死期の日記

琥珀 忘私

僕の一か月

〇六月十七日 曇り

 僕は癌らしい。突然そう言われたって僕には何の実感もわかなかった。きっかけは肩から腕への痛みと咳。お医者さんが言うにはステージⅢcの肺癌だそうだ。手術は困難で、放射線治療を行った際の五年生存率は、十五~二十パーセントほど。それが分かったのが昨日のお昼のこと。今日は会社への報告や手続きで一日バタバタしていた。職場の上司、同僚、部下にこの話をするとみんな心配の声や励ましの声をかけてくれた。だけど、なんだか自分のことながら他人事のようにも感じている。

 昨日の夜。妻にこの話をしたらポカンとしたあとに涙を浮かべ床に力なく座ってしまった。三十年付き添ってきたが、こんな妻を見るのは初めてだった。そこでようやく「あぁ、自分はもうこの人と一緒に生きていけないのか」という気持ちになった。三十年間も連れ添った妻と離れたくない。正直なところ、そう思ってしまった自分が恥ずかしかった。

 今更だが、今日から日記を書いて行こうと思う。妻にそうしろと言われたのもあるが、自分でも書いてみたいと思っていた。日記を書くのは学生の時以来だ。

 とりあえず一日目はこれくらいでいいだろう。


〇六月十八日 晴れ

 今日はお義母さんが来た。妻が連絡してくれたのであろう。お義父さんは三年前に亡くなっている。僕と同じ肺がんだった。まだその時の記憶が新しいからだろう。色々な病院のパンフレットや病院と先生の選び方などを教えに来てくれた。お義母さんの顔はいつも見ていた穏やかな顔ではなくなっていた。初めてお義母さんのことを怖いと思った。


〇六月十九日 雨

 会社から連絡が来た。僕は会社を辞めることになるだろう。二十歳になってから四十二年間務めた会社を癌で辞めることになるなんて夢にも思わなかった。明日辺りに辞表を書くことにしよう。なんて書けばいいのだろうか。明日調べてみることにしよう。

 妻にも言わないとな。


〇六月二十日 雨

 辞表の書き方を調べていると、僕の両親が来た。僕の顔を見た途端、母さんが泣き出した。玄関でだ。僕は父さんに助けを求めるが「それぐらい勘弁してやれ」と言っているような顔でこっちを見ていた。母さんが落ち着くのに三十分ぐらいかかったな。三十分も建ちっぱなしはさすがに疲れた。泣き止んだ母さんは妻に連れられ、一緒にキッチンで何かしていた。その間、僕は父さんとリビングで二人きりだった。父さんはほとんど何も喋らない。昔からそうだ。必要最低限のことしかしゃべらない。言わなくても分かれという雰囲気をいつも醸し出している。僕はそんな父さんがあまり好きではなかった。

 二人は今日泊まっていくらしい。妻には昨日から言ってあったそうだ。僕にも連絡してほしかった。母さんは僕よりも妻と仲がいい。僕たちに子供が生まれた時なんかは毎日連絡しているほどだった。たまに僕も父さんも抜きで二人でご飯を食べに行ったり旅行に行ったりしているらしい。僕も連れて行ってほしいと言ったら「二人の時間を邪魔しないで!」なんて言われたこともあった。

 結局この日は辞表を書かずに終わってしまった。


〇六月二十二日 雨

 昨日は日記を書くのを忘れてしまった。三日坊主……いや、四日は続いたから四日坊主だな。実にふがいない。昨日あったことも一応書いておく。辞表を書いた。妻にはまだ話していない。言おう、言おうとは思っているのだが、なかなか言い出せずにいる。僕は自分が心底意気地なしだとことごとく思い知らされた。どう話そうか考え、毎回ため息をついて終わってしまう。こんな暗い話はここで終わりにしよう。

あとは何があったかな……ああ、そうだ。父さんと母さんが今日も泊っていくことになった。「今日も」というよりもしばらくの間ウチに泊まっていくことになった。らしい。また僕の知らないところで話が進んでいた……。まぁ妻が楽しいならそれでいいのだが。

 昨日あったことはそれぐらいか。今日は……一日中だらだらしていた。こんな一日を過ごしたのは久々だった。


〇六月二十三日 曇り

 お昼を食べているときに会社を辞める話をした。妻、父さん、母さんの箸が止まり、僕の方に三人の顔が向けられた時の表情が瞼の裏にこびりついている。妻は「え?」と僕が言ったことが分からない、と言っているようなきょとんとした顔。父さんは目を見開き今まで見たこともないような、びっくりしているような顔。母さんは全てを知っているかのような、慈愛に満ちた顔。三者三様、各人各様。見ていて心地の良いものではなかった。

 家の中は今日一日静かだった。僕が原因というのが心苦しい。


〇六月二十四日 曇り

 今日の朝、父さんが二人で話がしたいと言ったので、カフェに行くことになった。父さんから話しかけてくるなんて初めてのことだったからびっくりした。だけど、移動中も、お店に入ってからも父さんは一言も何も言わない。何か言おうと口を開こうとするが、少しもごもごと口を動かした後にウェイターにコーヒーのおかわりを頼んで終わってしまう。僕は何を言われるのかとドキドキしていたが、その思いは段々とイラ立ちに変わっていった。

 結局、父さんは何も言わずに店を出ることになった。僕はコーヒーを五杯も飲んでしまったからお腹がタプタプになってしまった父さんは何が言いたかったんだろう。


〇六月二十五日 雨

 今日もまた父さんに話がしたいと誘われた。同じ時間が流れた。そして、僕の我慢は限界を迎えた。僕の方から話を切り出した。「父さんは何が言いたいの?」と。そしたら父さんは泣き出してしまった。それはもう、わんわんと子供が泣くみたいに。さすがにお店に迷惑がかかると思い、家の近くにある公園に場所を移した。

 誰もいない公園で大の大人が二人、ブランコで揺れている光景は、はたから見れば異様であることは間違いなかったであろう。その中で父さんは途切れ途切れながらも、少しずつ独り言のように話をしてくれた。「なんで俺より早く死ぬんだ」「俺はお前に何もしてやれてないのに……」同じようなことを何度も……何度も繰り返していた。

 家に帰るころには辺りは暗くなっていた。目元を赤くした父さんを見た母さんはすごく驚いていた。


〇六月二十六日 雨

 今日は母さんに呼び出された。場所はもちろん昨日、一昨日と同じ喫茶店。話の内容は父さんのこと。なんでも、僕が肺癌になったと知ってからずっと不安で、夜も寝むれてない日があったとか。少し驚きだった。あの父さんが……。昨日の父さんのことを母さんに話したら「あの人らしい」とくすくすと笑った。

 母さんがそこから話してくれたのは、僕の知らない父さんの話だった。父さんがいつも話さない理由。それは極度の恥ずかしがり屋だからだそうだ。

 あれを話そう、これを話そう。そう考えている内に顔がどんどんしかめっ面になっていって、いつもの言わなくても分かれという雰囲気になってしまうらしい。そのことを聞いてからなんだかあの父さんがなんだか可愛く見えてしまう。これからどんな顔をして父さんと会えばいいのだろう。にやけてしまう自信がある。実際、家に帰ったあと父さんを見たら笑ってしまった。(父さんは僕が何で笑っているのかわかってはいなかったが)

今日は連日の緊張のせいか、なんだか体が重かった。早く寝ることにする。


〇六月二十七日 晴れ

 昨日の夜、母さんは昨日のことを父さんに言ったらしい。朝顔を赤くした父さんに「まぁそういうことだ」と言われた。この歳になって父さんの見方が変わるとは思ってもみなかった。どうせなら癌になる前が良かったな……。

今日も朝から体が重かった。あと吐き気がすごい。今日は二回も吐いてしまった。念のため明日病院に行くとするか。


〇六月二十八日 雨

 病院に行ってきた。結果から言うと、癌が脳と背骨、肝臓に転移しているらしい。別の場所への転移。これは肺癌のステージがⅢからⅣになったことを意味している。俗にいう末期癌だ。お医者さんから言われた五年生存率はたったの六パーセント。根本的な治療はできないらしい。これからは、緩和治療と抗がん剤治療がメインになると言われた。…………言葉が見つからない。妻にも両親にもこのことはまだ言っていない。言いたくない。言えるわけがない。どんな反応するのか、簡単に想像できてしまう。僕のことでこれ以上悲しませたくない。

でもこのことはいずれ言わないといけない。


〇六月二十九日 雨

 今日も報告することが出来なかった。父さんが勇気を出して自分の想いを話してくれたのに……。僕も勇気を出さなければ。明日報告すると今ここに誓おう。

 今ここで変わらずに僕はいつ変われるというのだろう。ただでさえ僕には時間がないのだ。もう、変わるしかない。ただ、一つだけ……みんなを悲しませる覚悟だけをしておこう。


〇六月三十日 雨

はぁ。言った。言うことが出来た。お昼ご飯を食べたあとの束の間の時間。僕はリビングにみんなを集めて癌のことを報告した。やはりというかなんというか……妻は泣き出してしまった。母さんも同じく。父さんだけは一人固まってしまった。そうなることは分かっていた。やはり心に来るものがある。ステージⅢのときに比べ、五年生存率は半分にもなってしまったのだ。それに、いつ病状が悪化するかもわからない。不安になるのも当たり前だとは思う。僕も実際不安ではある。この先どうなってしまうのか、いつまで家族と過ごせるのか、僕が死んだあと家族はどうなるのか。考えれば考えるだけ不安の種は尽きない。

ああ、死にたくない。


〇七月一日 雨

 七月になった。僕はあとどれくらい生きていられるのだろうか。八月を迎えることが出来るのだろうか。マイナスな考えばかりが頭をよぎる。最近では癌のせいなのか食事も喉を通らない。体重は減る一方だ。今日体重を量ったら先週量った時よりも五キロも減っていた。段々と自分が末期の癌であることを自覚させられてくる。やっぱり僕は死ぬのだろうか。

嫌だ。死にたくない。


〇七月二日 晴れ

  今日は一日のうちの大半をベッドの上で過ごした。別にだらだらしていたわけではない。体がだるく怠くて重かったからだ。体を横にするだけでも辛かった。今もなんとか体を起こして日記を書いている。

 体調は悪くなる一方。もう嫌だ。


〇七月三日 雨

 今日は久しぶりに妻とけんかをした。きっかけは些細なことだった。今日の分の薬を飲んだかどうか。たったそれだけのことだった。ただ、今回の件は僕が悪い。少し強く言いすぎてしまったことはある。明日謝ろう。


〇七月四日 雨

 今日病院に運ばれた。突然呼吸がしづらくなって倒れてしまった。今は症状もだいぶ楽になり、病院のベッドで日記を書いている。経過観察のために何日かの間検査入院をすることになった。家に帰りたい。結局妻にはまだ謝ることが出来ていない。ただ、僕が薬で眠っている間、面会時間ギリギリまで隣で手を握っていたと看護師さんが起きた後で教えてくれた。明日お見舞いに来てくれるのを待つしかないか。


〇七月五日 雨

 妻がお見舞いに来てくれた。僕は妻にすぐ謝った。そしたら妻は「そんなこと……何言ってんのよ、もう……」と泣き出してしまった。泣きながら僕の手を握って「そんなこと良いのよ。あなたが生きてさえいてくれれば」何かに祈るかのようにかすれるような声でそう繰り返した。この日は一日、妻と一緒に病室で楽しい一日を過ごすことが出来た。


〇七月六日 晴れ

 薬のおかげか今のところ体調は良い。ただ、薬の効果が切れた後が地獄だった。体のいたるところが痛み、眠れない時間が続く。そのたびに何度も死にたい、そう思ってしまう。だけど、そのたびに妻の顔を思い出す。そして、楽しい日々を思い出す。

 悲しくなる。なぜ僕がこんな思いをしなくてはならないのか。なぜ僕が癌になってしまったのか。まだまだ幸せな時を過ごすことが出来たはずなのに。寿命より早く迫ってくる死の恐怖におびえている。こんな生活はもう嫌だ。


〇七月八日 晴れ

 昨日は薬の影響で一日中眠っていた。せっかくの七夕だったのにな……。緩和治療も大変なことばかりだ。便秘にはなるし、吐き気も凄い。日記を書いているだけでも辛い。こんな生活があとどれだけ続くのだろうか。想像するだけ辛くなる。今日は誰も見舞いに来なかった。妻に会いたいなぁ。


〇七月九日 雨

 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。体調は悪くなる一方。起き上がることさえできなくなってきた。自分の死が近づいてきているのが分かる。体がだるい。今日は早めに寝よう。


〇七月十一日 晴れ

 嫌だ死にたくない。死にたくない死にたくない。家に帰りたい。妻とまだ一緒に暮らしたい。父さん母さんと一緒にご飯を食べたい。嫌だ死にたくない。


〇七月十五日 晴れ

 僕はもうすぐ死ぬだろう。自分の体のことだからよくわかる。死ぬ前にここに遺書を書こうと思う。

 まずは妻……いや明美へ。こうやって書きだすのはなんだか恥ずかしいな。まずは今まで僕のことを支えてくれてありがとう。君にはいつも救われっぱなしだったな。僕は君に何もしてやれていない。すまない。僕との三十年間が幸せだったら良いな。僕はすごく幸せだった。僕の人生の中で君以上の女性はいなかった。ありがとう。愛してる。

僕が死んだあとは気負わず自由に生きてくれ。僕の最後の願いだ。

次にお義母さん。まずは娘さんを産んでくれてありがとうございます。おかげで僕の一生を素敵な女性と過ごすことが出来ました。そして、僕が癌になった後様々な相談に乗ってくれたこと感謝しています。

そして、母さん。ここまで育ててくれてありがとう。本当にありがとう。その一言に尽きる。僕が結婚をするって言ったときも、北海道にある実家から離れて東京に行くといったときも母さんは優しく支えてくれた。最高の母さんだった。

最後に父さん。正直に言うと僕はア父さんが嫌いでした。今では好きです。実の父親にこんなことも言うのはなんだか気持ち悪いけどね。でも、人生の最後にあなたの見方を変えることが出来て本当に良かった。ありがとう。最高の父さんだった。

あなた達と出会えることが出来て僕の人生は最高のものになりました。

ああ。死にたくないな。一人で行くのは怖いな。ああ、しにたkkkkkkkkkkkkkfwejp[nnnn

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