第1話 なんでりんごは赤いの?

 桜木姫 五歳 女の子


 日本人離れした白い肌。白みがかった茶髪。

 そして、右目に薄桃、左目に水色のオッドアイ。

 特徴的な外見をした子どもだった。




「ねー、なんでリンゴは赤いの?」


 姫の問いかけに、父と母は互いに顔を見合わせる。

 そして父は次の瞬間パッと顔を輝かせると、娘を両手で高く持ち上げた。


「聞いたかお母さん!? 姫が今ニュートンと同じことを言ったぞ! やっぱりうちの子は天才かもしれない!!」


 親バカを発揮した彼はすごい喜びようで、姫を高く掲げたままくるくると回る。回される姫も、キャッキャと嬉しそうな声を上げていた。

 楽しそうな二人を尻目に、一方で母は「はぁ」とため息をつく。


「……また始まった。まったく大げさね。だいたい、それを言ったのはニュートンじゃなくてエジソンでしょう?」

「あれ、そうだっけ? まあどっちにしろ偉人なんだ! 姫はきっと天才だ!」

「てんさいだー!」


 父の言葉尻を真似るように繰り返す姫。

 そんな様子は、とても素直でかわいらしい。

 父は冷蔵庫からリンゴを一つ取り出すと、しゃがんで目線の高さを合わせた。


「なんでリンゴが赤いのか、知りたい人ー?」

「はーい!」

「じゃあお父さんが教えてあげよう! それはな――」

「うんうん」


 リンゴを手の中でもてあそびながら、説明を始める父。

 そんな彼に、母は一つ注意をした。


「お父さん、食べ物で遊ばないでね。姫が真似しちゃうから」

「おっと手厳しい。お母さんは怖いなー?」

「なー」

「もぅ……」


 いたずらっぽく笑いながら、母親をからかう父娘。

 そんな態度に嘆息しながら、しかし母は少し離れた席で、二人を微笑ましく見つめていた。

 惜しむことなく愛情を注ぐ父の姿も、興味津々に話を聞いて何度も頷いている姫の姿も、どちらも笑顔で温かい。


「リンゴアターック!」


 そんな感慨を台無しにする一撃が、母の顔面に直撃した。

 飛んできたリンゴのせいである。

 犯人は姫。


「キャハハッ」


 彼女は放り投げたリンゴが狙った位置に当たったのを見ると、いたずらっぽい笑みをさらに深めて笑った。


 母の額に青筋が立った。

 普段は呑気な顔をしている父が冷や汗をかいている。彼は母娘の顔を交互に見比べ、これから起きる爆発を予感して肝を冷やしていた。


「姫っ!!」

「わぁぁ! おこったぁぁ!」


 激怒する母。

 その矛先が向いているはずの姫は、怖れ半分、愉快半分の顔で一目散に逃げだした。


「待ちなさい!」


 リビングを飛び出し、二階に駆けて行ったのを母は追う。

 と、その前に。部屋を出る直前に彼女はその足をピタリと止めると、振り返って父を指差す。


「あなたも、後で説教だから」

「はい。ごめんなさい……」


 その後、父娘は正座で並び、こんこんと叱られた。



       ♥



「おかあさん、みてみて」

「ん?」


 姫が自慢げに差し出してきたのは、リンゴだった。

 それもただのリンゴではない。白い絵の具で着色がされた、白いリンゴだ。

 母はそれに渋い顔をする。


「コラ、食べ物で遊んじゃダメって言ったでしょう?」

「えー。でもでも、おいしそうでしょ?」

「うーん……」


 母は白リンゴを手に取り、少々考えてみる。

 色素の薄さが未熟さを連想させて、あまり食欲は湧かない。


「お母さんは、赤の方が食べたいな」

「えー、なんでー。こんなにきれいなのにー」

「綺麗……」


 その表現が少々引っかかって、彼女は改めてリンゴを見た。

 さっきは食べ物として考えていたが、観賞用としてならどうだろうか。

 照明の光が反射して光沢を放つ白は、どこか現実離れした神秘的な雰囲気を醸し出している。ように見えなくもない。


「うん、確かに。すごく綺麗ね」

「でしょー? だから、おかあさんにあげる!」


 それだけ言うと、姫は明るく笑ってリビングに駆け戻っていった。

 うつ伏せに寝転がりながら、途中だったお絵かきを再開する。


「姫、何描いてるの?」


 何気ない好奇心だった。

 その後ろからついていき、ちょうど姫が取りかかっている画用紙をのぞき込んだ母はそこで、

 目を疑った。


「――……。これ姫が描いたの? すごく上手ね」


 五歳になったばかりの子どもが描いた、一枚の絵。

 そこから目が離せなくなった。


「でしょー⁉ ひめ、すごいがんばった!」


 褒められた彼女は嬉しそうに起き上がって、メガネの奥の瞳を輝かせながら一生懸命に説明してくれる。


 どうやら、それはお姫様の絵らしい。

 うん。よくわかる。

 このメルヘンチックな雰囲気とキラキラした憧れのような輝きは、まさしく女児向けの絵本やアニメに登場するお姫様だ。


 母はとっさに、この絵を「上手」と褒めた。しかし、その表現は適切でなかったかもしれない。なぜなら、それはまさしく子どもが描いた絵だったから。


 隣の絵本を見本にして描いたようだが、形の取り方やバランス感覚は年相応に不器用で、それだけならきっと他の五歳児と比べてもそう大差ないだろう。

見本を忠実に再現できているかに限れば、「上手」ではない。


 しかし、注目すべき点はそこではなさそうだ。


 まず枠線が一つもないこと。多くの場合、絵を描こうとするのなら黒なりその他の色なりで外枠の形を作るところから始める。だが、姫の絵にはそれが一つもなかった。髪、顔、服、手、足、草、空、雲。それらすべての境目を、線を一つも用いず色の違いだけで表そうとしている。


 次に白紙の部分がほとんどないこと。画用紙いっぱい、すみからすみまでに何かしらの色が散りばめられており、迫力がある。中でも、最も多く使われているのが白色であることが印象的だった。


 そして、その二点だけでは説明のつかない、正体不明の圧倒的な魅力。


 釘づけになる。子どもの絵であるはずなのに、大人から見れば下手であるはずなのに、惹きつけてやまない。事によっては、見本である絵本を呑んでしまいかねないほどの何かを感じる。


 それが何なのか、普段絵を描かない母にはわからない。

 詳しい人に聞けばわかるのだろうか。


「姫は白が好きなの?」

「うん! だって、白がいちばんきれいでしょ⁉」


 綺麗、と。

 また姫は言った。


「画用紙の白と、クレヨンの白は違うの?」

「えー、ぜんぜんちがうじゃん‼ クレヨンのほうが、ずっときれいでしょ⁉」

「……うん、そうだね。綺麗」


 母が納得したのを見てにんまりと笑うと、姫はお絵描きに戻る。白い画用紙を、白いクレヨンでせっせと塗っている。


 ふと、母は別のクレヨンの箱を見た。

 一番短いのは白色だった。



       ♥



 その日の夜。姫が寝静まった頃。

 父と母は、ダイニングテーブルで向かい合って晩酌をしていた。


「ねえ、小さい頃白いクレヨンどうしてた?」

「白いクレヨン?」


 母の唐突な質問に一瞬いぶかしみつつも、父はすぐに記憶を遡って思い出し笑いをした。


「あはは、懐かしいなー。いっつも白だけ余って空き箱に三本も四本も溜まっちゃってな、母さんによく怒られたよ。『この一本にも神様がおわすんやでー‼』って」

「やっぱりそうよね」


 答えを聞いて、母は少し考え込む。

 回想するのは、自身の保育園時代や姫が通っている幼稚園の園児たちの様子だ。やっぱり、白いクレヨンは余り気味だったように思う。


 多くの子どもが使いどころに困る白を、姫は積極的に使う。これはけっこう特殊なことではないだろうか。

 ただ白を使うだけなら好みの問題という線もあるが、彼女はどうやら白の魅力を理解しているようだった。


 ――ねー、なんでリンゴは赤いの?


 あの子には、人とは違うものが見えている。

 ボソッと、呟いた。


「うちの子は、やっぱり天才なのかもね……」


 ちょっとした期待に、母の胸は膨らんだ。


「! そうだろ⁉ やっぱり姫は天才だろ!?」

「しっ! 起きちゃうでしょ!」


 浮かれた父をなだめるのは大変だった。

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