第3話 起・転・転・滅②

 姫の友達へのちょっかいは、さらに加速した。


 巴はますます困惑する。

 わかってくれたと思ったのに、どうして……?


 さらに悪いことに、彼女は今まで以上に巴の話を聞かなくなってしまったのだ。

 大事な話の最中にも「そんなことより」と口を挟み、やれ髪を染めたい、やれピアスを開けたいなどと言って、話題を逸らすようになった。ちっとも進展しない。

 必死に話を戻そうとする巴を見て、当の姫はニヤニヤと楽しそうにしている始末だ。


 加えて彼女は、これまで培ってきた家族との約束をも破るようになった。

 決まった時間に宿題をやっていたのに、手をつけなくなった。

 ご飯の時間に呼びかけても、すぐに来なくなった。

 門限をちっとも守らなくなった。

 声をかけずにいなくなることが増えた。


 心労が募り、巴の頭の中を、どうして、が渦巻く。

 言うことを聞いてほしいって、聞いてくれなきゃ悲しいって、ちゃんと伝えたのに、これではまるで真逆だった。


 ――真逆?

 姫は、あえて真逆のことをしている?


 そう思い至った瞬間、意識の底にあった点と点が、線となって繋がった感覚を得た。


 最近の姫の変化の一つ。

 怒られることは相変わらず嫌だと思っているようだし、怖がっている。

 ただ怖がっているはずの彼女は、巴に怒られそうになったり叱られそうになったりすると、むしろ笑う。怯えと愉悦が混じった、歪な表情を見せる。血の繋がった母親でさえ、おぞましいと感じてしまうほどの笑顔だ。

 怒られることを楽しんでいる。いや、怒らせることを楽しんでいる。


 ……まさか、私をいじめてる?

 母親をいじめて、娯楽としている?

 まるでおもちゃでも扱うかのように。


 戦慄する。

 なんで? どうしてそんなことするの?

 巴の胸の内は、とうとう混迷を極めた。

 姫のことわかんないよ。



       ♥



 わからない。わからない。

 全然、わからない。

 けれど、わからないなりの心当たりが巴には一つあった。


 最近の姫の奔放な態度は、飛び抜けた美術の才能や、独特で愛される外見のせいではないか。

 チヤホヤされて付け上がっているのかもしれないと、そんな短絡的な考えにしがみついてしまったのだ。


「姫、お絵かき教室やめる?」

「え?」


 どうすればいいか不明瞭なまま、冷たい声を放ってしまった。


「人に迷惑かけるなら、絵なんて描かせられないから」


 つい頭ごなしに否定して、絵の具やスケッチブックを取り上げようとしてしまった。


「いやぁっ!!」


 涙目の姫は、強烈な拒絶を示す。


 ――ぁ。

 失敗した。失敗した。



「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――――――――――――――――――っっ!!」



 癇癪。


 つんざくような悲鳴を上げながら、彼女は暴れ回った。

 女の子とはいえ、もう十歳になる子どもの暴力はそれなり以上の被害をもたらす。


 棚を倒し、椅子を倒し、

 本が散らばり、小道具が飛び交い、

 文房具や置物が床と激突する音が、やかましく響く。

 巴は慌てて止めに入り、その過程で体中のあちこちに打撲や切り傷などのケガを負った。


 ようやく落ち着いた姫が自室にこもると、巴はリビングに戻ってきた。

 部屋は酷いな荒れ果てようだった。


 そこだけ空き巣が入った後のようになった惨状を眺めて、彼女は思う。

 向いてないのかな。

 疲れてしまった。



       ♥



 姫は父に連れられて、体調を崩して寝込んでしまった巴の寝室へやって来た。

「ほら」と優しく促され、彼女は第一声に謝る。


「ごめんなさい」


 べったりと父の後ろに隠れながらだが、すごく反省しているのが伝わってくる。

 普段は鈍感な姫でも、ここまでになると自分のせいで母親が弱っているのがわかるらしい。どこか所在なさげだ。


「どうして……?」


 巴は起き上がると、か細い声で尋ねた。


「どうして、あんなことしたの?」


 あんなこと、の中には、他の子の絵に手を加えたことも、母の言うことを聞かなかったことも、母をいじめたことも、含まれている。

 それだけを聞いた。

 彼女は寝ている間もずっと、姫のことだけを考えていた。


「お母さんに言わなきゃいけないこと、あるよな?」


 父が再度促すが、本人はうつむいてしまって答えない。首をふるふると横に振ってはさらに一歩後ろに下がり、中々喋ろうとしなかった。

 仕方ないなと、苦笑いになった父が代わりに伝える。


「姫は、褒めてほしかったんだってさ。だから、注意を引こうとしていたずらしたんだよ」


 答え合わせをしてみればそれは、なんだそんなことかと呆れたくなるほど簡単だった。一番に思いつきそうなのに、ずっと発想がなかった。

 言葉の意味は、緩やかに浸透していく。

 巴の中で、わからなかった姫の行動の意図が、徐々に氷解していく。


「やりすぎだし、やり方はよくなかったけど、本当にそれだけだったんだよ」


 最初に姫を叱った時、彼女はお絵描き教室で描いてきた絵を見せようとしていた。あの日、結局巴は絵を見ないままで、今もまだ見ていない。

 その時から、姫の不満は始まっていたのだろう。


 友達の絵を直していたのだってそうだ。彼女はきっと、直した絵を褒めてもらいたかったのだ。「僕の絵をカッコよくしてくれてありがとう」って、言ってほしかったのだ。


 称賛を期待していた彼女にとって、叱責を受けたことによるギャップは辛かったことだろう。

 そうして積もり積もった不満は爆発し、ちょっとした非行として表れた。


 ふたを開けてみれば、なんてかわいらしい反抗だろうか。

 そんなことで一々狼狽えて、情けない。

 巴は、バッと姫の方に顔を向ける。

 自分では、たくさん褒めてたつもりだった。

 けどれ、


「もっと、いっぱい褒めてほしい……」


 恐る恐る、恥ずかしそうに、姫はそう言った。

 自分のことを伝えてくれた。

 そっか。そうだったんだな。


「姫、おいで」


 巴は、姫を優しく手招きをする。

 彼女は、おずおずとそばまで寄ってきた。

 その小さな体をそっと抱きしめる。


「ごめんね。姫は偉い。偉いね。いつも頑張ってるもんね」

「えへへ……。うん」


 無邪気な声から、明るい笑顔が見えるようだった。

 すごく久しぶりに、心が通じ合えた気がする。

 思わず泣きそうになったのを、ぐっとこらえる。

 涙は見せない。巴なりの、母親としてのこだわりだった。



「ぐす……っ、よかったなぁ……!」

「どうしてお父さんが泣いてるの……?」

 父を泣き止ませるのは大変だった。



       ♥



 あれ以来、姫の過激ないたずらは鳴りを潜めた。

 勉強面など不真面目なところは相変わらずだが、それは彼女の個性であり元気な証拠だ。

 難しい子だけど、一つ一つ教えていけば大丈夫。

 今度こそ、そう思えた。




 ある日、姫の鞄に見覚えのないストラップがついていた。


「姫、こんなストラップ持ってたっけ?」

「うん! この前みーちゃんがくれたの!」


 みーちゃんとは姫の小学校の友達のことだ。一年生の頃からずっと仲良くしていて、親友と言ってもいいかもしれない。

 彼女たちの間柄ならそういうこともあるか、とその時の巴は何も疑っていなかった。



 後日、みーちゃんとは別の子が、怒った様子で巴を訪ねて来た。

 曰く、彼女は姫に大切なキーホルダーを取られたのだと言う。

 いつの間にかなくなってて、盗んだのなら姫しかいない、と。


「わかった。教えてくれてありがとうね。本当だったら必ず返して、謝りに行かせるから」


 約束して、その日は一旦帰ってもらった。

 巴は帰ってきた姫に、それとなく問いただす。


「え、別に、取ってないよ?」


 嘘だとわかった。



 わかっていたことだが、姫の問題はそう簡単には解決しない。長い時間をかけて、ゆっくり矯正していくしかないのだ。

 彼女が大人になって自立するまでに、こうした小さな諍いは何度も起こるだろう。そのたびに巴は疲弊し、心労を患ってしまうかもしれない。


 だが彼女も、一人の母として学んだのだ。

 娘は理解不能な生物ではない。きちんと話し合えば、必ず解決する道はあるのだと。


 しかし、今回もまたゆっくりと構えているわけにはいかなそうだった。

 話を聞く限りだと、みーちゃんにストラップをもらったという件も本当かどうか怪しい。すでに疑惑が二つだ。

 この年から盗み癖がつくと取り返しがつかないかもしれない。

 早いうちに手を打たなくては。


「日焼け止めしっかり塗って、帽子もかぶった?」

「うん!」

「偉いね、姫。今日もよくできました」

「えへへ」

「今日も頑張ってね。いってらっしゃい」

「いってきます!」


 玄関の扉が閉まり、姫の姿が見えなくなると巴は動き出す。

 彼女は階段をのぼり、二階にある姫の部屋へと足を踏み入れた。部屋主が学校へ行ったのを見計らって、侵入したのである。


 もし姫が友達のものを盗んでいたとして、巴にはその隠し場所にいくつか心当たりがあった。

 三人暮らしには少々広いこの家には、普段使われない押入れがいくつかある。姫の部屋にも一つあり、ベッドが重なってふたのようになっているせいで開けにくい。

 あるとしたら、そこだろう。


 巴は重いベッドをどかし、押し入れの引き戸の前に立った。

 嫌な予感に緊張して、深呼吸する。


 覚悟を決め、ふすまを開けた。

 その視界に飛び込んできたのは――、


「うそ……」


 絶句、する。


 押入れには読み通り、友達から盗んだと思しきキーホルダーやストラップがあった。

 大量に。


 一つや二つではない。数にして、三十はくだらない。

 しかしそれだけなら、それだけなら、まだ、いい。


 問題は、そのキーホルダーたちでさえ、一部にすぎないということだ。

 見覚えのないアクセサリーや、化粧品や、洋服が、ズラリと並んでいる。キレイに飾られ、保存され、まるで自分のモノだと主張しているかのように。


 その内の半分以上は、新品のようだった。

 つまりそれは、半分以上は店から盗んできたということだった。

 巴は頭を抱えた。


 なんだこれは。どうしてこんなことになっている。

 一体いつから、こんな蛮行がくり返されていたというのだ。


 監督不行き届き。

 あまりにも。あまりにも。



 盗み癖はまずいと知っていた。

 だがもう、手遅れかもしれない。

 人や店から物を盗んではいけないと、ちゃんと教えてきたつもりだった。ちゃんと教えてきた、つもりだったのに。


 こんなの、どうすればいい。

 育てられる気がしない。



 絶望に、膝を折った。

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