第2話 起・転・転・滅①

 桜木巴。

 桜木姫の母親。


 真面目で、優しく、責任感が強い。神経質で、少し臆病。

 彼女は幼少期から優等生であり、誰にでも優しい人格者だった。ただその反面に頭が固く、融通が利かないところがあるのが欠点でもあった。真面目すぎたのだ。

 学生時代は、丸い表現をするなら「つまんないヤツ」として扱われ、友人も少なかった。


 そんな巴も成長し、恋人ができて、結婚。

 二十六歳で、姫を出産した。



 産婦人科の一室。

 産後、疲弊した様子で、巴は喜びとともに生まれたばかりの娘を抱く。

 小さな、小さな命の鼓動を感じた。

 これから守り、育てていかなければならない命だ。

 親としての自覚が芽生えた彼女は、その時呟いた。


「ちゃんとしなきゃ」



       ♥



 桜木姫 十歳 小学四年生


 巴が予感した通り、姫の芸術の才能は爆発した。


「『子ども美術館』で大賞!! 取ったって!!」


 夏休みの図工の宿題の中で、優秀な作品を区役所のギャラリーに展示する試みだ。

 学年問わず集められた中、五年生と六年生を退けて、姫の作品が大賞となった。つまり、区の小学生で一番絵が上手いと言っても過言ではない評価を得たのである。


 広いギャラリーの一際目立つ位置に飾られている姫の作品を見て、母は感動する。


「すごいね、姫」

「えへへ」


 頭を撫でると、姫は無邪気に喜んだ。


 ずっと彼女の絵を見てきて、巴にもわかるようになってきた魅力の正体。

 それは、色の調和と陰影のセンス。そしてその土台となる、類稀な色彩感覚。


 やはり、見えているものが違ったのだ。


 昔、姫はプレゼントされた三十六色の色鉛筆に対して、あの色がない、この色がないと不平不満を言ったことがあった。仕方なく七十二色のものを買い直して妥協してもらったが、まだ足りない色があったらしい。


 巴には見えない。または、見えたとしても気にしない程度の些細な違い。

 しかし、姫の色違いの瞳は甘えを許さず、こだわりを貫いた。


 そうして成った目の前の一枚は、親のひいき目なしにレベルが違うと言えるだけのものがある。見た者の足を止めさせる求心力は、魔法のようだった。

 最近姫は、粘土や小物作りにも力を入れ始めている。彼女の興味は絵だけに留まらず、芸術そのものに熱中しているのだ。


 将来は、創作の道に進むことになるのかもしれない。

 拓き始めた娘の未来を、巴は好ましく思っていた。



 が、その才能は、好ましくない方向にも暴発した。



 元々いたずら好きな姫ではあったが、その度合いはここ数年で一気に加速する。

 隣の家の愛車に勝手に色を塗るところから始まり、

「姫っ! 何してるの!?」


 クラスメイトのペンケースやストラップを横取りしては自分好みに改造したり、

「姫っ!」


 公園の遊具や道路標識、選挙ポスターなどの公共物に装飾を施す始末。

「姫ぇ~……!」


 これらはほんの一部であり、やらかした事件を数えればキリがない。


「姫、人のものを勝手にいじっちゃダメっていつも言ってるでしょう?」


 諭すように叱る巴に対して、姫は決まってこう言うのだ。


「だって、こっちの方がいいじゃん!」


 悪びれず、明るく、そしてちょっとの悪意を自覚しながら。

 いたずらっぽく笑う。


 白人のような肌、明るい茶髪、左右色違いの目という容姿はあまりにも特徴的で、悪ガキとして町民に周知されるまでになった。

 さらに毎日のように姫、姫と娘を探したり追い回している巴の姿もまた、ちょっとした名物として有名になってしまっている。


「お宅も大変ね~」

「本当ですよっ」


 温かく許し、協力してくれる周囲のおかげでなんとかなっているが、もう主婦勢で捜索隊を編成するような事態は勘弁願いたい。

 そんな巴の要求を裏切るように、姫はすくすくと育つのだ。



       ♥



 色に対するこだわりは他の分野でも発揮される。


「コスメほしい!」

「ブランド服ほしい!」

「ほしいほしいほしいほしい!!」


 物欲への目覚め。

 一緒に買い物をすると、姫は頻繁に駄々をこねるようになった。


 優れた色覚は審美眼にも影響するようで、早いうちからファッションに敏感になっていた。神秘的な容姿とその特別感も影響しているかもしれない。メガネからコンタクトに変えたのもこのあたりだ。

 今の服はダサいなどと文句が増え、最近はあまり言うことを聞いてくれない。


 あとは、野菜を食べないとか、

 目を離すといないとか、

 朝中々起きないとか、

 成績が悪いとか、

 問題は山積みだ。


 やんちゃな娘と格闘する日々は、巴の体重を五キロほど落とした。



       ♥



「アッハッハッハッハ!! 面白いなぁ!」

「もぅ、笑いごとじゃないわよ……」


 元気いっぱいすぎる姫のことを報告すると、仕事から帰ってきた父は盛大に笑い飛ばした。

 深刻に考えすぎないでいてくれるのはありがたいが、笑い声が頭に響いて昼間の疲れがぶり返す。


 最近よく不安になる。

 このままでいいのだろうか、と。

 小学四年生にもなれば、相応に分別をわきまえてくる頃だ。姫の友達も久々に会うとみんなしっかりしていて、だんだん立派になってきている。


 近い将来。

 姫だけ、置いて行かれてしまうのではないか。孤独で苦しんでしまうのではないか。

 巴自身が学生の頃に孤立していたのもあって、ついついそんなことを考えてしまう。


「まあ姫の場合、遅れるのは仕方ないんじゃないか? 大丈夫だよ」


 父はひとしきり笑うと、おおらかにそう言った。


 わかっている。

 巴が悪いわけでも、ましてや姫が悪いわけでもない。

 育て方を間違えたわけではないのだ。けど、だけど、もう少しうまくやっていればと、考えずにはいられないのだ。


 悪い方向に想像力が働いていることを自覚して、彼女は首を振る。

 目頭を指で押さえて、気を引き締め直した。


 こんな弱気じゃいけない。

 母親はもっと、強くなければならない。

 支える立場の人間は、ブレてはいけないのだ。

 でも、だけど、だって。

 いいや。


 ちゃんと、しなきゃ。


 そんな巴の葛藤を見透かしたように、父は言葉をかけた。


「お母さんは、ちゃんと姫のことを愛してくれてる」


 彼は、いつもと変わらぬのんびりとした笑顔で巴を励ました。


「今すぐじゃなくていいんだ。ちゃんと愛情を持って接していれば、いつか姫も気づいてくれるんじゃないかなあ。もし何か辛い思いをするようなことがあっても、僕だっているわけだしね。それに姫はけっこう強い子だから、多分なんとかなるさ」


 彼は迷いのない眼差しを真っ直ぐに向けて、


「大丈夫。間違ってないよ」

「……ありがとう」


 巴の胸に安堵が広がる。

 父の余裕のある姿が、彼女の思考を冷静に戻してくれた。


 巴の夫は呑気で、どこまでもおおらかな性格をしている。姫のことに対する物言いも随分ゆったりと構えていたが、しかしそれは決して思考放棄ではない。

 いついかなる時も前向きに、良いところも悪いところもまとめて娘のことを愛しているのだ。彼はそういう人間だった。


 巴は真っ直ぐ前を向く。迷いが晴れたわけではないが、失敗は怖くなくなった。

 一人じゃない。この人がいるなら、大丈夫だと思えた。



       ♥



 ある日の、お絵かき教室からの帰り。


「お母さん見て見て! 今日は――」

「姫、床に座りなさい」


 いつになく真剣な表情をした巴は、姫の話を遮って正座をさせた。

 教室で描いてきた絵を見せようとしてくれていた彼女は、母親のすげない態度に眉を悲しげにする。巴としても聞いてあげられないのはかわいそうだったが、こればかりは仕方がない。優先順位がある。


 さっき、教室から連絡があったのだ。

 今日、姫が別の子の絵に勝手に手を加えてしまい、その子を泣かせてしまったのだと。

 そうしたことは以前から度々起こっていたそうで、親の方からも注意してくれないかと担当の先生から気まずそうに言われた。


 ピリピリとした空気に不貞腐れる姫。

 巴は彼女と視線の高さを合わせて問いかけた。


「姫、姫の絵を先生が勝手に直したら、どう思う?」

「怒る! だって先生の方が下手だもん!」

「そうじゃなくて……」


 こめかみに指を当てながら、彼女はきちんと伝わるように再度言葉を選んだ。


「お友達は姫に絵を直されて、嫌な気持ちになったんじゃないかな?」


 巴は、いきなり𠮟りつけるようなことはしなかった。彼女の説教はまず問題点を提示して、それの何がいけなかったのかを姫に考えさせるところから始める。


 姫は他者の気持ちに対して極端に鈍感だ。だから一般的な常識ではダメとされることでも、そう認識していないことが多々ある。わかっている前提で叱ってしまうと、「姫は悪いことしてないのに!」と理不尽に感じてしまいかねない。


 だから叱る前に、一緒に考える。

 甘やかしているのではなく、この工程は彼女を教育する上で必要なのだ。


「……でも、絶対姫が直した方がいいもん」


 居心地悪そうにしながらも、反発をあらわにする姫。

 どこか釈然としない口ぶりで、やはりダメだとわかっていなかったことが窺えた。


 だが、目を泳がせているあたり多少なり悪いことをした自覚はあるのだろう。ただそれは漠然とした認識で、具体的に何が悪かったのかは理解していないらしい、と巴は推察する。

 彼女は再び言葉を選ぶと、できるだけ柔らかい口調で言った。


「姫が好きなものを、友達も好きとは限らないのよ。だから、手を出したくなっても我慢しなきゃダメ。わかる?」

「……わかる、けど」


 姫は拗ねたように唇を尖らせた。その目には、理解の色があった。


「じゃあ、今度お友達に謝れる?」

「……うん」


 ぶっきらぼうに姫は返事をした。

 少しばかり意地になっているが、一応は納得しただろう。



       ♥



 しかし、くり返された。


 姫は違う子の絵にいたずら描きするのをやめない。

 毎週のように注意しているのに、その次の週には毎回苦情が来る。しかも、姫にはどうやら相手が嫌がることを楽しんでいる節があるそうなのだ。まるでいたぶるかのようで、見ていられないらしい。


 これは少々まずいと、巴は思う。

 父は、ゆっくりでいいと言った。

 だがこの件に関しては、先を待つのではなく、今どうにかしなければ。



 何度目かの説教。

 姫は相変わらず不貞腐れていた。


「姫、聞いて。今回はちゃんとお母さんの言うことを聞いてほしいの。姫にとって、とても大事なことだから」


 色んな言い回しや教え方を探してみたが、彼女は返事だけするのに決していたずら描きをやめようとしない。万策尽きて、とうとう頼み込むような形になってしまった。

 やはり響いてはおらず、姫は不満げな顔のままだ。


 どうすればいいのだろう……。

 巴の心には、また陰りが差し始めていた。

 姫がお絵描き教室で嫌われるようなところを想像すると悲しくて、表情を歪める。


「言うことを聞かなきゃお母さん悲しいよ」


 ふと呟いた一言に、姫は顔を上げて反応を示した。


「そうなの?」


 突然の好感触の理由がわからない巴だったが、こういうアプローチが正解なのか、とすぐに考え直して言葉を続ける。


「うん、そうだよ。姫には、お母さんとの約束をちゃんと守ってほしい」

「そうなんだ……」


 伝わったのだろうか。

 姫はぼーっとして、一連のやり取りを自分の中で反芻しているようだった。

 やがていつになく元気に返事をすると、


「うん! わかった!」


 邪悪な笑みを浮かべて、

 キャハッ、と。


 笑った。

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