に着け、社会に適合できるということを世の中はいつまでたっても知ろうとしない。誤解されやすい彼らは人間としてとても魅力的だ。


 だがその一方で、人の道を外れるという点での変わり者も時にはいる。

 それを悪人という。


 安達はこれまで様々な人と接してきて、人を見る目は相当養われた。その経験が告げるのだ。

 桜木姫の破天荒は、悪人の類であると。


「…………」


 画家には実力さえあればいいなんて、そんな都合のいいことはない。協力するスタッフだって人間なのだ。軋轢が生じれば仕事は遠のく。


 みんなが前川のような人物であればいいが、そうもいかない。

 職員室は姫の非行に苛立っている。

 彼女が芸術の道へ進むのだとすれば、その性格的な欠点は必ず障害として立ち塞がるだろう。


 いったいどうして、校則を破り続けるのだろうか。従う方が楽だろうに。

 問題を起こすたびに呼び出され、叱られ、反省文だって数十枚は書いているはずだ。それ以上に、人に嫌われるのは苦しい。

 なぜ自ら悪い方向へ進んでいくのか。


 教育者としても、芸術家の端くれとしても、桜木姫を正しく導くことが自らの役目の一つであると、安達は自負している。

 しかし先行きは暗くて、彼はもう一歩キャンバスに近づいた。


 この『世界』にこそ、答えがあるような気がした。

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