王女とエリス

俺は竜が消えたことを確認した後、エリスイスの元へと降下する。

「大丈夫?」

「はい。傷はありません。それよりも追撃に――」

彼女は剣を構えなおし、麓を睨む。竜が落ちていった麓。彼女は、高位魔術をぶつけ、武技を叩き込み、何千メートルもの高さから叩き落とした程度で竜が深手を負うとは思っていない。

むしろ、自分たちの攻撃は、怒りを買っただけだと気づいている。


「いや、それはたぶん大丈夫」

だがゼノンの声音はとても落ち着いていた。もう全てが終わったと言わんばかりに。

調から、俺たちの戦いは終わりだよ」

どういうこと、と聞くよりも早く、怒りと絶殺を告げる竜の咆哮が遥か下方から鳴り響く。見れば、雲の下から燃え滾る炎煙が沸き上がっている。


溶岩竜の熱が大地を溶かし、冬を殺し、その本領たる劫火を宿し始めているのだろう。その余熱が、火口から湧き上がる黒煙のように変じ、雲を汚染しているのだ。


本来、溶岩竜は、強靭な肉体を持つ竜種の中でも、上位の存在。

今の俺達風情に倒せるような相手ではない。それでも俺たちが何とか撃退できたのは、彼、あるいは彼女が油断していていたからだ。

小さな羽虫二匹と侮り、己の住処も近かったことから、周囲を巻き込むような大規模な攻撃は嫌った。


その結果、人間風情に一杯食わされ、山の頂から叩き落とされた。

もはや竜に油断は無い。加減は無い。ただ、自身に屈辱の泥を付けた二人を殺し、頂へと返り咲く。

プライドの高い溶岩竜はそう考え、己が宿す概念を解き放った。


身に纏う溶岩は粘性と赤みを増し、もはやマグマのような液状へと変わる。周囲の地形は竜の魔力に当てられ、炎を吐き出した。

溶岩竜は翼を広げる。飛び立つために。だがその瞬前で気付く。周囲の異様な静かさに。


竜が落ちた場所。そこは山脈の山と山の狭間。かつて大きな湖が存在した場所だ。

そう、存在した、だ。数多の生命を育んだ水精の湖は凍てつき、停止している。

何十年も前に、が住処としたことで、そこは終わったのだ。


雪が降り積もった遥かなる大地の下、そこには巨大な氷塊が存在する。当時のまま、何も変わらず、泳ぐ魚はヒレを揺らしたまま動きを止め、水草は彫像のように凍っている。

愚かにも迷い込んだ野生生物たちは、魔物かどうかも問わず、領域の外周で凍り付き、不気味な生物の外壁を形成していた。


『氷園の湖』。アリア・アリスティアがそう名付けた領域は、厳冬山脈の頂点捕食者の一体が住まう領域である。

吹雪が吹き荒れた。先ほどまでの穏やかな停滞が嘘のように、吹き荒れる雪氷が湖を取り巻き、不遜にも踏み込んだ溶岩竜へと襲い掛かる。


並の人間であれば、肉が削がれ、凍てつくそれは、攻撃ですらなく、ただの魔力の放出だ。溶岩竜の魔力が大地を活性化させるのに対し、氷の飛竜は天を統べる。


氷凍竜。天より舞い降りたそれは、己の領域で炎をまき散らす竜を睨みつける。

彼女にしてみれば、寝床で微睡んでいたところに、轟音と共に竜が降ってきて、己の領域を荒らし始めたのだ。その怒りは冷気となって顕現した。


対する溶岩竜もまた、突如吹雪を浴びせてきた竜へと怒りの咆哮をぶつける。その灼熱の肉体は、絶下の冷気でも凍てつかず、耐えがたい熱を発し続けている。

不倶戴天の敵同士。ほどなく、彼らはぶつかった。

大地から噴出した溶岩が湖を荒らし、吹雪く冷気が溶岩を冷やし、切り刻む。

その地は容易に地獄へと変じた。


「おー、やってるやってる」

俺は眼下で始まった竜同士の殺し合いを見て、安堵の息をついた。隣にいるエリスイスは顔を引き攣らせているが、これで俺たちは安全だ。

共に厳冬山脈の頂点捕食者である二頭は、とても仲が悪い。遭遇すれば殺し合いになることは分かっていたので、あえて彼女の領域に突き落としたのだ。


もはや溶岩竜には氷凍竜の姿しか映っていないだろうし、ちっぽけな人間二匹のことなんて意識の欠片にもないだろう。後は、彼らが殺し合っている隙に、山を下りるだけだ。


「よし、行こうか!」

問題が消えて俺はとてもハッピーだ。ウキウキ気分で声を掛けると、彼女はなぜかは知らないが、表情を強張らせた。

「どうしたの?」

「いえ、少し疲れてしまったのかもしれません」


まあ、ただ魔術をぶっ放していただけの俺よりも彼女の方が疲れてるか……。

だけど、休憩を取る時間はあまりない。


「竜が戻ってくるかもしれないから、移動しよう。少し遠回りになるけど」

「かまいません。急ぎましょう」

そう言った彼女の顔には、いつもの柔和な笑みが戻っていた。


俺達は、険しい山肌を降りる。ほぼ崖の道だけど、バランス神経と体幹が俺よりもいいエリスイスは魔装術だけで降りれるようだ。


俺はその横を〈飛行フライ〉で下る。彼女も〈飛行〉で運んであげようかと思い、声はかけたけど、「大魔術を使ったゼノン君の負担にはなりたくありませんから」と丁寧に断られた。

別に魔力にはまだまだ余裕があるからいいんだけど。


「いやあ、すごい一撃だったね。物語の英雄のようだったよ」

俺は竜に傷を負わせたエリスの攻撃を思い出す。まるで熟練の騎士のような太刀筋と勇敢な獣人の戦士のような迷いのなさだった。


まあ、どっちも知らないから想像でしかないけれど、全身を使った斬術と魔力放出による足運びからは、確かな流派を感じた。隙の多い一撃を素早い動きで当てる。そんな感じだろうか。きっとあれが騎士の技なのだろう。


「デネス王国は騎士も魔物討伐に参加する国ですから。当然、騎士の技も対魔物のものが多いのですよ」

そういった彼女は少し困ったようにはにかんだ。

自国の剣術を褒められ、悪い気はしないのだろう。だけど少し引っかかるものがある。そんな感じの笑みだ。


確かデネス王国は精強な騎士団を抱える国として有名だ。数ではなく質の国。

その一因は貴族の権力が大きいからだ。権力が大きいということは義務が大きいということ。彼らは領内の治安維持を中央に頼ることなく行う必要があり、結果として優秀なものを騎士として取り上げてきたのだ。

デネス王国の騎士であったのならば、小国で将軍になれる。そんなことが、半ば本気で言われるほど王国では騎士というのは特別なのだ。


「大分降りてきましたね」

「そうだね」

あと半分ぐらいか?そうすれば、エリーゼ半島の外だ。山の中腹から見える景色は、壮大で内臓が浮くような恐怖心が湧き出てくる。

地平に見える森の木々は、白く染まっていて、それでも色落ちした布切れのように緑の葉を覗かせている。


緑爺さんに聞いた話では、エリーゼ半島の外は、夏になれば雪解けし、豊かな自然が顔を出すらしい。

雪景色の終わりを予感させる光景。きっとこの辺りに住む人にとってはなんて事の無い季節の巡りも、年中雪塗れのエリーゼ半島にいた俺からすれば、新鮮でどこか懐かしい。


そういえば、俺の地元の田舎も、緑の多い場所だった。県庁のある辺りに行けば、背の高いビルはあるけれど、少し道を外れれば、山々が濃い土と緑の香りを出していた。

夏近くになれば、色とりどりの花木が咲き、虫の姿を見かけるようになる。そうして耐え難い暑さの訪れにうんざりしていた。


だけどそんな気持ちももう感じることは無いのだろうと思い、少し気分が落ち込む。きっとこれから先も、故郷と似た景色を見るたびに同じことを思い、感傷的になり、やがては慣れて何も思わなくなるのだろう。


「素晴らしい魔術でしたね」

口数の減った俺を慮ってか、エリスが話題をくれた。

「ありがとう。まだまだ修行中だけどね」

俺は少女に気を使わせたことを申し訳なく思いながら、そう返した。


先ほどの戦いは、師匠が見ればまだまだだと苦言を呈しただろう。

師匠なら瞬時に溶岩竜を殺せる魔術を構築できたはずだ。俺の実力はまだまだ師匠には届かない。

それどころか、彼女の配下の大部分にも未だに敵わない。


例えばネネが戦いに参加すれば、すぐに終わっていた。

ネネならば、空間をねじ切り、竜の身体を引き裂くか、地底の底に飛ばして圧殺できたはずだ。

それを思えば、まだまだだ。未だにアリスティア家を継げるだけの力はない。


「あれで修業中ですか……。『外』なら宮廷魔術師として国に召し上げられるほどの腕です」

「そうなんだ……。意外と強いんだね、俺」

師匠以外の魔術師を知らないからその辺りはよくわからない。ついでに宮廷魔術師と言う奴も知らない。……帰ったら一般常識について聞いてみよう。リリエルさんに。


その後も他愛のない会話が続いていく。崖を下りるだけの作業は単調で、何もすることが無いから話をするしかない。

俺はあまり会話が得意な方ではないのだが、エリスイスのおかげで、楽しい時間を過ごせた。


会話が途絶えれば話題を提供し、俺のなんて事の無い会話にも楽しそうに笑って相槌を打ってくれる。うーむ、コミュ強だ。社交辞令で会話をしてくれているだけだと分かっても楽しい。

おかげで会話が弾み、デネス王国の淑女の流行りに詳しくなってしまった。


いよいよ、山の麓に近くなる。もうすぐでエリーゼ半島を抜ける。そうなれば、強力な魔物は少なくなり、彼女一人でも難なく王国へと戻れるだろう。

師匠に任された課題もこれで終わる。初めは面倒なことになったと思っていたが、いざ終わりが近づくと寂寥感を感じる。


何だかんだ楽しかったし、得難い出会いもあった。彼女もそう思ってくれただろうかと少し気になり、横目で彼女を見る。


美しく、整った横顔。まるで女神のようだと、魔術師でありながら吟遊詩人のような感想を抱く。彼女の横顔には、先ほどの朗らかさはなく、何かを思い悩むように、近くなった地面を睨んでいた。

何かを言おうかと何度も唇を動かし、やがては決意の眼差しを向ける。


「今から少し、いえ、かなり失礼で貴方の気に障るかもしれないことを聞きますが、どうか答えてほしい」

彼女は立ち止まり、そう言った。碧眼は真っ直ぐに俺の瞳を捉え、誠実を願う。

今から問われることが、俺と彼女の関係を否が応でも変えるのだと直感する。


「分かったよ」

彼女は最後に大きく息を吸い、吐き出した。まるで変わる何かを惜しむように、それを先延ばしにするように俺には見えた。


「……これは、私としてではなく、デネス王国第一王女エリスイス・エスティアナとして問います。貴方はその力で何をするつもりですか」

問いかけるその瞳には、王の如き威光が宿っていた。嘘は許さないと、鋭い眼差しが俺を射抜く。そこには先ほどのような親しみや仲間意識は微塵も無い。


「……やりたいこと、か。当然、魔術の研究だよ」

彼女の急変に少し面食らいながらも、迷わず答える。それは変わらない。初めて魔術を使ったあの日から、俺はこの外法に魅了された。きっと生涯、魔術のために生きていく。


元の世界への未練はあるけれど、今はそれよりも至りたいのだ。原初の魔術師たちが追い求めた悲願へと。

その思いは、魔術を学んでいく中で強くなり、今となっては俺と言う魔術師を構築する核となった。あの時、迷っていた少年はもういない。


「それほどの力を持っているのに?」

エリスイスは怪訝な顔で疑念をぶつける。半目で睨みつける顔も陰があって美しい。


「力は結果だ。魔術は過程だよ。知らぬことを知り、好奇心と知識欲を満たしたいのさ」

そしてその先にこそ、神へと至る道がある。

効率主義のきらいがある彼女には理解できない話かもしれない。その証拠に視線を下げ、口元をしなやかな繊手でいじっている。彼女が悩むときにする仕草だ。


「真理の奴隷ですか。もし、魔術の探求のため、大量虐殺が必要になればするのですか?人の皮を剝ぎ、女を犯し、他者の財を奪わなければならないとすれば、貴方はするのですか?」


荒唐無稽な仮定、とは言えない。悪魔術、死霊術、呪術、魔女術などの禁術指定されているものなら、それらの行為が必要になる。


俺は迷うのか。魔術の探求に悪しき行為が必要となり、数多の命を喰らうことになったとき、俺はどうするのか。


真理の奴隷。彼女が突いた俺の本質。言い得て妙だが、確かにその通りだ。そう言われても納得してしまうことが、彼女の言葉を肯定している。


(いや、悩んでいる振りなどやめろ、ゼノン・アリスティア。悩む時点で答えは出ている)


そう、答えは出ている。差し迫っての問題は、彼女の疑念に正直に答えるかどうかだ。もし、すると言えば彼女は俺の敵になるのだろうか。それは嫌だけど、ウソはつけなさそうだ。


「するだろうね」

「その結果、数多の人、集団、組織、国から狙われるとしても?」

彼女はそれを予想していたように間髪入れずに問うた。


「その全てをねじ伏せ、魔術師であり続けるのがアリスティアだ」

「……そう、ですか」

アリスティアは魔術師の家系。どこにも属さぬその在り方は、例えすべてを犠牲にしても悲願へと至るという初代の意志。

それを継ぐ俺も、先達と同じように生きるだろう。


「この旅は楽しいものでした。正直に言えば、最初は貴方を殺すつもりでしたが、それを忘れてしまうぐらい、楽しかった……」

えぇ……。やっぱり水浴びを覗いたことを根に持ってた。怖いよ、王女様。


「貴方は悪人には見えませんでした。それどころか私を助け、気にかけてくれた。貴方は善人です。それなのに、魔術師として生きるのですか?多くの人に憎まれる魔術師アリスティアに?」

懇願にも似た響きは彼女を年相応にあどけなく見せる。彼女はいったい俺に何を求めているのだろうか。俺には分からない。


「そうだね。きっと、魔術師と人は別なんだよ。人としてはいい人も、魔術師になれば善悪は分からなくなる」

それほど焦がれるものだ。きっと、真理の探究の中で、己が善性に気づき、耐え切れずに道を外れる者もいるだろう。だけど俺は違うと分かる。

師匠はそれに気付いていたから、俺を弟子にして育てているのだろう。


だからきっと、彼女の望む何かにはなれない。俺は一生、この半島で悲願を欲し続ける。それだけはもう決まっている。


彼女の問いは途絶えた。だから今度は俺が疑問を投げる。

「どうして君は少し嬉しそうなんだ?」

彼女がびくりと体を震わせる。それは恐怖ではなく、驚きから生じたものだった。

俺が悪行を成す魔術になるのも厭わないと告げた時、彼女は間違いなく悲しみ憂いていた。だけど、変わらずその瞳には別の色が宿っていた。

俺にはそれが希望に見えた。


「…………」

彼女は答えない。だけど俺は知りたいからさらに重ねて問う。

「どういう沈黙かは分からないけど、君は王女を辞めたいんだろ?だから、俺に国を滅ぼして欲しいの?」

彼女は口を開こうとして閉じた。まるで胸中の感情を表す言葉が思いつかないみたいに。


「見当違いの解釈ですよ。王女の身分は息苦しいこともありますが、それでも恵まれています。私はそれに満足していますし、やめようとは思っていません」

やがて彼女の発した言葉はきれいで美しいいつもの言葉だった。

王女としての模範解答でエリスイスとしての虚飾の仮面だ。


「………何か言ってください、ゼノン君。まるで、私が道化みたい」

言葉を返さない俺に、彼女は困ったようにくすりと笑った。だけどやがて耐え兼ねたように、頭を振って天を仰ぐ。そして何かを諦めた。


「……私にも愛している家族はいます。国が滅んで欲しいなど、思ってはいません。ただ、仕方のない理不尽で、どうしようもない天災が国を襲い、私にはどうしようもない理由で自由が手に入るなら。そんな想像をしてしまっただけです」


懺悔するように首を垂れる。流れ落ちた金糸の髪がヴェールのように顔を覆いその表情は窺い知れない。ただその震える肩からは、罪深い妄想を悔いているように思えた。


初めて聞いた彼女の本音。それほどまでに焦がれる。聡明な王女の仮面でも抑えきれないほど渇望している。俺も彼女も、同じものが欲しいのだ。権力よりも金よりも武力よりも得難いものを。


「それなら、世界征服をしたらいい」

「…………はい?」


エリスイスは、突然飛躍した俺の言葉に、意味が分からないとばかりに弱弱しく視線を上げる。俺は彼女の子どもっぽいその仕草につい笑みが零れた。


「誰も君を邪魔しない世界を作れば自由だよ」


それは頭のどこかで考えていたことだ。

この世界は歪んでいる。

この世界に来て、全てを見たわけではないけれど、世界の法則を捻じ曲げる魔術師が我が物顔で大陸の一角を占領し、魔物という人類を超越した災害が常に隣にいる。

今のところそれは、俺という魔術師の雛を守っているけれど、この『理不尽』は永遠ではない。


今現在、最強の魔術師は俺の師匠、アリア・アリスティアであり、その力は世界最大の霊地を占領することを大国にも認めさせている。

だがそれは、遠い将来、遥か未来でもそうなのだろうか。『アリスティア』は最強の代名詞のままでいられるのだろうか。その可能性は、低いだろう。


これは悲観的な可能性の話ではない。

いずれ人は魔物という脅威を克服し、魔術という技術は民衆の元へと降りてくる。

その先に何が待つのか。元の世界を生きた俺は知っている。

人は、僅か数百年ですさまじい速度で文明を発達させ、痛ましい『力』へと至ることは俺の世界が立証した。その時が来れば、個人の武力で生き続けるのは不可能になる。


きっと俺はこの世界で誰よりも、人間の力を恐れているのだろう。

だからこそ、全てを支配したいと望む。文明も発展も技術も強者も、全てを知り、無害化したい。その先にこそ、永遠の探求が待っている。

きっと師匠が聞けば臆病だと笑うだろうが、それが俺の望む世界だ。

今の世界は、俺が数百年、千年、魔術を探究するには発展し過ぎていて、神話の時代の夜明け間際に見えるのだ。


「……そんなこと、出来るわけないでしょう。馬鹿ですね。世界征服なんて不可能ですし、しても面倒な雑務に煩わされるに決まっています。本当に愚かです。これだから能天気な子供は嫌いです」


そんな俺の理想は、めちゃくちゃ馬鹿にされた。あれは完全に地面を這う虫を見る目だ。吹雪よりも冷たい声が俺の心を締め付けた。こんなことなら言わなきゃよかったよ……。


「俺はいつかしようと思ってるんだけど。世界征服。そしたら自由に魔術を研究できるでしょ?」

エリスイスは額に手を当て、ふるふると頭を振った。


彼女は思う。例え強力な魔術が使えようと世界には届かない。この世界は武力で征服できるほど狭くも無ければ、弱くも無い。彼の願望はただの妄想だ。


……だけど、もしも彼があの『宝石の魔女』ほどの力と配下を持ち、エリーゼ半島の資源を使えば、世界に届くかもしれません。


それに思い至ったとき、彼女は大きく体を震わせた。天啓を受けた聖女のように暗闇を覗き込んだ子どものように。


顔を見られないように俯き歯を食いしばる。身体の内側から溢れ出さないように。この醜い言葉が形にならないように。


――羨ましい


天に愛されたと言われる美貌も天賦の才も、この身に宿る王家の血筋と権力を使っても決してそれには届かない。だけど、彼は違う。


その身に宿した魔術の才と生まれた家の力を使って届きうるのだ。そしてそれを口にする。言葉にできてしまう。私は出来ないのに。私には、出来ないのに!


――妬ましい


それは、エリスイス・エスティアナが初めて感じた嫉妬と羨望の感情だった。


「そうだ!俺が世界を征服したら、君も自由にしてあげるよ。ほら、王族が権力を持ってると管理する側にとっては面倒だし」

だからきっと、彼女はこの言葉を生涯忘れないだろう。


「……本当に?」

彼女は顔を上げ、ゼノンの顔を見る。まるで迷子の子供だ。


その表情には様々な感情が入り乱れ、大粒の碧眼から涙が零れ落ちようとしている。

嫉妬、怒り、悲しみ、諦め、不安、そして全てを塗りつぶすほどの歓喜。


「え?うん。でもあんまり頭良くないから手伝ってくれると助かるな」

きょとんとした顔はすぐに笑顔へと変わった。昏く妖艶に輝く底知れぬ笑みに。


「ええ。ゼノン君は抜けてますから。私が世界を取らせてあげます」

ああ、見つけた。私を殺す劇毒を。


□□□


「あれ、君の迎えでしょ?」

遠くの空で宙を舞うペガサスを見つけた。その上には全身鎧に身に纏った騎士が乗っている。数は五騎。いずれも彼女を助けるために来た騎士たちだろう。


「天空騎士団です。獣人領を抜け、妖精人エルフの森を通過して来たのでしょう。無茶をしますね」

彼女の迎えだというのに、興味無さそうに呟く。その顔は少し不機嫌そうだ。


「もう少し遅くてもよかったのですが。そしたらゼノン様のお世話をできたのに……」

残念そうにエリスイスはゼノンの髪に付いた雪の結晶を取る。そして前髪を指先で直す。彼女は昨日からこんな感じだ。

せっかく仲良くなったのに呼び方は様付けに戻っちゃったし、身の回りの世話を焼こうとしてくる。ちょっと怖い。


「いや、大丈夫だよ。用があればそれで言ってね」

俺は彼女に渡した銀の首飾りを指さす。それは通信用の魔具だ。国に帰っても彼女と連絡が取れるように渡した。

そう、彼女は栄えある次期アリスティア家の参謀となったのだっ!大国のパーフェクト王女様が参謀と言うのはなかなかいいんじゃないか?

これで一歩、平穏な魔術師ライフに近づいた。


「はい。何かあればいつでもご連絡を」

彼女は恭しく頭を下げる。こんなとこ、騎士たちに見られたら斬首ものだ。

ばいばい、と軽く手を振ると、彼女はペガサスの騎士たちの元へと駆けて行った。

それにしても彼女、本当に俺の『安全な世界改革』に協力してくれるのかな?

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