第8話

 越後の寒さは想定外であった。江戸城ほどの巨大な壮観さには及ばずとも、要塞のような高田城の天守閣にはまだ雪が確りと残っている。蒼天を背に天守閣を包む白い雪に、服部半蔵は崇高な冷気を感じた。何かが宿っているような景色だ。そしてそれは、城主の松平忠輝や、その舅の伊達政宗でも、ましてや大御所の徳川家康の何かではない、現世の人間ではなく死者の霊である。恐らくは上杉謙信の。


 戦国の世に毘沙門天と畏怖された上杉謙信の居城、春日山城は既に廃城となり、関東管領の名門でもあったその上杉家は景勝の代に太閤の豊臣秀吉の要請で越後から会津へ国替えになった。この国替えは死期を悟った秀吉が家康を牽制する為に、江戸の背後の会津に上杉家を配したと云われている。事実、秀吉の死後、天下は風雲急を告げ、豊臣秀頼の後見人でもあった五大老の前田利家が亡くなると、ついに東軍と西軍が全国各地で入り乱れて戦う関ヶ原の役が勃発した。その時、半蔵は鉄砲隊を率いて黒羽城に籠り、会津とは目と鼻の先の下野で、西軍の上杉景勝の軍勢を迎え撃った。


 黒い軍旗を翻す上杉軍は兵数では劣勢でも不可解な凄みを放っていた。この時、半蔵は自らが属する東軍の勝利を信じて疑わなかった。それは太陽が東の空から昇って西の空へ沈み、水が高い所から低い所へ流れ落ちるほどの至極当然な摂理に思えた。この為、黒羽城に迫ってきた上杉軍には、勝ち馬に乗ろうとしない愚直さまで感じられたが、実はそれこそが謙信以来の軍法なのかもしれなかった。されど上杉景勝は上杉謙信ではない。同じ五大老の一人ではあっても、所詮は筆頭格の徳川家康とは格が違う。謙信の光背効果が無ければ景勝は凡将に過ぎぬ。そして本格的な戦闘にはならなかったものの、出羽で最上と伊達の連合軍とも打つかる二方面作戦を強いられた上杉軍には要領の悪さも目立った。


 そして若かった半蔵はそこを見縊っていた。旗色の悪くなった敵の撤退に安堵した途端、その油断の隙を突くように一本の矢が放物線を描いて城内に飛び込んできた。瞬間的に頬を掠めた矢は背後の柱に突き刺さり、半蔵は一瞬ではあっても背筋が凍りつくほどに戦慄した。指揮する鉄砲隊は騒めきながら下界を見下ろし、時間を遡ろうと矢が射られた始点を血眼になって探したが、何処にもその形跡は見当たらない。城を囲んでいた上杉の軍勢は潮が引くように遠ざかっていく。これを好機とばかりに、城門を開き敵の背後に襲い掛かれば、敵は大崩れするかもしれなかった。しかしそれは許されぬことだ。東軍の総大将徳川家康は、関ヶ原へ向かう本隊と分離したこの戦線には守勢を厳命している。半蔵は防いで動かぬことを今一度肝に銘じた。


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