9 顛末

 とある女医による特効薬の発見、彼女が誌面に載せたのはその研究結果に疑問を呈すもの。彼女の記事を皮切りに、それまで世紀の大発見だの美人女医だのと持て囃していた民衆は掌を返し、世間はその女医へのバッシング一色になった。そのバッシングムードが最高潮に高まった頃に、今度は彼女の記事の方が出鱈目であると、いくつかの雑誌が同時に彼女を糾弾した。信憑性のない記事を世に出したことで、記者として彼女が築いてきた信頼が一気に崩れ落ちた。

 一瞬で理解した。他のいくつかの雑誌を売るために、彼女と彼女の記事は踏み台にされたのだと。恐らく件の情報屋は何人かのライターに同じ情報を売った。彼女だけが、その情報を鵜呑みにしたのだ。経験不足からか、彼女なりの焦りからかは本人にしかわからない。

 雑誌を閉じ、もう鳴るはずのない携帯電話を眺める。俺の内に湧き上がってきたのは、何もしてやれなかったという後悔と罪悪感、そして、彼女にそんな重荷を背負わせた人物に対する復讐心。それがただの自己満足だということは多分わかっていた。それでも俺は、生まれてはじめて、心の底から「やりたい」と思える何かに出会えたのだ。携帯電話を手に取り電話帳を開く。ライターのバイトを辞めて以来何の整理もしていない携帯だ、データはしっかりとその中にあった。


 「今、ライター探してたりしますか?」


 先ほど家を後にした元上司の携帯電話。俺の声を聞いて、電話越しにフッとため息にも似た笑い声が漏れるのが聞こえた。


 「桂田くんが抜けた穴があるからな、求められるのは彼女と同程度の記事だが」

 「ええ、やりますよ。彼女の文体は誰よりも知っている」


 第一目標は、情報屋との接触。今のところ何の手掛かりもない相手だ、闇雲に探し出すよりも誘い出す方が早い。だから俺は……。


 「今日から俺が、桂田隆彦です」


 彼女の被った業諸共、曰く付きのその名前を引き継いだ。



♢♢♢



 「そこからは知っての通りだ。桂田隆彦としてある程度名前を売った後、村重の接触を煽るためにフリーになって色んな雑誌に記事を売り込んだ。村重も警戒していたのか、接触してくるまでは数年かかったけどな」


 そう言って桂田は乾いた笑いを漏らす。


 「村重は俺の顔を見た瞬間すぐに俺の目的に気がついたよ。そりゃそうだ、あいつの知ってる桂田隆彦は彼女の方で、女だったんだからよ。これ以上彼女の名誉を傷つけたくないなら黙っていろと、厚かましくも俺に脅しをかけてきたよ。実際、あいつの情報操作の腕は大したものだ。あれだけ世間を騒がせて、彼女から職を奪ったあのニュースが、今じゃすっかり忘れ去られてるんだからな」


 カハハ、と諦観にも似た乾いた笑い。その顔に浮かぶのは愉快とは正反対の作り笑顔で、その明るい笑い声とは裏腹に周囲の空気を曇らせる。


 「だから殺したと?」


 そう問いかけたのは、それまで黙って聞いていた樹だ。その声には憐憫も侮蔑もなく、ただ淡々と事実を確認するような、一周回って冷酷さすら感じる声だった。


 「いいや、会った時にはもう殺すことは決めていた。同情する必要なんかない、誘うつもりもないからな」

 「では、桂田隆彦として記者をしていた時間も、全て復讐のための道程だったと?」

 「ん?ああ……、そうだ、そうだな。そういうことに、なってしまうのかな」


 一瞬、虚を突かれたかのように言い淀んだ桂田の態度をレガリアは見逃さなかった。


 「楽しかったかい?復讐は」


 レガリアの言葉の中にあるものは、このネットカフェに入ってきた瞬間と何も変わらない。彼の中にあるのは人間と謎に対する好奇心。純粋な好奇心のみで構成された言葉だからこそ、その言葉には一欠片でさえ嫌味はなく、桂田の胸にまっすぐに届いていく。


 「ああ、楽しかったんだ、多分。今まで生きていた中で、これほど生きている価値と目的を明確に感じていた時間はなかった。バイト時代にはあれ程行き詰まっていたのに、復讐を決めた瞬間どんどん書くべき記事が浮かんできた。彼女のためだなんて本当は建前で、俺はただ、なにか生きる理由が欲しかったのかもしれない」

 「いいや、それは本心だろ」


 口を挟んだのは肇。


 「村重に対する怒りと、お前が彼女の話をする時の穏やかな心音はホンモノだよ。大事だったんだな、彼女のこと」


 一瞬、困惑したように桂田の表情が強張る。そして次の瞬間、その頬には一筋の涙。今まで一貫してクールに振る舞っていた肇の、思いがけずに優しい言葉。その温かく優しい言葉に、限界ギリギリで堰き止められていた桂田の涙腺が決壊する。


 「こんなことをして許されようだなんて、そんなふうに思ってたわけじゃない……、それでも、こうでもしないと俺は……っ、彼女の話をちゃんと聞いてやれなかった俺自身を許せなかったんだ……っ!」


 絞り出すように慟哭する桂田の丸い背中を、彼らはただ黙って見つめていた。



♢♢♢



 「意外だね」


 目を細め意地悪そうに口角を上げながら、レガリアはそう言った。


 「何が言いたい?」


 問われた肇が不機嫌そうにそう返す。魔捜の本隊の到着と共に、桂田の身柄は拘束され、現場の検証と事後処理をするからと現場を追い出された二人は、元居た肇の個室へと帰ってきていた。


 「というか、用は済んだんだろ。いい加減帰ってくれ」


 そう言いながら肇がレガリアに向かってブランケットを投げつける。


 「わお、いつにも増して不機嫌だね。そんなに悔しいかい?」

 「気になるなら読んでみろよ、得意技なんだろ」

 

 刺々しい口調でそう言うと、肇は自身の胸の辺りに親指を立てトントンと叩く。


 「僕は知らないものは読めないんだ。今君の中で行ったり来たりぐるぐると渦巻いているものを、僕は知らない。だから聞かせてくれと言っているんだ」


 まるで子供のように無邪気な好奇心。悪意の無いレガリアの言葉は、肇の感情を逆撫でする。


 「この程度もわからずに自分が人間だなんてよく言ったものだ」


 わざと強い言葉を選んだ。ヒトに憧れるレガリアにとって、おそらく一番言われたくないであろうセリフ。


 「ほう、今のは知ってるよ。苛立ち、そして軽蔑。僕に対するそれらの発散のために、わざと煽る様な言い方をしたんだね。うん、やはり君を見ているのは飽きないよ」


 肇の顔を覗き込みながらレガリアは興味深そうに頷く。その様子に、肇の表情に浮かぶのは明確な敵意。


 「今のは悪かった。怒らせるつもりはなかったんだ。けど、今日はこれ以上絡むのはお互いにとって良くなさそうだ。僕は君が好きだが、これ以上その口汚い言葉で罵られたら、さすがの僕も冷静でいられる自信はない」


 表情はにこやかだが、目はうまく笑えていない。レガリアのポーカーフェイスが崩れていく。


 「またね、肇ちゃん。今度は機嫌の良さそうな時に会いに来るよ」


 扉に指をかけ、個室を後にする。肇からの返事は無い。代わりに扉が閉まった瞬間ガチャリと鍵が閉まる音。

 正直なところ、レガリアには肇があそこまで怒った理由はよくわからない。レガリアにとって、他人の不幸は見て知って楽しむものであり、共感して憐れむ気持ちはいまいち理解の及ばないもので、肇に言わせればそういう所こそが、彼がヒトに憧れただけのただの悪魔である所以なのだろう。

 好奇心、探究心。それこそがレガリアを突き動かす。ヒトの感情ほど、彼の知的好奇心を満たすものはない。ヒトとヒトがぶつかり合う瞬間、事件の匂いを感じたならば、きっとそこに彼は現れる。

 明るい鼻歌を奏でながら、薄暗いネットカフェの廊下を歩く。やはり、人間は面白い。



♢♢♢



 全身が重い。一歩踏み出すごとに、手首にかかった手錠がカチャリ、カチャリと不愉快な音を鳴らす。

 もっと晴れやかな気分になるのだと思っていた。数年間、そのことだけを考えて生きてきた。やっとの思いで本懐を遂げたにも関わらず、辿り着いた場所は依然闇のままだった。餓死寸前で辿り着いた山中の食堂に「本日休業」の看板がかかっていた時のような、真っ暗な洞窟の先にあった小さな光が、出口から差す日の光ではなく、誰かが置いた豆電球だったことを知ってしまった瞬間のような、そんな憂いが自身の胸の中を満たす。


 「なら、やらなければよかったか?」

 「いいや、それは違う」


 浮かび上がる問いを自ら否定する。それを肯定する事は、自身の生き方を否定する事になってしまうから。それだけは認めてはいけない。自身のした事は正しかったと、せめて自分だけは信じてあげなければ、すでにペシャンコになっている心が壊れてしまいそうだったから。


 「では、乗ってください」


 視界の端を、赤い光が流れていく。考え込んでいるうちに、どうやらパトカーの前まで連れられていたらしい。ぼんやりとした思考と視界で、言われるがままに乗り込もうとした瞬間だった。


 「りゅうちゃん!」


 懐かしい声がして、一気に現実に引き戻される。耳をつんざくのは、けたたましいパトカーのサイレンと、ガヤガヤとした野次馬の声、そして時折聞こえるシャッター音。ピンボケした視界の中で、そこだけがやけにハッキリと目に映る。人垣を掻き分けるように、身を乗り出して叫ぶ女性の姿。忘れない、忘れられるはずがない。

 全身を覆っていた鉛のような重さが消え、胸がスッと軽くなる。髪は少し長くなっているが、それ以外は記憶の中の彼女のまま。暗闇の袋小路に光が差したかのように、視界が一気に明るくなる。視線を上げれば、赤みの強い陽光が周囲を照らしている。もうそんな時間なのかと、それを見て初めて気が付いた。

 

 「もう大丈夫だぞ」


 口をついた言葉はそれだった。まるで脊椎から直接声が出たかのように、思いがけない自身の言葉に戸惑う。


 「……!馬鹿……!バカヤロウ……ッ!」


 そう叫ぶ彼女は、今にも泣き出しそうだ。やめてくれよ、そんな顔をしないでくれよ。


 「ああ、馬鹿なんだよ」


 眉を顰め、くしゃっとした笑顔を浮かべながら、掠れた声でそう言った瞬間、自身の背を推す警官の手に力が入る。相変わらず泣きそうな顔でこちらを見る彼女を尻目に、荒っぽく背を押される形でパトカーに乗り込む。パタンと大きな音を立てて扉が閉まると、周囲を包んでいた騒がしい音が消えた。


 「後悔していますか?」


 運転席に腰掛けている誓が、シートベルトを締めながら問いかける。


 「いいや、それはしない事にしたんだ」


 ブォン、と大きなエンジン音が外の音を完全に掻き消す。彼女の声も、もう聞こえない。窓ガラスの向こう、何かを叫ぶ彼女の姿がどんどん小さくなっていく。


 「ひとつ、疑問だったんです。貴方が村重さんの部屋に行かなければ、あの防犯カメラに映っていなければ、捜査の目はあなたから逸れたかもしれない。それは貴方だって気が付いていたはずです。何故そうしなかったんですか?」

 「村重を殺したとて、あいつの持ってた情報がこの世にある限りは、彼女が安心して暮らせる世界にはならないんだ。奴の持ってる彼女の情報を全て回収したかった。それだけだ」

 「なるほど。聞いても無駄でしょうが、回収したものはどうしたんですか?」

 「燃やしたさ、それだけは得意なんでな」


 桂田は自嘲気味にそう言った。


 「そういえば」


 深く大きなエンジン音の響く車内で、誓は後部座席を振り返らず、ミラー越しに桂田の目を見て問いかける。


 「桂田隆彦はペンネームなんですよね。あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」


 そういえば一度も名乗っていなかったなと、言われてようやく気がついた。「今更かよ」と俺が言うと、誓は「いいじゃないですか」と小さく笑った。


 「火澄かすみ隆一りゅういち。遠い昔、火撫様の側近をやっていた家系の末裔だよ」

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