8 追憶(2)
予兆はあった。これまでは二人三脚のように何かあれば俺に相談をしていた彼女が、俺に仕事の悩みや愚痴をこぼさなくなった。それと時期を同じくして、少しずつだが彼女に記事の執筆が任されることが増えていたから、単に情報の漏洩を危惧してのことだろうと、当時の俺は彼女の変化をさほど重大には考えてはいなかった。
メキメキと腕を上げて夢に近づいていく彼女の傍ら、俺は相変わらず使いっ走りに明け暮れていた。けれども、先輩の使いっ走りで報酬を得て、帰宅してからは趣味の小説を書く、その生活にそこそこの充足感は感じていた。
「たっだいま〜」
「おかえり、ご飯出来てるよ」
カレイの煮付けと小松菜のおひたし。帰りの遅い彼女の胃にも優しい純和食。帰宅時間がまちまちになってきた最近は特に、出来たてでも時間が経ってからでもどちらでも美味しいと言う理由で和食を作る機会が増えていた。それはすなわち、彼女と二人で食卓を囲むことが減っていたと言うこと。
「隆ちゃん明日一限あるでしょ?先寝てていいよ」
「んじゃあ、お言葉に甘えて。おやすみ」
「おやすみ〜!」
パタンと原稿を開いたままのノートパソコンを閉じ、寝室へと向かう。時間は午後十一時半。ふわぁと小さくあくびをしながら彼女の方を振り返る。食卓にたった一人残された彼女が、冷めた食事の前で手を合わせていた。以前に比べて二人の間の会話は減っていたけれど、社会人になるということはそういうことなんだろう。別段すれ違いがあるわけでもない、ただ生活スタイルが合わなくなっただけで、彼女の態度は何も変わらない。その事実に、多分俺は安心しきっていたんだと思う。
唐突に、手元の携帯電話がジャカジャカと騒がしい電子音を奏でる。流行っていると彼女が教えてくれた、どこかのバンドの恋愛ソング。メールの内容は、以前受けた社名も業務も大して印象に残っていない会社からの内定の連絡。そのメールの一つ下、嫌な予感から未開封のままになっている実父からのメールは、相変わらず見て見ぬふりをしたまま携帯を閉じた。
♢♢♢
「しばらく帰れない、ごめんね」
彼女からのメールだった。最近はめっきり会話も減っていて、毎日いつ帰っているのかもわからないようなレベル。毎朝食器棚に綺麗に片付けられている食器だけが、彼女の帰宅を暗示していた。
大学卒業後、俺は内定を取っていた食品工場への就職を決め、彼女も彼女でバイトとして入っていた出版社にそのまま就職という形になった。お互い忙しいとはいえ毎日夜には家にいた大学時代とは違って、俺が早朝からの勤務なこともあり、ライフスタイルのまるっきり違う俺たちが家の中で顔を合わせることはほとんど無くなってしまった。
ピーっと音を鳴らすヤカンから、沸騰したてのお湯をカップの中へと勢いよく注ぎ込む。家の中には、食品ロス削減を名目に押し付けられた、食べきれないほどの数のカップ麺。もう長らく普通の食事は摂っていない。塩分とカロリーの摂りすぎでだらしなくたるんだお腹と開ききった毛穴。彼女からのメールを眺める俺の姿は、周囲から見ればどう映っているのだろうか。
「冷蔵庫の中身、どうしよ」
一番に頭の中に浮かんだ事は、彼女自身のことではなく、毎日彼女のためだけに作っていた晩御飯の材料のことだった。
かけていたタイマーの電子音を聞きながら、カップ麺の蓋を開ける。一人で使うには少々広すぎる部屋の中に、ミルキーなシーフードの香りがふわりと広がる。
「いただきます」
手を合わせ、小さく呟く。食材への感謝だとか、そんな事を考えるほど信心深いわけではない。ただ、それが癖になっているだけ。俺の作ったご飯を食べる時に、彼女がいつもそうしていたように。
ずるずると音を立てながらカップ麺を胃の中へとおさめると、急激に眠気が襲ってきた。どんどん重たくなる瞼の奥の瞳でテーブルの上のカップ麺を眺める。
「明日は何ゴミだっけ」
僅かだけ残った理性でそんな事を考えながら、俺はその場に倒れ込み眠りに落ちた。
♢♢♢
遠くに聞こえるのは耳慣れない規則的な電子音。うっすらと目を開ければ、窓から差し込む朝日で部屋はほんのりと明るかった。眠りを妨げる音の主は、長らく使われておらず、もはや置物と化していた固定電話。寝ぼけ眼で取った受話器の奥、その第一声を聞いた瞬間、相手の番号をちゃんと確認しなかったことを心底後悔した。
「急にどうしたの?母さん」
電話の相手は、何年も連絡を絶っていたはずの実母。要件は殊の外シンプルだった。父が死んだ。法事くらい帰ってこい。
「やっと死んでくれた」
飾らない、俺の本音だった。力もなければ人脈も無い。そんな落ち目の家系にも関わらず、父だけは自分の血を後世に残すことに拘り続けた。普通の人間として生きたい俺を無視して、俺を次の当主に祀り上げようとしていた。だから家を出た。その父が死んだ。
丁度いい機会だと思った。大学も卒業して、目指していた夢も潰えた。工場勤務なんてここじゃなくてもできる。唯一俺を縛り付けていた彼女とも長らく顔を合わせていない上に、しばらくうちには帰らないらしい。もう俺が、この部屋にこだわる理由はほとんど無い。
「帰るか」
口に出すと、なんだかスッキリした気がした。母の電話が切れた直後、そのまま職場に電話をかけた。父が死んだので母の手伝いをしたいと、適当な理由をつけて長期の休みを貰った。退職しなかったのは、ただの保険だ。気持ちが固まったらこのまま辞めてしまおう。
クローゼットの奥からスーツケースを取り出す。ほんの数回しか使っていないそれは、傷こそ少ないが長く使っていなかったせいで随分と埃を被っていた。タンスから適当に取り出した数日分の服を乱雑に詰め込む。足りない分は向こうで買えばいい。
「法事があるので実家に帰ります。食事はカップ麺がたくさんあるので適当に食べてください」
いつ帰るかもわからない彼女に宛てた置き手紙をテーブルの上に置き、俺はキャリーケースを転がして玄関へと向かう。瞬間、走馬灯のように蘇るのは彼女の笑顔と暖かい毎日。もう戻ってくる事はないかもしれないと、後ろ髪を引かれる思いで振り返る。そこにあるのは、あの頃の面影を感じない淋しげな冷たい部屋。あの暖かい生活はもうどこにもないのだと、乾いた笑いと共に、僅かだけ残っていた未練もどこかへ消えていった。
♢♢♢
当主が亡くなったという割には、葬儀は思いの外あっさりとしていた。後を継がずに家を出た長男の俺には居心地の悪いものかと思っていたが、結構みんな色んな場所で好き勝手やっているらしい。
「あの人と一緒に燃やしてしまえば良かった」
家の片付けをしている時、父が大事にしていた家系図を見ながら、冗談混じりにそう言った母の声が耳から離れない。
『俺たちのご先祖さまはあの火撫様なんだぞ』
何世代も前の遠い祖先の名前を指さしながら、父はいつもそう言っていた。
今思えば、力も地位ももう何も残っていないこの家で、唯一残ったこの家系図だけが、魔術師への憧れを捨てきれない父の思いを支えていたのだろう。
親族での話し合いの結果、父の住んでいた屋敷も取り壊すことが決まった。俺だけがそうなのだと勘違いしていたけれど、みんな心の奥底では、血筋に囚われずに普通に生きたかったらしい。
魔術師としての俺の家系は、今この時を持って途絶えたのだ。
♢♢♢
葬儀の後処理や、母の新居探しと引越しの手伝いで、なんだかんだ色々と忙しくしているうちに、気が付いたら家を出てから一月程は経っていた。買ったばかりのテレビの接続を終え、まだダンボールがいくつか積まれたままの部屋の中でテレビの電源を入れる。
ワイドショーの一面を飾るのはどこの局も同じニュース。槍玉に挙げられている名前を見て背筋が凍る。
『桂田隆彦』
彼女が使っているペンネームだった。
どくり、と心臓が大きく音を立てる。どくどくと血液を送り出す大きな音に反して、身体の中をうまく血液が巡らない。どこかに栓でもされているかのように、全身から血の気が引いて手足の先から冷たくなっていく。
彼女に連絡を取らなければ。停止する思考から次にすべき事を捻り出しスマホをつかみ上げようとするが、うまく指先に力が入らない。カタカタと何度も机の上に落としながらようやく手のひらの中にスマホを収めると、依然冷たく震え続ける指先で彼女の連絡先をタップする。
耳元で発信音が流れ始めるのとほとんど同時に、俺は部屋を飛び出していた。帰らなければ。彼女に会わなければ。肺の浅いところでヒューヒューと音を立てて呼吸をしながら無我夢中で走る俺の耳元で、無機質な機械音声が非情な事実を告げる。
『おかけになった電話番号は現在使われておりません』
それからどれだけの時間が経ったかわからない。必死の思いで家に辿り着くと、ドアの前に見覚えのある人影。
「君は……」
ぼそりと人影が呟く。少々記憶の中の姿よりも歳を取ってはいるが、それが誰なのかはすぐにわかった。
「先輩……?」
出版社でバイトをしていた頃、俺が使いっ走りをさせられていた上司だった。
♢♢♢
久しぶりに帰る我が家は、あの日俺が出て行った時と何も変わらない。俺が置いてきた置き手紙も机の上にそのままになっていた。
「汚ないですが、どうぞ」
部屋の前で会った元上司を招き入れ、部屋の鍵とチェーンロックをかける。歩く度に舞い上がる埃を手の甲で払いながら進み、以前は彼女と並んで囲んでいた食卓に2人で腰掛ける。
話を切り出そうとする俺を制止するように、彼は鞄から数冊の雑誌を取り出した。
「これには彼女が書いた記事、こっちにはその記事を後追いする記事が載っている。多分、僕が説明するよりもその目で見た方が早い」
「あ、ありがとうございます……」
「その記事を出す前後、彼女がよく会っていた情報屋が居た。恐らくはそいつに嵌められた形だろう。
「嵌められた?」
「それも、読めばわかる」
それだけ言って、彼はそそくさと部屋を出ようとしてしまう。
「本当は彼女に会いに来たんだが、家にも帰っていないならお手上げだな。彼女に会えたら伝えてくれ、編集部は君が戻るのを待っていると」
「はい、必ず」
先輩を見送った後、1人残された部屋の中で彼の置いていった雑誌の表紙を睨み付ける。ページを開こうと手を伸ばすが、中身を知るのが怖いと言う気持ちが邪魔をする。手のひらで表紙を撫でる俺の耳元で、まるで耳のすぐ近くで鳴っているかのように、心臓が大きく規則的な音を奏でている。
『真実を知りたくはないのか?』
問いかけてきたのは、俺の声。ドクリ、ドクリと脈打つ心拍音の間を縫う様に、それははっきりと俺の耳に届く。
「もちろん、知りたいさ」
誰も居ない部屋、まるで自分に言い聞かせるようにそう声に出して言いながら、ゆっくりと瞬きをする。視線を移すと、自分が置いてきたはずの置き手紙に誰かが触れた形跡があることに気がついた。一瞬、息をすることすら忘れて置き手紙に手を伸ばす。恐る恐るめくった裏面に、崩れつつも読みやすい見知った丸文字。書かれていたのは、たった一言。
「ごめんね」
俺は、彼女がもうこの家に帰るつもりがないのだと、そのたった一言で理解した。と同時に、それまで躊躇していた自分が馬鹿らしく見えてくる。小さく息を吐き、テーブルに腰掛ける。上司に渡された雑誌の表紙、桂田隆彦の文字を指でなぞると、俺はページを捲る指に力を込めた。
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