戦い
「お姉ちゃん! お姉ちゃん……」
まだ小さなお姉ちゃんは、夜、体中を傷だらけにして家に帰ってきた。私は涙を流しながらお姉ちゃんに抱き着いた。
「泣かなくてもいいよ。今日は少し強めの悪意を倒してきたんだ。みやびが笑顔ならそれで私は幸せ。だからできれば笑っていてほしい」
お姉ちゃんは優しい顔で私の頭を撫でてくれた。でも私はやっぱり笑えなかった。こんな傷だらけになってまで私のことを助けて欲しくない。私のために傷付いて欲しくない。
「お姉ちゃん。もう、行っちゃダメ。私は大丈夫だから。いじめだって耐えられるから」
お姉ちゃんが夜に外へ出るようになってから、私はいじめられることがほとんどなくなった。お姉ちゃんが言うには、悪意を片っ端から倒しているからみたいだった。
悪意が大きくなると私がいじめられてしまうから、お姉ちゃんは必死で夜な夜な戦っているのだといっていた。でも私は信じていなかった。心の剣も悪意も。
本当はお姉ちゃんは私を虐めそうな子と戦って勝って、私を虐めないように言い聞かせているだけなのではないか。そんな風に思っていたのだ。
「耐えなくていいよ。私の大切な大切なみやびを傷付ける悪意は、私が全て倒す。例えどれだけ傷だらけになっても、私はみやびを守るよ」
お姉ちゃんは私の気持ちを理解していないみたいだった。当時の私にも自分の気持ちを適切に言い表す語彙力がなくて、ただえんえんと泣くだけ。
私はただただ守られるだけの存在だった。
そして今も、私にはお姉ちゃんの代わりに傷付く覚悟がなくて。
「あー。あいつがいなくなって清々したわ。姉妹で恋愛とかくっそキモいよな。あいつの顔見るだけで吐きそうだわ」
私は学校の教室、隅っこの席で寝たふりをしていた。「あいつ」が誰なのかは理解している。私の大切な大切なお姉ちゃんのことだろう。ちらりと顔をあげると、女子生徒たちの背中から人の影のような悪意が現れていた。
私は顕現せよ、と念じる。でも心の剣は現れてくれない。じっと悪意をみつめていると、女子生徒の一人と目が合った。私は慌てて寝たふりをする。でも遅かった。
足音が近づいてくる。私はぎゅっと目を閉じて、ただ怯えるだけだった。お姉ちゃんはこんな悪意たちと正面から戦っていたんだ。それで傷だらけになっても、私のために頑張ってくれてた。
なのに、私は。
「おい。お前今私たちのことみてただろ。文句があるならいえよ。ほら」
私は頭をあげて、うつむいたまま首を横に振る。すると女はつまらなさそうな顔で立ち去っていった。「しょうもないやつだな」とつげながら。その背中からはさっきよりも大きくなった悪意が突き出していて、白い目と白い口で私をあざ笑っているようにみえた。
私はまた顕現せよ、と念じた。でも心の剣は現れてくれなかった。その間にも悪意は大きくなっていく。あの悪意はやがてお姉ちゃんを苦しめるのだ。
放課後、私は下を向きながら家に帰っていた。子供の笑い声を聞いて、どうして私はこんな風になってしまったのだろうと思う。昔はお姉ちゃんと笑い合っていたのに。
公園で遊ぶ子供たちを横目に歩いていると、突然、正面にあのローブ姿の少女が現れた。その西洋風の顔立ちと西洋風の姿は、現代日本からすると明らかに浮いていた。だというのに通りかかる人たちは誰も視線をむけていない。まさか、見えていないのだろうか?
「お姉さん、かなりまずい状態ですよ」
ローブ姿の少女は無表情に告げた。
「昨日見たと思いますが、ああなった人で自殺しなかった人を私は見たことがありません」
「自殺……?」
私は絶句した。自殺。お姉ちゃんが自殺? 私は慌てて走り出しそうになった。でも少女に制止される。
「まだ話は終わってませんよ。お姉さんの悪意は、実は本物の悪意ではないんです。悪意に晒され続けたがゆえに、自意識が生み出した悪意のまがい物なんですよ。つまりは本人が過去に囚われているかぎりは、永遠に耳元で最悪な言葉を囁かれ、苦しめられ続けるんです」
「だからどうしたっていうんですか!? 早くいかないとお姉ちゃんが……」
「一度自殺を止めたからって、意味はないんですよ。根本から治さないと。でもあなたは心の剣を呼びだせない。だから今のままじゃ助けることはほとんど不可能です。裏切りものであるあなたの言葉は、今の彼女には届かないので」
「そんな小言を言いに来たんですか? お姉ちゃんを見捨てろとでも言うんですか? 私はどうしようもない人間ですよ。それでもお姉ちゃんは私の大切な人なんです。絶対に死なせたりなんてしませんから!」
私は少女の脇を抜けて、急いで家に帰った。鍵を開けて、玄関に入る。すると玄関にはお姉ちゃんの靴がなかった。慌ててお姉ちゃんの部屋の前に向かって「今日の夕食はなにがいい?」と問いかける。でも返事が返ってこない。物音一つ聞こえない。
私は勇気を出してお姉ちゃんの部屋に入った。誰もいない。心臓がばくばくしてきた。お姉ちゃんはもしかすると、本当に死ぬために外へと出たのではないか。
飛び降りたり、車に轢かれたり、外なら死ぬ方法はたくさんある。私はスマホでお姉ちゃんに電話を掛けながら、部屋を歩き回っていた。
その間に、なんとなくカレンダーをみると、今日に印が付いていた。日付を囲った丸はただの丸のはずなのに、なにかとてつもなく不穏な証にみえた。お姉ちゃんはもう、疲れてしまったのではないか。私に悪意を向けられて、悪意と戦うことも出来なくなって、悪意に苛まれ続けるだけで。
そのうえ、私はほとんどお姉ちゃんと関わろうとしなかった。夕食を聞いたり、朝起きたら挨拶をする程度。必死で守ってきた私にそんな対応をされたら、果たしてお姉ちゃんはどんな気分になっただろう。
お姉ちゃんはいつまで経っても、電話に出てくれない。私のせいだ。全部、私のせいだ。私はこぶしを握り締めたまま、玄関へ走った。
鍵も閉めずに、街へ飛び出す。ケーキ屋さん。洋服屋さん。雑貨屋さん。たくさんの店が流れてゆく。人ごみを走り抜けてお姉ちゃんを探す。でもお姉ちゃんはどこにもいない。その時、救急車のサイレンが聞こえた。
めまいがした。血の気が引いていくようだった。
私は救急車の音を追った。息を切らせながらたどり着く。私は半狂乱になりながら野次馬たちの群れに突っ込んだ。押し返されながら押しのけて、なんとか輪の内側にたどり着く。
でもその先に倒れていたのは、知らない男性だった。
体から力が抜けて、よろよろと倒れてしまう。周りからは心配する声が上がった。私は「大丈夫です」と冷や汗を拭いながら、野次馬の外に出た。
どうすればお姉ちゃんをみつけられるのだろう。すっかり焦り切ってしまった私は、汗を流しながらまた無謀にも走ってお姉ちゃんを探そうとした。でもそれを呼び止める声があった。
「もっと効率的に探したらどうですか。高い場所からみるとか、いろいろあるでしょう?」
私は振り返る。ローブ姿の西洋風の少女が腕を組んでいた。
「あなたが目にすることのできる悪意は、あなた達姉妹に向けられたものだけ。悪意は見た目からして異質ですから、遠くからでもはっきりと視認できるはずです」
高い建物。私は急いでこのあたりで一番背の高いビルに向かった。エレベーターで一番上まで向かう。そこは休憩室のようだったけど、人は誰もいなかった。私は窓越しに食い入るように街をみつめる。
するとみつけた。一か所だけ黒っぽくなっている交差点があった。私は急いでその場所へと向かう。その間に夕日は沈み、夜の帳が下りる。
息を切らせながらたどり着くと、ライトをつけた車の行き交う道路をじっと見つめているお姉ちゃんを見つけた。
そのとき、学校でお姉ちゃんの悪口を言っていた人たちが現れて、お姉ちゃんになにやら話しかけていた。その背中には巨大な悪意が白い目と白い口で笑顔を浮かべていた。
それをみたお姉ちゃんはすっかり怯え切っているようだった。
「なに外に出てんだよ。犯罪者。妹に恋愛感情を抱く異常者。気持ち悪いんだよ」
たくさんの黒い悪意たちがお姉ちゃんの背中を押していた。車道へと押し出そう押し出そうと行列を作ってお姉ちゃんを押していた。
私は声を出そうと思った。でもつっかえてしまったようになって、声が出ない。嫌な記憶がよみがえる。姉と付き合う異常者だと罵られた記憶。友達だった人たちから冷たい視線を向けられた記憶。仲の悪かった人たちからいじめられた記憶。
そして、お姉ちゃんに悪意を向けてしまった記憶。
でも私は思い出す。まぶしく輝く記憶だってあるんだ。
それは中学二年生の秋のことだった。私は夕暮れの帰り道で、突然、お姉ちゃんにキスをされた。そしてとても辛そうな表情でこんなことを告げられた。
「変だと思うかもしれない。でも私、みやびのことが好きなんだ」
「えっ?」
私はお姉ちゃんが好きだった。でもすっかり諦めていたのだ。お姉ちゃんが私に恋愛感情を抱いているはずもない。当然、告白なんてしたって振られるだけだ。そう思っていたのにお姉ちゃんの方から告白してくれた。とても嬉しかった。
でもお姉ちゃんはまるで振られることを前提にするみたいに、言葉をつづけた。
「みやびは好きじゃないよね。こんな、いきなりキスしてしまうようなお姉ちゃんのことなんて。でも我慢できなかった。どうせ報われないのなら、せめてみやびの初めてだけは奪いたいって思った。ごめんね。みやび。私、本当に……」
お姉ちゃんは今にも泣きだしてしまいそうだった。私は慌てて相応しい言葉を返そうとするけれど、突然の告白とキスですっかり動転してしまっていたから、頭が真っ白になっていて、何も言えなかった。
だから、私はお姉ちゃんにキスをした。唇と唇がくっついて私とお姉ちゃんはひとつになった。お姉ちゃんは顔を真っ赤にしていた。私だって恥ずかしくて、全身が熱くなっていた。
でもどうやら気持ちは伝わったみたいだった。お姉ちゃんは自分の唇に指先で触れながらとても幸せそうに「今日からは恋人だね」と笑った。私も微笑んでお姉ちゃんと恋人つなぎをした。
でも今、私はお姉ちゃんを失いかけている。お姉ちゃんに降りかかる悪意に私はあまりにも無力だった。お姉ちゃんは大切な人なのに、それでも私は臆病で卑怯で傷つくのが怖くて、自分を守るために、自分を卑下するようなことばかり考えていた。
このままじゃだめだ。私は全力でお姉ちゃんの所に走った。お姉ちゃんにはたくさんの悪意がまとわりついていて、そいつらはみんな一様に背中を押しながら「死ね」と繰り返していた。
「お姉ちゃん!」
「……みやび」
お姉ちゃんと女子生徒たちが一斉に私の方を向いた。
「おぉ? お前たちまた付き合い始めたのか?」
するとお姉ちゃんは大慌てで否定していた。
「違う。付き合ってなんてない。そもそも、付き合うことになったのは、私がみやびに無理強いしたからだよ。でもそのせいでみやびはいじめられることになった。付き合うわけないでしょ。自分のエゴのために、大切な妹を傷付けたくなんてない」
「そうだよなぁ? 妹がまたいじめられるのは辛いよなぁ? 脅迫で全部なかったことにしようとするからそんなことになったんだよ。お前は。記憶をなくすほどの脅迫って、お前なにやったんだよ!」
女子生徒はお姉ちゃんを怒鳴っていた。きっと「心の剣」で悪意を消された友達がいるのだろう。だからお姉ちゃんに突っかかっているのだ。
でもそもそも悪いのは最初に悪意を向けてきた方だ。
私は震える声で告げた。
「お姉ちゃんは悪くないよ」
「あぁ?」
「お姉ちゃんは私のために、私なんかのために悪意を消してくれた。でも私はいじめられて、お姉ちゃんを恨んでしまった。私、後悔してるよ。お姉ちゃん」
「……みやび」
お姉ちゃんは今にも泣きそうな顔で私をみつめていた。今もお姉ちゃんの自意識が生み出したまがい物の悪意たちは、お姉ちゃんを苦しめている。「死ね」と耳元でささやいて、車の行きかう車道に押し出そうとしている。
「あーあ。またお前の妹、虐められることになるな」
女子生徒はにやにやとお姉ちゃんをみつめていた。
「みやび。ごめんね。でも私、もう生きたくないんだよ。私が生きてたらみやびを傷付けてしまうから。それに私自身も、もう疲れたんだ。ずっとみやびを守るために頑張ってた。でもみやびは最後には私に悪意を向けた。みんなには嫌われて、みやびにも嫌われて、私もう、みやびを信じられない。何のために生きればいいのか分からないんだ」
「待って! お姉ちゃん!」
「実の姉だもんね。死んでほしくないよね。でもごめんね」
お姉ちゃんは目を閉じて苦しそうな表情を浮かべたかと思うと、何かを決心したような顔で車道にゆっくりと踏み出していく。
「死ね」と悪意たちが繰り返しつぶやいている。
だけどそのとき、私はお姉ちゃんの声をきいた。ほんの微かな声だった。弱い風にすら押し流されてしまいそうな声だった。でも私は聞き逃さなかった。
「……みやび、助けて」
お姉ちゃんは震える声でそう告げていたのだ。
私は願った。今しかないのだと直感したのだ。もしも今、それをできなければ私はお姉ちゃんを永遠に失ってしまう。私はあのローブ姿の少女の言葉を思い出していた。
私には悪意と戦う覚悟がない。お姉ちゃんの盾となって傷つく覚悟がないのだと彼女は言っていた。そうだ。私はだめな奴だ。でも今、目の前で死のうとしているお姉ちゃんを見過ごせるほど薄情でもなければ臆病でもない。
お姉ちゃんを守るためなら、いくらでも私が盾になる。いくらでも傷ついてやる!
「顕現せよ!」
私は全身全霊で叫んだ。すると私を中心に強い風が吹いて、髪の毛が舞い上がった。右手に「心の剣」が現れ、それは凄まじい勢いで輝きを増していく。やがて光の刃は背丈よりも長く、木の幹よりも太くなった。
私はそのまま、お姉ちゃんに取りつく悪意に飛びかかった。
その瞬間、お姉ちゃんが私の方を振り返り、足を止めた。目には涙が浮かんでいた。
風のような速さでお姉ちゃんのもとへと駆けつける。光の軌跡が私の通った後に残る。太陽よりもまばゆい剣が夜闇を照らす。私はそれ振り上げた。そして一閃。お姉ちゃんを押していた悪意たちは、避ける暇もなく私の剣を正面から受けて断ち切られる。
キラキラした光が、お姉ちゃんを包み込んだ。夜空の星のような美しい光だった。
繰り返されていた「死ね」が消えていく。お姉ちゃんが苦痛から解放されていく。通行人たちはみんな驚愕の表情で私たちをみつめていた。お姉ちゃんに敵意を向けていた女子生徒たちが、まるで全てを忘れたみたいな顔でお姉ちゃんから離れていく。
私は通行人たちの黒い悪意たちを、最後の力を振り絞って薙ぎ払った。みんな何も見ていないみたいな顔で、歩いていく。
その瞬間、私の全身からは力が抜けていった。気付けば右手に握られていたはずの「心の剣」も消えている。杖代わりにしようとしていたのに、なにも私の体を支えてくれるものは無くなっていて、地面に倒れ込んでいく。
でも寸前で、お姉ちゃんが私を支えてくれた。至近距離でみたお姉ちゃんは相変わらずとても美人だった。私はキスをしたいな、と思いながらもその願いが叶うことはなく、意識が薄れていく。意識を失う寸前まで、お姉ちゃんは笑顔で泣いていた。
「ありがとう。みやび」
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