烈火の忠臣、白雪の偽賢
「―――状況は!」
品のいい調度品に囲まれた室内。10人以上が座れる長机の上座に座る女は、声を荒げた。
女の叫びに呼応するように、ゆるりと魔石灯の暖色の輝きが、室内に影を落とした。
女の執務室には三人の人間がいた。
対面に立つ男は、使用人としての礼儀を崩さないまま、緊張感を押し殺した平坦な声音で、淡々と報告を行う。
「正門前の襲撃は低級悪魔のみ。陽動と思われます。召喚主は不明。敵勢力の全容も、不明です」
つまり、何も分からないということ。長々とそれを伝えられた女、マイン・レットは、燃えるような赤いポニーテールを揺らして、怒りを露わにする。
「そんなことは分かっている!……大方卑劣な王国派閥だろう!私も出るぞ!」
マインは気炎を吐き、傍らに置いた愛剣に手を這わす。それに狼狽えたのは、怒りをぶつけられた使用人だった。
「そ、それはなりません、お嬢様!あなたは盟主です!この襲撃の目的はお嬢様を釣り出すためだという可能性もございます……!」
彼の言葉は主であるマインを慮った忠臣の言葉だった。
普段であればマインもそれで矛を収めた。だが今は何よりもその言葉が、マインの拳を震わせた。
「…………それは私が負けるということか」
獣のような飢えた眼差しが、使用人を貫く。殺意すら感じられる眼差しに、非戦闘員である使用人は背筋を震わせた。
「―――ぁ、ぃ、ぇ」
か細い声が使用人の喉から漏れる。だがそれが言葉になる前に、第三者の声が流れを変えた。
「わたしもマイン様が結界を出られるのは賛同できませんな。あなたの命は今は貴方だけのものでは無いのですから」
言葉の上では敬語を使っているが、その声音は乾いていて、慇懃無礼という言葉がよく似合う。
マインは僅かに機嫌を損ねたが、彼の言っている言葉の裏の意味を読み取り、燃えるような熱を納めた。
「…………分かっているとも。キギエー子爵は結界の維持に専念してくれ」
子爵、という言葉を強調し、マインは念を押す。
ドネリコ・キギエーという名の帝国の子爵家当主は、欠片も表情を動かさずに、了解した、と返し、部屋を出た。
この屋敷内には、彼が結界を維持するための専門の工房が作られている。そこに戻ったのだ。
「お前も下がれ」
「は、はいっ」
不機嫌な声音を隠そうともせず使用人に命令を下す。慌てて使用人は部屋を出た。
扉が閉まる僅かな音でさえ、今の彼女の気を荒立てた。
それを誤魔化そうと、彼女は窓へと向かう。外を見ると、正門付近で悪魔と戦う部下と仲間とは到底呼べない同盟者たちが目に映った。
「ふんっ。大口をたたいて護衛を請け負っておいて、無様なものだ」
彼女の嘲笑は、同盟者である生徒たちに向かっていた。
「ナニカ」に翻弄され、隊列を崩す姿と慌てふためく姿は、彼女の留飲を僅かに下げた。
そして騎士として確かな実力を持つマインの高い動体視力は、屋敷の上階からでも戦場を翻弄する「ナニカ」を捉えていた。
「……獣型の悪魔か。見たことのない種だ。結界もどこまで信用できるものか……」
マインは忌々しく、屋敷の天井を覆う結界の魔力を睨みつける。
この三重の結界は、ドネリコ・キギエーが構築したものだ。彼は結界術師として、帝国では5本の指に入る。
彼のお陰で、以前、マインの屋敷に貼られていた魔術防御と比べれば、格段に性能も上がっている。
だがマインは安心感など微塵も感じていない。
ドネリコ・キギエーは、マイン・レットの潜在的な敵対者だ。
そんな彼の干渉を阻むことが出来ず、屋敷にまで居座られ、得体の知れない結界を構築される。
そんな屈辱的な状況に、マインは忌々しく表情を歪めた。
(殿下がいれば、こんなことには……)
1人になったことで湧き上がる心細さと派閥を背負う圧力に、マインは目尻を下げた。
だがすぐに頭を振った。
これはミネルヴァ皇女を取り戻すための戦いだ。
全てを利用し、願いを叶えると彼女は己と敬愛する主に誓った。
◇◇◇
「まったく、分かりやすい女だ」
人の屋敷の廊下を我が物顔で歩く男、ドネリコ・キギエーは、唇をゆがめ、嘲弄した。
帝国派閥の盟主になるはずだったミネルヴァ皇女が消えた今、彼女の派閥の残党には大した価値はない。
それでも彼がマインを守るのは、権力闘争の力学のせいだ。
面倒だと心底思っていても、従うほかない。心に湧いた苛立ちを鉄面皮で押し殺しながら、彼は淡々と足を進める。
彼は自室として割り当てられた部屋に帰る。そこは工房と化しており、元の部屋の面影はない。
扉を閉めたドネリコは、鼻腔を刺激する血と汚物の臭いに反応することも無く、鋭利な器具を手に取り、それに近づいた。
天井からつるされた三体の人間。それには顔が無かった。
本来、頭がある位置には、ガラス瓶が鎮座し、中には脳が浮かんでいる。
脳と首が人造の神経によってつながり、時折、びくりと宙づりになった体が動いていた。
それは驚くことに生きていた。
ドネリコは器具を使い、ガラス瓶の穴に器具を差し込み、脳を調整する。
身体の震えはますます大きくなる。ドネリコはしばらく三体の脳を弄ると満足したように器具を拭いて、元の位置に戻した。
この三体が、ドネリコの結界術の基盤だ。ドネリコは生身の人間の脳を加工し、三層の結界を維持させている。
男、女、生殖器を焼いた男、この三人を魔具で連結させることで、三位一体の神と見なし、キャパシティ以上の結界術を行使させているのだ。
彼らは帝国から連れて来た奴隷だ。中でも魔力保有量が多い個体を、彼は道具として消費している。
ゼノンが感じた結界を支えるリソースは、彼らの命を消費することで可能となっていた。
「小規模の衝突が正門で起こっている。これは……警備を抜けた悪魔か。何の問題も無い」
低級悪魔が数万体集まろうと、結界には綻び一つ生まれないだろう。
だがその時、ドネリコは結界に付随する探知術式がとらえた反応に、眉を顰めた。
「大規模な術式反応だと……?」
その術式は、数人の魔術師が協力して構築するような儀式魔術並みの規模だった。
◇◇◇
―――数分前―――
屋敷裏門側では、驚くほど静かな空気が流れていた。
正門側の悪魔との戦いは、遠い。
流れる悪魔たちの血も、轟く剣戟の音も、空を揺らす魔力の息吹も届かないここは、監督役でもある使用人たちがいないことで、弛緩した空気が漂っている。
警備として割り当てられた生徒たちも、夜深い時間もあってか武器に寄りかかってあくびをする者も少なくない。
襲撃されているというのにまるで危機感が無く、他人事のように義務的に夜の街を眺めていた。
事実、彼らにとっては他人事だ。
あくまで主家の指示でこの屋敷を護衛しているだけだ。
だからと言って彼らの怠慢を責めるのは酷だろう。
マイン・レットへの忠義も無く、資金面での援助も無いのだ。ただ働きに近い環境で持ち場を離れないだけ、彼らは最低限の働きをしている。
だが例え、彼らがやる気に満ち溢れ、万全の警戒を払っていたとしても、今夜の襲撃者は阻めないだろう。
屋敷裏に広がる小さな広間。等間隔で警備していた学院生たちの足元を白い霧が這っていく。
その光景に、学生の一人が首を傾げた。
霧は水源と気温の低下が無ければ起こらない。
学術都市には湖や川などの大きな水源は無いし、気温も穏やかだ。
学院に来て数年。見たことがない気候現象に彼は眉間にしわを寄せる。
(―――うっ!!やばい、吸い込んだっ!)
彼は悪魔の分泌した何らかの毒ではないかと考え、慌てて口元を抑える。
同様の姿が、彼の視界内でも見られる。優秀な学院生たちは、これが自然現象ではなく、敵の攻撃だと考えたのだ。
だが、いつまでたっても異変はない。手に触れる位置まで充満している霧も仄かに冷たく、彼の手に小さな水滴を残すだけ。
魔力の気配もない。急に発生したことを除けば、ただの自然現象だ。
「な、なんだ?」
周囲でも、困惑したような声が漏れる。
何もない。それがただただ不気味だった。
学院生である彼は迷う。何の害も無い霧を避けるために持ち場を離れていいものか、と。
彼は周囲を見渡し、同じ学院生に意見を求めようとする。
だが、そこには誰もいなかった。
「――――あっ……な、なんだぁああっ!?」
首を反対側に向ける。誰もいない。
後ろを見る。建物も消えている。
誰も、何もない。
歩けばどこかに落ちていきそうな非現実さが、彼を襲う。
動くことも出来ず、霧の海に座り込む。足元を触るが、そこには予想していた石の冷たさはない。
触っているような、触っていないような、そんな不確かな手触りだった。
彼はたまらず駆け出す。このままここにいれば頭がどうにかなってしまいそうだった。
どこまで進んでも、先には行けない。否、それすらも分からない。
「…………はぁ、ハア、あああぁああっ、俺はどこにいるんだぁあっ!?」
叫び声はどこにも反響しない。自分がどこにいるのか分からない。
彼の世界には、自分を肯定するものがない。
なぜなら目印となるものが何も無いのだ。地面のほんの少しの傷跡、建物の変化、照らされる影の向き。
普段であれば、世界は色濃く彼という存在を映し出した。
だが今は、自意識だけが、彼を世界に繋ぎとめている。
走り続けた、叫び続けた。ワタシはここにいると、声高に訴える。
返る言葉はない。静かな霧だけが、揺れることなく揺蕩っていた。
「俺、わたし、ワタシ、は……」
やがてすべてが白に呑まれた。
◇◇◇
俺は、倒れ伏す門番たちの側を我が物顔で進んでいく。
彼らの身体は、薄い霧が包んでいた。まるで白いヴェールを被せられているように静かにそこで眠っていた。
それは死者を包む、死神の吐息のようだった。
だがその霧は、正真正銘ただの霧だ。
俺が魔術で気体中から集めた水蒸気を冷やして分布しただけだ。
ほんの小さな術式だけで使用できるため、門番をしていた学生たちも魔術の気配には気づけなかった。
「本当はただの霧。だけどただの霧だとは思わないだろう?」
得体の知れない霧が場を包めば、それは何かだと思うのが人の性だ。
ましてや試験中で気が立っており、魔術の存在を知る彼らなら、その霧を魔術攻撃と結びつけるだろう。
その意識が、干渉される隙間となる。
事実彼らはあっさりと俺の暗示に落ちた。
特定の光パターンを霧に紛れて浴びせて、意識があやふやになったところに初歩の暗示魔術をかける。
肉眼で裏庭の存在を目視されれば異変に気付かれるだろうが、そうでなければしばらくは誤魔化せるだろう。
何せ今は悪魔の襲撃中。屋敷の人間の意識は正門に向いているのだから。
「しかし、あっさりと嵌まったな。学院じゃあ、暗示対策は教えてないのか?」
思い込みを利用する精神干渉術は、魔術の基礎と言ってもいい。
俺なんかは毎日夢に干渉されて、昔の恥ずかしい思い出を暴かれた。
次の日、食卓で俺の黒歴史発表会を開催したあの師匠を、いつか泣かすと本気で誓ったものだ。
「って、そんなクソみたいな昔話はいいんだよ」
俺は意識を切り替え、術式を発動させる。もう隠密は要らない。
宙に輝く軌跡が描かれ、それが文字を成していく。
それは瞬く間に宙を埋め尽くし、星の輝きのように夜闇を照らし、追い払う。
文字の集合体だが、遠目から見れば幾重にも組み合わさった円環に見えたかもしれない。
これは天体魔術を利用した恒星だ。魔力が漏れないように固定化し、圧縮するための重力の星だ。
注がれた魔力が太陽のように輝き、圧力が周囲の大気を揺らす。
プラズマが弾け、魔力が臨界点に達する。
「単なる力業だけど、分かりやすいだろ?」
指を振るう。ほどけた円環の一部から、圧縮された魔力が解き放たれ、三層の結界を容易く貫いた。
結界の補助術式の起点を狙った一撃は、反対側の結界をも貫き、伸びていく。そして都市を覆う巨大結界にぶつかり、ようやく消滅した。
大量の魔力が流れ、維持できなくなった屋敷の結界は、その輪郭を揺らす。
バグったみたいな動きをした後、輪郭が薄れ、頂点から崩れるように消えていった。
俺は降り注ぐ結界の欠片に照らされた中庭に踏み込み、屋敷へと向かっていく。
「誰も通すなよ」
俺の影から何匹もの獣が湧き出る。猟犬たちは小さく唸り、了承の意を伝える。
俺は歩きながら錬金術を使い、屋敷の立つ土地を支配していく。地中に埋められた魔具の警報などを見つけ次第、干渉して、魔具としての機能を破壊していく。
遠隔で物質を書き換えるのは高等技術だが、錬金術師である俺には大して難しくはない。
鼻歌交じりに作業を終わらせていく。
そうしていると、俺は屋敷の西側から逃げていく足音を捉えた。
下草を踏む感覚から見れば、魔装術を使える魔術師か騎士だ。かなりの速度で進んでいる。
俺の探知が確かなら、屋敷内部から逃げてきたものだ。
「まあ、いいか」
体重的に男だし、ターゲットでないなら自由に逃げてくれてもかまわない。俺は気にせず、足を進めた。
屋敷の裏門は、木々に囲まれ、隠されるようにあった。
小さなそれは、屋敷裏の井戸に繋がっており、使用人が使う者なのだろう。
入り口には鍵はかかっておらず、俺は普通に屋敷内部に入った。
まず俺を迎えたのは、暖色の柔らかなカーペットだ。踏みつけるのを躊躇ってしまうそれに、そろりと足を下ろして、長い廊下の先を見る。
等間隔で並ぶ全身鎧に、魔力の気配を感じる巨大な絵画。
一応の罠はあるようだ。
だが俺は、気にせず進んでいく。
人形らしき全身鎧も、罠も反応しない。
俺が片っ端から錬金術で内部の回路を書き換えたからだ。
屋敷内部の警備網は、外の結界ほど厳重ではない。難しくはなかった。
すでに屋敷の構造は、把握が済んでいる。
俺は迷わず、目的の部屋へと向かった。
時折、内部の警備をしている兵士や使用人に出会うが、霧を使った暗示で眠らせた。
これを破れるものはいないようだ。
結界を張った魔術師にも出会わなかった。どれも雑魚ばかりだ。
俺は木目の浮かんだ重厚な扉をノックする。2回か三回か、回数で意味が違うという前世かこの世界かで知った知識を思い出して、迷った末、とん、とん、、、とん、というふざけたリズムになった。
返答はなかった。俺は扉を開く。木が擦れるような音がして、初めに視界に入ったのは白銀の刃だった。
刃は、首を貫き、貫かれた俺は眼を剝いて、泥に変わった。
「―――なっ!?」
「はい、失礼するよ」
屋敷の中庭の土に幻術を被せた泥人形は、硬質化し、床と剣を一体化させる。
武器を失い、狼狽える彼女の側を通り抜けて、部屋の中に入る。
マイン・レットは馬の尾のように揺れる緋色の髪を揺らし、腰から短剣を引き抜き、構えた。
「君は何飲む?」
俺は勝手にアホみたいに長いテーブルの上に置かれていたグラスを手に取り、ピッチャーから水を注ぐ。
二つ目のグラスを手に持って、彼女に問いかけるが、返ってきたのは武技の『飛斬』だった。俺はそれを結界で相殺し、はぁ、と息を吐いた。
まるで知人のようにふるまうことで戦いという無駄なフェーズを省こう大作戦、失敗だ。
「話し合わない?」
「貴様、狂っているのか!?なんだその怪しいボロ布は!顔を隠した不審者め!」
俺は自分の身体を見下ろす。《隠者の衣》に身を包んだ俺は、どれだけ好意的に見ても、森で引き籠って5年目のレンジャーだろう。
つまりレンジャーなんていないこの世界では、不審者だ。
「…………学院生か?」
彼女は結界で武技を相殺されたことに警戒し、話しかけてくる。
あからさまな時間稼ぎだ。この騒ぎに気付いた誰かが来ることを期待しているのだろう。
だがそれは無駄だ。俺が防音の結界を張った。人は来ない。
俺はフードを取り、顔を晒す。
「そうだよ。試験のことで話があるんだ」
急に顔を晒し、質問に答えるとは思わなかったのだろう。押し殺そうとして隠し切れなかった困惑が、緋眼に浮かび上がる。
「……お前は、食堂の」
どうやら俺のことを覚えていたようだ。
「そうだよ。ゼノン・ライアーっていうんだ」
俺は柔らかく微笑む。だが、マインは短剣に魔力を込め、細い腕を矢のように引く。
その瞳からは感情が消え、殺意が肌を針のように刺す。
おっと、これはシャレにならない。
「試験じゃあ、殺し合いはご法度だよ?」
一歩下がり、両手を上げる。だがマインは意に介さない。
「復讐にでも来たのか」
硬質な声音がギロチンのように振り下ろされる。
「まさか。君の王女様を取り戻す手伝いをしたいんだよ」
そう言うと、ぴたり、と彼女の殺意が一瞬凪いだ。その隙を見逃さずに、俺は言葉を被せる。
「君の目的は分かっている。500点集めて、『無制限』を獲得することだろう?」
マインは、小さく背を震わせた。後悔か、怒りか、あるいは使命感だろうか。
それは背負う物の重たさに耐え兼ねたようにも見えた。
「お前、どこまで知っている」
低い、感情を押し殺した声が、俺を貫く。
食いついた、と俺は心中で笑みを浮かべる。
彼女は慎重な姿勢を維持しているつもりのようだが、その視線には縋るような色が混じっている。
俺にはそれがどこか、迷子の子供のように見えて、哀れだった。
「一通りは。俺は教団と敵対している。身分は、明かせないけどね」
意味深に笑みを深めると、彼女は険しい顔で殺意を鈍らせた。
「…………誰にも得をさせたくはない、ということか」
彼女は大きな瞳を伏せ、納得したようにぽつりとそう言った。
「……。ああ、そうだよ!」
急に跳ね上がった俺の声に、彼女はぴくりと背筋を震わせた。
な、なんだっ、と彼女は驚いた自分を恥じるように、ぶんぶんと短剣を振るった。
「ふふふふふ。流石だね。賢い人とは話が進んでやりやすいよ」
俺はグラスを持ち上げて、軽く透明な水面を揺らす。
そして視線を窓の外に向けて、小さくグラスを傾けた。
………あいつ、何言ってんだ?
誰にも得をさせたくない?どういう意味なの?
誰にも、誰にも………。俺がマインを助けると誰も得をしなくなるということだ。
マインを助けて、ミネルヴァ皇女が戻って来ると、誰も得をしない………。
……………ああ、帝国派閥の絶対的な盟主であるミネルヴァ皇女が戻れば、敵対派閥も仮想敵国も喜ばないのか。
彼女は国民人気も高く、カリスマもあり、強い。敵国からすれば、次世代の脅威だろう。
俺は国家間のバランスが動くのを嫌う工作員か何かで、ミネルヴァ皇女を救い、帝国派閥を大派閥に戻そうとしていると思われてるのかな。
すごいな、マイン。俺の一言でそこまで予想したのか。
流石貴族。権謀術数はお手の物のようだ。
俺はただ教団を潰したいだけの一魔術師だけど、誤解させておこうか。
俺は窓の向こうから覗く、悪魔たちと護衛たちの戦いを見る。どうやら劣勢みたいだ。
ティンダロスの猟犬が想像以上に活躍していて、戦線が押されている。一番後方にいる指揮官らしき家人は、門に背を付け、必死に指揮をしている。
あれはやばいな。
「あの悪魔たちはお前の使い魔か?」
「ああ。もういらないね」
俺は猟犬に心の中で合図を出す。
『門を壊して影の中に戻ってこい』
俺の命令を受けた幾重もの影が、路地裏に吸い込まれるように消えていった。そして数秒後、門を破壊された悪魔たちが、現実世界から消えていった。
「――あれほどの数の悪魔を使役するとはな………」
マインの畏怖の混じった呆れの言葉が背にささる。
厳密には俺が使役していたのは猟犬ぐらいだけど、黙っておこう。俺は静かにグラスを傾けた。
燭台の明かりが、俺の横顔を浮かび上がらせる。
伸びた影が、机に覆いかぶさり、悪魔が潜み、ゆるりと波打つ。
警戒するようなマインの眼差しが強くなる。
………ふっ。このグラス、いいね。傾けるだけで得体の知れないオーラを出せる。
笑みを噛み殺しながら、長机の一席に座り込む。
コツコツ、と部屋の扉が叩かれる。彼女は俺に視線を向ける。
俺は指先を振るい、剣と繋がった泥の結晶に粘性を与え、死角に移動させる。
マインは扉を開き、「なんだ」と尋ねる。
「襲撃が収まりました」
僅かに傷を負った家人が、疲れを顔に滲ませながら、それでも主へと状況を知らせに来た。
マインは己の忠臣に水を与えた後、落ち着いた口調で指示を出す。
「そうか。一度引いただけかもしれん。最低限の警備を残し、被害を確認しろ」
そう言ってマインは一度、ちらりと俺を見る。
俺は裏門の方を指し示す。
「裏門にも人をやれ」
「はっ!」
礼を返し、家人は扉を閉める。
足音が遠くなったのを確認して、俺は再び防音の結界を張る。
「殺したのか」
「いや。暗示をかけて眠らせた」
そうか、と彼女は安堵したように胸をなでおろした。意外と豊満なそれに視線が向かいそうになるのを断ち切って、俺は揶揄うように口角を上げた。
「味方じゃないのに、優しいね」
「同じ帝国派閥の者だ」
俺のからかいを断ち切るように、毅然とした彼女の声が、部屋を貫いた。
「質が低いよ。厳重な警備は見かけだけでしょ」
俺は侵入時から感じていたことを突きつける。屋敷を警備する学院生たちは、どれも弱かった。恐らく特級クラスの生徒は一人もいない。
数としては大人数が派遣されてはいるものの、質が伴っていない。士気も低かった。
そう言うと、彼女は苦みを堪えるように目を伏せた。
それが帝国派閥の現状を物語っていた。
沈黙が横たわる。
ひとつ、ふたつと息を吐く。
そっと、薄く張った氷の膜を割るように、彼女は小さく聞き溢しそうな声で話し始めた。
「……騎士の存在意義とは何だと思う」
それは、問いかけのようでそうではないようだった。
間髪入れずに俺は答えた。
「主君を守ること」
「……お前は正直だな」
今の彼女にとっては、痛みを伴う答えだっただろう。だが俺の答えが分かり切っているように当たり前に受け止めた。
仄かな笑みをこぼしたのは、次の言葉のための助走だったのだろう。
小さく息を吸って、傷を抉るように話し始めた。
「私はそれが出来なかった」
マイン・レットは、教団に敗れ、ミネルヴァ皇女を守り通せなかった。
ミネルヴァは生死すら分からず、マインは生き延びた。
「私が処罰を受けていないのは、実家の威光と、ここが独立都市だからだ。帝国では、私の処刑の話すら持ち上がっているという」
自身の命の話をしているときも、彼女の声は揺るがない。諦めたような笑みだけが夏の夕焼けのように俺の目を焼いた。
俺は、怪訝そうに眉を顰める。彼女の置かれている状況がこんなに悪いとは思わなかった。
もはや貴族とは名ばかりの罪人ではないか。
どうして彼女が帝国派閥の盟主なのか。そんな疑問が俺の表情に浮かんだのか、彼女は答えた。
「無能な騎士にも使い道があるということだ」
自嘲するように笑った後、彼女は帝国派閥の現状を話し始めた。
「帝国派閥には、二つの派閥がある。ひとつが殿下を頂点とした皇族派閥。そして皇族に反発する貴族派閥だ」
その言葉は、すんなりと飲み込めた。
帝国では貴族の締め付けが強くなっていると聞く。権力や利権を削がれている貴族たちが、皇帝に不満を抱くのは当然の反応だろう。
そしてそれは、貴族たちの子や部下であるこの学術都市の学生たちにも影響している。
「貴族派にとったら、盟主を奪うチャンスじゃない?」
俺は疑問を問う。盟主は派閥点を使用する権利を得る。盟主になれば、貴族派閥に有利なように点数を配分することも可能なはずだ。ミネルヴァがいない今は、貴族派にとっては絶好の機会のように思えた。
だが俺の疑問を、マインは間髪入れずに否定した。
「そんなあからさまに、皇族をないがしろにはせん」
彼女が言うには、貴族たちは皇族を疎みながらも恐れている。表向きは恭順を誓っている彼らが、ミネルヴァのいない隙に幸いと暗躍すれば、帝国にも睨まれる。
「だからやつらは、ミネルヴァ様の側近であり、失態を犯した騎士である私を盟主に据えたのだ」
「ああ、そういうことね」
俺は納得の意を込めて、頷く。
要するに、彼女はお飾りの盟主だ。
ミネルヴァ皇女の側近であり、皇族派の公爵家の娘である彼女を盟主にすれば、帝国への恭順を示せる。だがその実態、ミネルヴァを守り切れなかった彼女に従う者は、皇族派閥の中にもほとんどいないだろう。
また、騎士である彼女には政治の機微は分からない。それでいて求心力も無い。
俺でも同じように彼女を盟主に据えるだろう。
「お前は結界を破ったのか?」
「ん?ああ、破ったよ」
そうか、とマインは楽しそうに笑った。
「あの男は貴族派閥が私の見張りのために派遣した結界術師だ。典型的な魔術師で気に食わん奴だった。自慢の結界を破られて逃げ出したというのなら、お前には礼を言わんとな」
俺は屋敷に入る前に検知した、魔術師らしき男の逃げる気配を思い出す。きっとあれが結界の術者だったのだろう。
「屋敷の中にまで、敵対派閥の人間がいるの?」
「ああ。それが今の私の立場だ」
想像以上に厄介な立場にいる。俺はそれに気付き、頭を悩ませる。
俺は彼女を使って帝国派閥のブローチを集めさせて、奪うつもりだった。
だがそれは難しいだろう。少なくとも、一つか二つ、てこ入れがいる。
「お前は、私が殿下を助ける手伝いをすると言ったな」
悩む俺に彼女が確かめるようにそう言った。その表情には緊張が滲み、憂いを含んだ瞳が揺れている。
「ああ。それが俺の雇い主の意向だからね。だけど、今のままなら難しい。君に動かせる学院生もいなければ、派閥への影響力も無いんだから」
彼女は、むっ、と眉根を寄せて、「分かっている」と小さく唸った。
「だが、貴族派閥に接触するのはやめておけ。彼らがミネルヴァ殿下を救うことは無い」
俺の迷いを見透かすような言葉に、どきりと胸が鳴る。
「…………もちろん分かっている。どれだけ不利でも、皇女を救うという意思に確信が持てるのは君だけだ。そして何より、名ばかりだろうが君は盟主だ」
恐らく、勘だけでそう言ったであろう彼女の鋭さに、警戒度を上げながら何でもないように答えた。
「それで、私はどうすればいい!」
マインは身を乗り出し、声音を弾ませる。
その目は希望できらきらと輝き、自分がどんな体勢か忘れているらしい。
腕の間で潰れた二つの柔らかそうな肌色が襟から覗いて目の毒だが、俺は彼女の凛々しく整った顔を見ながら、笑顔を浮かべた。
「それは後で連絡するよ」
俺、そう言うのよくわかんない。帰ってからエリスに聞かないと………!
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