6 緋色の兄妹

 2LDK、五階建てのマンションの四階、父の反対を押し切って家を出た有羽が転がり込んだ、櫂が学園都市の内部に借りているセーフハウス。良家の人間にしては控えめな佇まいのその部屋で、有羽は一人コンビニのドリアを温めていた。普段は夜ご飯くらいは自分で作るのだが、好きな物を買えという誓の言葉に甘えた形である。

 キッチンの灯りだけをつけた薄暗い部屋の中、キッチンと一体化したカウンターテーブルに腰掛けて熱々のドリアを口に運ぶ。濃いめの味付けのまろやかなホワイトソースと、トマトの酸味が聞いたミートソースが口内で混ざり合う。ジャンキーなご飯もたまに食べると美味しいのだと、コンビニ弁当を食べるたびにそう思っている気がする。

 櫂の帰宅は、有羽が家に着いてからしばらく経った頃だった。普段は朗らかな兄らしくない、険しい顔つきだった。


 「思ったより早かったのね、彼女は?」

 「逃げられたよ。強いな、あの子」


 台所でケトルに水を入れながら問う有羽に、櫂はわざとおどけて笑って見せる。が、その笑顔からはあまり余裕が感じられない。


 「できれば俺たちだけで内密に処理をしたかったが。彼女、大人しくしていてくれるだろうか」

 「家族を探すと言っていたから、その家族次第かしら」

 「まともな家族だと思うか?」

 「まさか、全然」


 ははっと小さく笑い声を上げながら、櫂がカウンター越しの背の高いスツールに腰掛ける。


 「誓から俺たちの目的は聞いたか?」

 「彼女から育った施設の場所と内情を聞き出す、それとできれば彼女自身の保護」

 「その通り。そして、俺たちより先に他の魔捜が見つければゲームオーバー。彼女は殺される」

 「ほんと、子供相手に容赦ないわね」

 「彼女はハーフだ、この目で確認した。半分とはいえ悪魔の血が混ざっている者に、彼らは人権を与えない。現状の魔捜はそういう組織だ」


 カチン、と電気ケトルが音を立てる。湯が沸いた合図である。高級感のあるゴールドの箔押しがあしらわれた深い青色の化粧箱の中からティーバッグを取り出す。真っ白の小さなカップを二つ並べそれを放り込むと、ケトルから沸きたてのお湯を勢いよく注ぐ。


 「今更だけど、一緒で良かったかしら?」

 「今日は何だ?」

 「レディグレイ」

 「いいね、いただくよ」


 櫂の手元にティーカップを差し出す。湧き上がる湯気に顔を近づければ、鼻腔をくすぐるのは苦味の強い檸檬の香り。


 「お前の相棒を使わせてもらうよ」


 ズズと音を立て紅茶を啜りながら、櫂が目線だけを上げてそう言った。


 「別にあたしのものじゃないわ、断るならあたしじゃなくて彼自身に言うべきね」

 「向こうはそうは思ってないみたいでね、お前の許可の出ていない俺の仕事は受けてくれないんだ」

 「兄さんと米汰の区別がついてないだけじゃない?あの子のスタンスは今の魔捜に近いから」

 「俺はあんなに顰めっ面じゃないぞ」

 「彼の目は弱視だからね、見た目じゃなくて魔力の波長で相手を判断してる。実際似てるのよ、兄さんと米汰の波長は。遠目だとあたしでも区別がつかないくらい」

 「その波長云々ってのは俺には理解の及ばない世界なんだがな」


 ティーカップを片手に、有羽が櫂の隣に腰掛ける。


 「今日送ってくれた2人はだと思って良いのかしら?」

 「とりあえずはな。あいつらには悪魔やハーフの身内がいる。今の魔捜の在り方に疑問を持ってる奴らだ」

 「今のところは信用できるってわけね。事情も聞かずに悪魔だってだけで殺して回ってちゃ中世の魔女狩りと変わらないわ。一体父さんは何を考えているんだか」

 「魔捜も人が増えたからな。人が増えるって事は、それだけ思想の数も増えるって事。それをまとめ上げるにはわかりやすい共通の敵が必要だって事だろ」

 「悪魔は全て敵だって?馬鹿馬鹿しい。彼らだって一筋縄じゃない、人と同じように個々の思想を持ってる。そもそも全て悪魔って一括りにするのが間違ってるのよ」


 語調が強くなる有羽をチラリと見やって、櫂が黄金色の水面に目線を落とす。


 「これは例え話だが、有羽」

 「?」

 「お前はセロリが苦手だったな」


 突然の話題の転換に有羽が一瞬フリーズする。


 「え、ええ、苦手だけど」


 状況が飲み込めないらしく、歯切れの悪い返事。パチパチと瞬きを繰り返しながら、有羽は不思議そうに櫂の顔を覗き込む。


 「お前はセロリのどこが苦手だ?」

 「全部よ、鼻に抜ける青臭さも、苦味とも酸味とも言えないあの中途半端な味も、歯に残る筋っぽい食感も」


 有羽はそう言いながらゲェっと不味そうな顔をする。その様子に櫂が小さく笑い声をあげる。


 「ならお前は、セロリにも色々な種類があるから、中にはお前が美味しく食べられるセロリもあるって出されたら食べられるか?」

 「食べられないわよ、セロリなのは変わらないじゃない」

 「そういう事だ」


 いまいち要点が掴みきれずに有羽は怪訝な顔をする。


 「彼らにとっての悪魔は、お前にとってのセロリと同じだ。有志が集った設立当初の魔捜とは違って、今は悪魔を取り締まることを目的に魔捜を目指した人間もいる。十年前、ファウスト家の壊滅で悪魔による犯罪が爆発的に増えたこともあって、身内を悪魔に殺されたことのある人間も多い。そんな奴らに、悪魔にも良い奴がいるから仲良くしろって言ってわかってもらえると思うか?」


 櫂の口調は静かだ。静かで、それでいて諭すように、丁寧に言葉を重ねる。


 「頭ごなしに彼らの考えを否定していては、一向に理解し合えることはない。俺たちは魔捜である以前に警察官だ。人間の機微に敏感でなくてはならない。視野を広く持て、有羽」


 そう続ける櫂の表情は依然穏やかである。だがその瞳には確かに熱があり、真っ直ぐに有羽を見つめる。


 「なるほど、言いたい事はわかったわ。もうちょっと良い例えが無かったのかとは思うけど」

 「うっせ!良い話風に言えばなんとかなると思ったんだ!」


 紅潮する頬を誤魔化すようにティーカップに口をつける。焦って飲み込んだ紅茶は気管へと入り込み、櫂はゴホゴホとむせこんでしまう。その様子に有羽は一瞬驚きつつも軽い調子で笑いながら、ぴょんっとカウンタースツールから飛び降りる。

 カウンターの向かい側、キッチンの背にある大きなガラス張りの食器棚から透明のグラスを取り出し、冷蔵庫の脇に置かれた常温の水を注ぐ。


 「わかりやすかったわよ、セロリ」

 「そりゃあどーも」


 ガラガラの声で咳き込みながら、カウンター越しに渡された水を受け取る。ゆっくりとコップ一杯の水を飲み干す頃には、少し呼吸が楽になっていた。


 「悪魔が好き勝手に悪事を働くのは、抑止力の俺たちの力が弱いから。その点においては、父さんの悪魔は全て敵だと銘打って対抗できる人員を増やす案は悪くはない」


 まだ本調子ではない喉でそう続けると、けほっと軽く咳をする。


 「俺たちが考えるべきはその先だ。まずは魔捜が抑止力として機能するようになること。その後でようやく、人と悪魔の関係性を作る段階に入れる」

 「気の遠くなる話ね」

 「ファウスト家が数百年かけて積み上げたものだ。彼らの遺した土台があるとはいえ、一朝一夕で引き継げるものではないさ」


 そう言って立ち上がり、羽織っていたジャケットをクローゼットに直す。


 「俺たちにできる事は、その過程で散らされる命を一つでも多く護ること。そのために、今は橘杏花を保護してブースターの出所を潰す」


 櫂が前歯を見せて好戦的な笑みを作る。


 「焦るなよ、動くべきタイミングは必ず来る」


 穏やかで、強く意志のこもったまっすぐな声だった。

 


♢♢♢



 ジリジリと虫の鳴く声が響く。時折混じる低周波はカエルの鳴き声だろうか。湿度の高い森の中、隆起した切り株ほどの大きさの岩に腰を落とし、杏花が周囲の音に酔いしれる。

 施設の近くでは当たり前に響いていたはずの音。まだ出てきてそれほど経っていないのに、なぜだかとても懐かしいものに感じる。


 「帰りたいのかな、私」


 一瞬よぎった考えにブンブンと首を振る。そんなはずはない、そんなはずはないのだ。都会の喧騒よりも自然の中にいる方が心が落ち着く、きっとただそれだけなのだ。

 重たい体を引き摺り森の中を歩く。起爆剤ブースター使用の反動。全身の筋肉という筋肉がミシミシと悲鳴を上げる。魔力の増加による全能感は使用者に快感をもたらし、それが過ぎ去った後に全身を襲うのはとてつもない倦怠感。そのサイクルによる依存性の高さが、起爆剤ブースターの認可が未だ降りない理由の一つでもある。


 「とりあえず水……」


 ちょろちょろと音を立てて流れる川のせせらぎで口内を潤す。人の立ち入った気配のない森の中の水は、ほんの少しの濁りすらなくとても綺麗だった。ひんやりと冷たい液体が体内を巡る。喉の渇きが治まり、体の痛みが少しだけましになった気がする。


 「今晩はもう動けないなぁ」


 諦観したように笑みを浮かべてその場に倒れ込む。夜は冷え込むとはいえ、暖かい季節で良かった。一晩くらいなら風邪を引かずに眠れそうだ。


 「トゥウィリ」


 地面に魔法陣が浮かび、瞳が赤く発光する。獣を避けるだけの簡易的な結界。その暖かな光の粒の中で、杏花は気を失うように眠りに落ちた。



♢♢♢



 「順調か?」


 電話口の向こうで、男は神経質そうな声でそう言った。


 「まずまずってところかな」


 当たり障りのない返事をする。正直気は乗らない。それでも、頼まれて引き受けたからにはそれなりにこなさなければならない。それが仕事というもので、大人になるということなのだと、自嘲気味に口角を上げる。


 「若者は危機管理能力が甘くて良い。サンプルも順調に集まっているよ」


 我ながら、心にもないことをペラペラと。嫌な大人になったものだ。外面で内心を覆い隠す、若い頃に大嫌いだった大人の姿そのものである。


 「そうか。……いや、順調なら良いんだ」


 男は含みのある声でそう返す。何か言いたげなその声に、何故だか胸の深いところを重く苦しいものがぐるぐると渦巻く。これは恐らく、嫌悪感。


 「次は東京に手を出そうかと考えていてね。君もそろそろ田舎に居るのも飽きたろうし、今いる場所は引き上げてそっちに向かって欲しいんだ」

 「東京……?そこは魔捜のお膝元だろ、僕たちが好き勝手できる場所じゃない」

 「ところが、僕たちが入り込んでも不自然じゃないスラムのような場所があるんだ。トー横界隈、って名前くらいは聞いたことあるだろう?」


 トー横界隈。何年か前、話題になっていたのをテレビか何かで見たような気がする。しかし、あそこに居るのは十代半ばの子供達だったはずだ。胸に渦巻く嫌悪感が存在感を増し、言葉に詰まる。一瞬、僕が押し黙ったのを男は見逃さなかった。


 「何か問題が?」


 事務的で冷たかった男の声に焦燥が浮かぶ。こういう時、彼が直情的に倫理にもとる行動をしがちなことを、僕はよく知っていた。やばい、と思うと同時に、そんな彼の声色のおかげで少しだけ冷静さを取り戻す。


 「いいや、これは僕の問題だ。君に協力すると言ったのは僕のエゴだ。けど、そのエゴに無関係な子供を巻き込むのは良心が痛む」


 口をついたのは本心だった。そうだ、あくまで気乗りしないのは僕自身の問題だと、言葉を紡ぎながら自分自身に言い聞かせる。


 「心配はいらない。あそこに集まる子供には心配する家族も将来性もない。僕らが手を下さなくてもいずれは自滅する人間達だ」


 僕の心労を一蹴するように、男は得意げに声を弾ませてそう言った。

 小さく息を吐く。やはりこの男とは根本的に価値観が合わない。しかし、自身の良心を犯してでもこの男に協力すると決めたのは他でもない僕自身だ。僕もまた、自身の目的のために罪のない人間を踏み躙る、どうしようもない側の人間なのだと改めて思い知る。


 「そうだ、先日彼女がそっちに向かったんだ。君の仕事の助けになると思うよ」

 

 男の言葉に、心臓が大きく脈打つ。全身から血の気が引き冷たい汗が吹き出す。


 「約束したはずだ、僕が手を貸す代わりに彼女のことは巻き込まないと」


 少し、声が震えていた気がする。全身がまるで自分のものではないかのように、体の感覚も、自身の声ですら、とても遠くのもののように感じる。

 

 「勘違いされては困る、志願したのは彼女の方だ」

 「馬鹿な」


 男の言葉を僕の心が必死に否定する。違う、そんなはずはないと思いながらも、それが絶対だとは言い切れないのは、彼女の擁する危なっかしさを知っているからだろう。

 

 「彼女を買い被っていたのは君だということだろう。この僕に育てられたんだ、彼女はどうしようもなくこちら側だよ」


 いいや、違う。僕の心配はそれじゃない。彼女がただ僕らと同じ側なら、どうしようもない悪ならむしろその方が良かった。僕が恐れているのはその逆。彼女が目的のために、そのをした可能性だ。

 もしそうなら、何を賭してでも彼女を護る。道標ならここにある。誰か一人でも彼のところに辿り着ければ、僕たちの勝利だ。僕も、そろそろ腹を括る時期なのかもしれない。


 「そうか、そうだな」


 本心を隠した上っ面の言葉。覚悟が決まったおかげか、さっきよりもすんなりと言葉が出た。僕の言葉に安堵したのか、男はフッと笑って電話を切る。

 大丈夫、時期が来ただけだ。いつかこうなることを、むしろ待っていたはずなのだ。

 引き出しから紙とペンを取り出す。他の誰よりも幸せを願う、大事な少女への手紙。『この手紙を読んでいるということは』とお決まりの枕詞から書き始める。


 『拝啓、少しだけ未来の君へ』

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