生誕の歌、執着の産声


―――数時間前―――


「―――――――――――あ、ぎ、ぃいっ――――なん、だ、ここは」


喉の奥から引きずり出されるのは、生を望む生物の本能だ。

僅かな言葉を口にするだけで、燃えるような熱が喉を走り、鈍痛が身体を駆け巡る。

腕を起こし立ち上がろうとするが、あるべきはずの重さが無いことに気づく。

ガードゥは、中ほどから消えた腕の断面を見て、瞳を悲哀で伏せた。


(私は確か……魔人騎士にっ!)


朦朧としていた意識が覚醒し、自身の身に起きた屈辱を思い出す。

そして、己の命があることに疑問を覚える。

震える瞳で視線を彷徨わせる。目に映る光景は、王族の居場所には似つかわしくない木造のあばら家。家を構成する木の板は継ぎはぎだらけで、所々腐り、色が変色している。

えたような匂いが鼻を突き、記憶にない場所に疑問を浮かべる。


それに答えたのは、どこか冷めた聞き覚えのある声音だった。


「お互い、命を繋いだようですね」


影を作るように自身を覗き込む男の姿にガードゥは自身を助けた者の正体を知る。

トレース。モルドレッド教団に所属する透明化術者であり、一応のガードゥの従者だ。

慇懃無礼な言葉遣いはいつも通り。だがその声音には、疲労と切迫した様子が滲んでいた。


――お互い、命を繋いだ。


その言葉を放った無傷のトレースの言葉に、ガードゥは揶揄われたと思い、眉尻を吊り上げた。

事実、トレースは重傷を負っていたが、それをガードゥは知らない。

勘違いの怒りの声が、ガードゥの喉から絞り出されようとした時、機先を制するようにトレースの冷淡な声が降り注ぐ。


「我々の作戦は潰えました」


単純な言葉。だがそれに込められた数多の感情に、ガードゥは気づく。

トレース達の作戦はいくつか存在した。

学術都市に集った優秀な人材の収集、運命の魔女の調査、学術都市の破壊、そして『探し物』。

そのどれも、トレースの想像しない形で変質していた。


「―――なぜ、私を助けられた?」


聡明なガードゥは、すぐにその違和感に気づいた。

王国派閥に包囲されていたあの状況で、自身を助け出すのは、例えトレースの能力を使っても難しい。

トレースはその疑問を予想していたように、間髪入れずに答えた。


「運命の魔女のお陰ですよ。私はあれの介入を受けています」


諦めたような声音は、トレースという男との付き合いが長いガードゥでも聞いたことのないものだった。

だが今はそれ以上に、『運命の魔女』という名の方が気になった。

運命の魔女アルフィア。学術都市最大の障害であり、全てを見透かす魔女でありながら、なぜか教団員を放置している『理解不能』。

それが今になり動き出したという事実は、ガードゥをして背筋が冷える思いだ。


「どういうことだ?」

「言ったとおりですよ。あの魔女に未来を教えてもらい、私は貴方を助けた。そしてその情報を活かして、魔物を使い、都市破壊を実行しました」


教団に属するとはいえ、新参であり、その性格から信頼を得られていないガードゥは、この時初めて、魔物の存在を知った。

魔物の数や詳細、地上の状況については知らなかったが、現在の状況から、その襲撃は成功しているのだとガードゥは推測する。


ガードゥは、欠損した四肢のまま、起き上がろうとする。壁を背にして、体をゆっくりと起こしていく。

魔力も体力も乏しい今の状況では、たったそれだけの行動でも気力を奪い、荒い息を吐き出させる。無理をして体を起こしたのは、見下すように自身を見るトレースに耐えられなかったためだ。


「―――ふう、ふうっ。トレース、私の身体はどうなっている?」


魔人騎士ヒシミア・マルテキストによって、体の大部分を吹き飛ばされたガードゥは、半死半生の状態だ。その精悍な容姿は見る影もなく、四肢や内臓の一部もかけている。

真面な生命活動が出来ているのは奇跡のような状況だ。

抜け目のないトレースならば、自身の状態も理解しているはず。そんな思いで口にした言葉に対するトレースの返答は、想像とはかなり違った。


「内臓、血管が欠けているせいで心臓に大きな負担が掛かっています。魔術師としては死んでいますが、脳は無事ですので、私としては問題ありませんがね」


「…………貴様、何を言っている」


感情の抜け落ちた瞳で、淡々と言葉を紡ぐトレースに、ガードゥは睨みつけるようにそう言った。だがそれは虚勢だった。

トレースは、己を悟らせない男だ。軽薄な感情を張り付け、飄々と嘘をつくその姿は、信用の出来ない男という印象を、常時ガードゥに与えていた。

そんな男の無表情。

それはトレースの余裕の無さを表し、その言葉が冗談ではないとガードゥは気づいた。


「―――ぃッ、き、きさまぁッ!?」


伸びたトレースの手が、無造作にガードゥの緋色の髪を掴む。

腕を除けようとガードゥは手を伸ばすが、想像以上の力に驚愕する。

否、トレースの力が強いのではない。ガードゥの力が弱まっているのだ。

トレースはそのままガードゥの身体を引きずり出す。


「あぁぁあああっ、は、放せぇっ!」


ブチブチと髪がちぎれる音がする。頭皮から耐えがたい痛みが走り、ガードゥは涙の滲んだ瞳を揺らしながら、悲鳴を上げる。

だがトレースはそれに取り合わない。真っ直ぐと先を見据え、独り言のようにガードゥに語り掛けた。


「もう、何が起こっているのか私も分かりません」


そう言ったトレースの顔は、10歳ほど老けて見えただろう。

トレースはいくつかの任務を教団に与えられ、学術都市に来ていた。

都市を破壊するという試みもその一つだが、それをトレースに命じた教団の上司はそれが成功するとは考えていなかった。

成功すればそれに越したことは無いが、あくまでもアルフィアの出方を見るための揺さぶりの一つであり、『探し物』の反応を伺うためのものだ。

成否に問わずその成果を見届けるのが『透明化術者』の役割だった。


トレースもまた、成功させるつもりで動いていたが、成否に興味はなかった。自分たちが逃げるための陽動に使うだけのつもりであった。

だが成功してしまった。都市を守るためのアルフィアの手を借りる形で。

何らかの罠かと疑ったトレースだが、アルフィアの言う通り、魔物は都市を破壊し、市民たちを殺している。

アルフィアは実は、教団の人間なのではないか。そんな荒唐無稽なことを思ってしまうほど、トレースは今、自分がしていることを理解できていない。


分かることはただ一つ。運命の魔女はこの結果を望んだということ。

こんな愚かな真似をして、何になるのかは分からない。エリスを殺すためだと口にしていたが、それだけとも思えない。

分かることはただ一つ。自分たちは魔女の手の上だということだ。


「ならばせめて、魔女の思惑を上回らなくては。その可能性を探し、試す。それが私に与えられた役割ですので。なので、当初予定していなかった試みをしようと思ったんですよ」


ガードゥにはトレースが何を考え、言っているのかは分からない。頭に走る激痛に耐えながらそれを考えることは出来なかった。

トレースはガードゥを引きずったまま進んでいく。留め具が取れて斜めになったドアを押し開き、泥のような地面にガードゥで線を引きながら、進んでいく。

そこは廃村だった。人の気配は何もない。似たような木造の建物が立ち並び、朽ちている。

暗い空の溢す光は乏しくて、村の隅々までは見れないが、暗がりで蠢く呪詛の匂いをガードゥは感じ取る。


トレースは廃村の中心へと進んでいく。

小さく開けた広場だった場所は、今は巨大な肉塊が鎮座する祭壇へと変わっていた。

トレースは腕を振るい、ガードゥを放り投げる。地面に倒れ伏したガードゥは泥で汚れた横顔を歪ませ、憎しみの篭った眼差しをトレースへと注ぐ。


「我々が用意した魔物は四体。どれも、魔王の因子を使い、生育した魔物です。これはその中でも特別製。正真正銘、『魔王の血』を利用した生命体、のようなものです」


それは赤黒い全身をしていた。形容するとすれば、巨大な心臓だろうか。時折呼吸をするように小さく脈動しており、悍ましい異質な魔力を発している。

それは『血』という言葉からかけ離れた生命に思えた。そんなガードゥの思いに気づいたのかは知らないが、トレースは小さく笑い、言葉を続けた。


「とはいっても、不完全ですが。今の我々の技術では、これほどの純度の『魔王の血』を生物化させることは出来ません。出来るのは魔物に注入し、魔物が持つ生来の因子を強化、発現させることのみです」


それが外の魔物ですよ、と小さく呟く。


「魔王の肉体の完全な生物化は、我々が目下研究中の段階です。もし、極北の錬金術師の知識があれば研究も進むのでしょうが」

脱線しましたね、と小さく呟き、トレースは首を振った。


「『魔王の血』は魔力伝導率が桁外れに高い液体です。『入れ物』を持たない今はその特性を活かせませんが、この特性と相性のいい魔術があるのですよ」


魔力伝導率の高い液体ということは、魔術の媒体として有用だということ。

魔王の血はその一滴でさえ、複雑な術式を内包できる。

―――入れ物を持たない存在と相性のいい魔術

例えばそれは、自己の肉体を世界と同化させられる魔術ではないだろうか。


「貴方が『器』になるのです。ガードゥ・バブブ」

「―――まっ」


自身の疑問を肯定するトレースに王族の気位も忘れて、懇願をしようとする。

だがトレースは耳を傾けることなく、ガードゥの欠けた身体を持ち上げて、心臓のような血塊に投げ入れた。


「―――!?」


血塊の感触は、柔らかかった。とても液体とは思えない弾力のある感触と生ぬるい温度。

だがそれは外皮だけだった。

ガードゥは反射的に残った手を血塊の表面につく。ずぶり、と音をたてて、手がめり込む。

身を乗り出そうとするが、それよりも早く内部から血の触手が絡みつく。

細いそれは、目につく限り、数千本以上ある。


「ひっ―――」


喉の奥から零れるか細い悲鳴は本能によるものだった。

ガードゥはそれを見た。

心臓のような表皮を潜った先にあったのは血の塊だ。中央部に浮くように渦巻くそれは真っ赤に染まり、ガードゥへと向けて塊の一部を触手に変えている。

トレースの説明によれば、生命ではないはずのそれ。だがそれは、ガードゥが今まで見てきたどんな人間、魔物よりも色濃い生命力にあふれていた。


「人間と魔王の融合は、未だ劣化品以外の成功例はありません!ですが!自己と世界の境界線を曖昧にする貴方の固有魔術なら可能性がある!」


何の可能性だろうか。アルフィアの予知を上回る可能性、都市を破壊できる可能性、教団の研究を進める可能性。そのどれも、トレースの中にあって、無かった。

ただ、全てを操られているのではないかという恐怖と屈辱、そして教団員として任務を果たすという責任感が、トレースを動かしていた。


くぐもった悲鳴が木霊する。表皮の内に跳ね返り、でたらめに反響する声からは、言葉を読み解けない。ただ、耐えがたい苦痛と絶望の味だけが、色濃く伝わってくる。

それを聞きながらも、トレースは表情を変えずに朗々と言葉を紡いでいる。

彼の声音は、今までで一番、人間味に溢れていた。

だがその声を、ガードゥは既に聞いていなかった。


「―――あ、ぇ、りゃあ、ああ、ええぇ?」


やがて絶叫は収まり、その口から零れるのは意味のない断続的な音だけになる。ただ脳の吐き出す信号を溢すだけの器官となり果てている。

その両眼は無い。血の触手が食い破り、頭蓋の奥深くへと潜り込んでいる。

流された目の残骸と血が、涙のように頬を伝う。

やがては口、耳、鼻からも触手が伸び、脳を包み込む。


触手は脳から情報を吸い上げていた。生物の体内に存在する魔力を媒介とした情報伝達。それを『魔王の血』は本能で行っていた。


「哀れですね、ガードゥ・バブブ」


心臓のような表皮の裂け目、そこから覗くガードゥの震える肉体と触手に塗れた頭部は、酷く悍ましく、人間の尊厳を奪い去る光景だ。

とてもこれが、バブブ公国の王子とは思えないだろう。

覇気と自信をみなぎらせていた魔術師だとは思わないだろう。


その光景に、僅か一瞬、本心ではなかったとしてもガードゥに仕えていたトレースは、本心から憐れんだ。


心臓の裂け目が閉ざされる。中に飲み込んだガードゥ諸共見えなくなっていく。

トレースが見つめる中で、その塊は深く、鮮烈な赤みを帯びた。

それは魔力の輝きだった。ただ、血の中を流れていた異質で膨大な魔力。それを放出している。

そして、心臓の表層に輝く文様が浮かび上がった。規則的に編まれたそれは術式であり、術式を稼働させる燃料は血が持っていた魔力だ。

それが意味することは一つ。この血塊は知性とも呼べる高度な頭脳を持って、魔術を行使したということだ。その演算装置となったのは恐らくガードゥの脳。


「あるいは、自身で脳を作りましたか」


どちらでもいいことだ。トレースは仄かな笑みを浮かべる。

血塊の心臓は僅かに形を変えながら、その内から血を噴出させる。広間を埋め尽くさんとするそれを、トレースは一歩、一歩と下がって躱していく。

噴き出した血の総量は明らかに心臓の容量を超えている。だがそれを不審に思うことは無い。この程度の神秘は当然だと理解している。


流れた血はやがて、蒸発していく。赤い霧となったそれは、大気中の呪いと混じり合い黒く染まっていく。

その勢いは増していき、赤黒い霧が心臓を覆い隠し、広間を覆い尽くしたとき、トレースは確信した。


「成功、と言ってもいいでしょうね……。大気中の呪いを自己の肉体として取り込むことで新たな生命体として誕生しようとしている」


トレースの考えていた人間と魔王の融合ではない。魔王の肉体の生誕でもない。

だが新たな『器』の形は、教団にとっては興味深い結果であり、都市にとっての災厄となるだろう。

既にトレースに与えられている任務は破綻している。アルフィアの調査と人員の誘拐は半ばで終わった。都市の破壊は意にそわない形に変質し、最優先目標の『神体』の確保もアルフィアがいる以上、不可能だ。

だがこの成果は、それを補って余りあるとは言えないまでも、トレースの首を繋ぐことは出来るだろう。


「では、後は適当に暴れてください。私たちを巻き込まないようにね」


トレースは魔王の血に組み込んでいた忠誠術式を使い、命令を出す。

生物の誕生以前から仕込まれた呪詛は、肉体と魂を構成する基盤となり、高い強制力を持つ。だがトレースの出した術式は、弾かれた。


「―――。これは………」

(忠誠術式が消えている?ガードゥの術式の影響でしょうか?)


真実は分からない。分かることはただ一つ。この怪物に付けられた鎖は消えたということだ。

自身の術式を行使した存在へと、赤黒い霧の奥から視線が投げかけられる。

それをトレースは鋭敏に感じ取ったが、行動に移すよりも早く、渦の奥より何かが振り下ろされた。

その速度は音速に迫っていた。大気を切り裂きながら振るわれた一撃は、容易く大地を打ち砕き、何棟もの建造物を衝撃で薙ぎ倒した。


トレースは死んでいなかった。


「……助かりましたよ、バス」

「ああ。退くぞ」


トレースを間一髪で助け出したバスに抱えられたまま、トレースは自身の『力』を行使する。トレースとバスの姿と気配が世界から消え、渦の奥の生命体も二人を見失った。

怪物は、消えた二人に怒るでもなく、ただ無関心に崩れかけの身体を渦の奥へと戻した。


トレースを抱えたバスは駆ける。その強化された肉体は巨体に似合わない速度でぬかるんだ大地を踏破する。その足は、真っ直ぐに『大墓地』の外へと向かっている。


「トレース、どう逃げる?」


戦闘員のバスは、尋ねる。トレースはあらかじめ立てておいた逃走計画を指示する。


「……普通に都市外に去った後、回収してもらいます。私の能力を発動させたまま、移動するので、バレる心配は、無いでしょう」


振動と風圧に翻弄されるひ弱なトレースの肉体は悲鳴を上げていたが、それに取り合う余裕はバスにもトレースにもない。


「問題は、アルフィアです。一番の問題は、『大墓地』を、出る門です。あの女は私たちが、そこから、出るしかない、と知っています。予知、らしき、能力と、合わせて、待ち伏せをしている、可能性があります」


アルフィアはトレース達に手を貸したが、それは魔物を解き放つまでだ。

すでに『大墓地』からは姿を消しているし、一時的な協力関係が今も続いていると思うほどトレースは気楽な性格ではない。

むしろ、アルフィアは自身を殺しに来る可能性が高いとすら考えていた。


(アルフィアの目的が我々の用意した魔物の利用であるのなら、すでに我々は用済み。消される可能性は高い)


だからこそ、トレースは改めて、アルフィアが最大の脅威だと説明をする。

アルフィアには一度、能力発動状態で認識されたことがある。

同じことがもう一度できても不思議ではない。


「俺たちが出るタイミングを掴まれていると?」

「可能性、の話です。ですが、姿は、見えない。それは、確認できています。バス、頼みましたよ」


トレースは待ち伏せされていた場合は、バスの『力』である強固な肉体に託した。

アルフィアのせいで行き当たりばったりの計画になっているのだ。精密な作戦など無いも同然。目まぐるしく変わる状況の中でも、策を立てられるだけ、トレースの頭脳は優れていた。

だがトレースの心配は杞憂だった。そもそも二人は、『大墓地』の門に辿り着けなかったのだから。


「「―――!?」」


2人は背後から迫る異常な魔力の気配に思わず足を止めた。

振り返った先。廃村があったあたりから、それは広がっている。

言葉にすれば、『雲』のようなものだ。

僅かに赤を含んだ黒い雲が曇天を塗りつぶすように空を覆い、上へ上へと昇っていく。それは瞬く間にトレース達の視界の空を塗りつぶした。

それは、濃度の高い呪いを含んだ『魔王の血』だった。

血に込められた術式は当然、〈同化体フィーシェンシー〉。魔王の血はガードゥの固有魔術を取り出し、扱っていた。

血の一滴、水蒸気の一粒にさえ、複雑怪奇な固有魔術が刻印され、効力を発揮している。

それは瞬く間に世界に広がり、『支配』した。


世界が変質した感覚を、バスは捉えた。それは彼の持つ戦士としての卓越した五感によるものだった。だがそれが意味することをバスは言語化できない。


「………急ぎますよ」


顔を険しく歪ませながら、トレースはバスに声を掛ける。

バスはトレースを担ぎ、駆けだす。出口まではあと少しだ。

2人はすぐに出口へと辿り着いた。

バスは自身の口から安堵の息が漏れるのを感じた。

先ほど感じた変容の気配。それを否定するように、『大墓地』の出口が顔を覗かせたことは、バスに『常識』を感じさせた。


だがそれは、門を潜ろうとするまでだった。


「門が、無い?」


否、門はある。トレースは唖然としたバスの声を背で聞きながら、寂れた鉄門に手を添わせる。普段であれば、門の向こうに、出口の光景が浮かび上がるはずだ。だが今は、こちら側の景色を浮かび上がらせている。

異界と世界を繋ぐはずの門は消えていた。


(――――っ!?閉じ込められた!?)


世界を完全に閉ざすことは出来ない。どこかに出口が存在することが異界の存続条件のため、門はどこかにはある。だがそれを、ゼノンやエリスと同様の魔術知識を持たないトレースは知らず、『大墓地』に完全に閉じ込められたという絶望が脳裏によぎる。


(―――アルフィアの策―――異常事態?―――私がこうすることも読まれて―――どうしてこうなった)


数多の可能性が思考にならず過ぎ去っていく。

だがどうしてこうなった、という疑問の答えはすぐに浮かび上がる。

トレースの生み出した魔物だ。

あれが『雲』を吐いた後、門が消えたと考えるべきだ。

トレースは魔術に関する専門的な知識は持たないが、ガードゥの『支配』の固有魔術と世界の変質を結びつけるのは難しくはない。


「……トレース。どうする?」


冷静な巌のような声が、トレースに投げかけられる。

トレースが振り向くと、普段と変わらない無表情を浮かべるバスの姿があった。

バスは少しも狼狽えるそぶりを見せていなかった。


(こういうところで才能の差を実感しますね)


戦士として異常を受け止め、恐怖を飼いならす精神性。それは『魔名』に関係しない生来の才能の差だ。

だがそれは今はいいと、トレースは首を振る。


「……様子を、見ましょう」


それしか言えなかった。トレースは今も煙を吐き出す地平の先を見る。

不気味な呪いと血の渦は、その姿を大きく変えていた。


□□□


トレースがガードゥを『魔王の血』の器として選んだのは完全なアドリブだった。

アルフィアの手の上で踊らされている感覚、それから僅かでも逃れなければ、この都市から生きて逃れられないという焦燥が彼を動かした。

トレースは新たに生み出した魔物を混沌とした戦況にぶつけ、その隙に学院の脱出を図る予定であった。

だが急増の計画には相応の綻びがあった。

致命的な点は二つ。

ひとつは忠誠術式すら塗り替えられるガードゥの『固有魔術』の性能。

そしてもう一点が―――


その怪物は暗い渦の奥で身を縮こませる。

その身に送り込まれる膨大な魔力と呪いを受けて、矮躯だった肉体は大きく膨張していく。

その怪物は高い知能を持つ。複雑な魔術を行使できるほど。

だがその知性は低い。

産まれたばかりの怪物の脳裏に渦巻くのは取り込んだ呪いにこびりついた怨念と感情。

そして核となった一つの思い。

それが何なのか怪物は知らない。

ただ己の心臓が叫ぶ声に従い、世界を支配し、出口を閉ざした。


トレースは知らなかっただろう。怪物がガードゥの『固有魔術』以外にも彼が魔術師として蓄えてきた膨大な知識を受け継いだことを。

その中に、極一部の魔術師しから知り得ない『世界』についての知識があったことを。


そして、トレースは軽んじた。ガードゥ・バブブという魔術の探究者が、今際の際に抱いた『人間性』を。


怪物は世界を睥睨する。その脳裏に焼き付くのは誰とも知らない人間の記憶。

『黒』の記憶はその肉を逆立てるように不快で、ちらつく『黄金』の欠片は酷く眩しかった。

怪物は荒れ狂う精神を厭うように怪物は赤黒い渦の奥で瞳を閉ざす。まだ早い。

本能の告げる声に従い、それは意識を閉ざした。


――――――――――――――――――――――――――――――

冒険者のランクに矛盾があるという指摘をいただいたので、修正しました。指摘してくださった方、ありがとうございます。

レビューや感想も多くいただきました。ありがとうございます。

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