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 そのころ利峰署では、刑事課長の邦子が飯塚英生と対面していた。

「解剖の必要性が出てきた?」

 声を裏返らせる飯塚の前に、邦子は市ノ瀬が持ってきたのと同じ証拠を示した。

「こちら、ご自宅の玄関とリビングで採取された指紋です。旦那様とも奥様とも一致しませんでした」

「だったら家に来た客のものでしょう。近所の主婦仲間と持ち回りでお茶会をしていたようですから」

 見るからに神経質そうな飯塚は、皺ひとつないスーツとシャツ、磨き上げられた靴を身につけ、その靴先で床を叩き続けていた。一定のリズムに耳を傾けているとイライラが増しそうで、邦子は無理やり意識の外に追い出した。

「まだ公にはなっていませんが、管内で起きている誘拐事件の関係先からこれと同じ指紋が検出されました。名前もわからない若い男です。お茶会の場にいたとは考えられません」

「まさか家内が若い男を自宅に連れ込んでいたと? 万一そういったことがあればわたしが気付いたはずです。自慢ではありませんが、日常のごく小さな変化にも敏感な性質なので」

「近所で聞き込みを行なったところ、数日前からブルーのパーカーを着た男が目撃されています。指紋の主と同一人物と思われますがお気付きでしたか?」

 邦子は皮肉っぽい口調で言った。すると飯塚は不満げに腕組みをした。

「知りませんね。その男が家内を死に至らしめた証拠が出たんですか?」

「それはまだです。しかしもしこれが殺人なら、我々は警察官として捜査する義務があります。裁判所はすでに事件性ありと判断し、鑑定処分許可状を発行しました」

「……刑事さん、家内は自宅のキッチンで転び、打ち所が悪く死んでしまったんです。それだけでもショックなのに、その身体にメスを入れて切り刻むなんて遺族感情を逆撫でする行為だと思わないんですか。わたしは賛成できませんね」

 飯塚は今度は右手の指で膝を叩き始めた。同じように妻を亡くしたのでも、飯塚と桜庭は違う。この男は自分の妻がなぜ亡くなったのか、殺人であれば誰に殺されたのか、さほど知りたいとは思っていない。

 それは夫婦関係が冷え切っていたせいなのか、それとも……。邦子は相手に悟られないよう疑念を強めた。


 窓の外は陽が落ちかかっている。デイサービスセンターの相談室から県警の取調室に場所を移し、入江尚志の聴取が続けられていた。

「正直にお答えください。御手洗智代さんとはいつからの知り合いですか?」

 速水が尋ねると、入江はおずおずと顔を上げた。

「知り合いも何も昨日会ったばかりです。昨日は振休で一日休みだったので、買い物の帰りに駅前の広場に寄りました。ベンチに座って休憩していたら、スーツケースを持った母娘に出会ったんです」

 入江は憔悴しきった口調でそのときのことを話した。

 十二月十四日の昼前、食料品など最低限の買い物を済ませた入江は、駅前のベンチに座って昼食をとった。コンビニで買ったおにぎりとパックのジュースという簡素なものである。

 駅前の広場には子ども向けの遊具がある。今も数組の家族連れが遊んでおり、入江はその様子をぼうっと眺めた。

 十四年前まで自分にも家族があった。けっして裕福ではないが、優しい妻と二人の娘に恵まれた。休日はよく娘たちを連れて公園に遊びにいっていた。

 ここに長くいると昔の記憶が蘇ってつらくなる。入江はパックのジュースを飲み干し、ゴミをまとめて袋に入れた。帰ろうとしてエコバックに手をかけたとき、ベンチのそばを一組の母娘が通り過ぎた。

「お母さん、大丈夫? ちょっと休もうよ」

 髪をおさげに結い、白いダウンコートを着た娘はしきりに母を気遣っている。母親のほうは大きなスーツケースを引き、生活にくたびれたような様子で背中を丸めていた。

「よかったらどうぞ。もう帰るところですので」

 入江は立ち上がり、母娘にベンチを譲った。

「ありがとうございます」

 女性は頭を下げ、娘と一緒にベンチに腰かけた。手にしているバッグやスーツケースは入江にもわかる有名なブランドで、コートや靴もおそらく高級品だろう。年齢は四十そこそこだがどう見ても庶民の出ではない。

 傍らにいる娘は小学生になるかならないかで、先ほどから心配そうに母親の様子を見ている。おしゃれな格好をしているが、年齢相応の無邪気さは見られない。大人びた態度を強制された子どもというのが第一印象だった。

「すみません。ここからセントラルホテルまではどう行けばいいでしょうか」

 ベンチに座った母親のほうが尋ねてきた。この二人には似つかわしくないビジネスホテルの名前を聞き、入江は拍子抜けした。

「この広場を抜けて路地を入ったところにあります。少し道が入り組んでいるので、スマホの地図で確認しながら行くといいですよ」

「事情があって電源を切っているんです。チェックインまで時間がありますのでゆっくり歩いていくことにします」

「いいですね。母娘水入らずでご旅行ですか?」

 入江が軽い調子で問うと、女性の表情にふっと影が落ちた。

「いえ……。実は夫に黙って家を出てきたんです」

「え?」

 驚く入江に、女性は視線を合わさず続けた。

「わたしの夫はいつも仕事で愛想のいい顔をしなければならなくて、ストレスを発散できる場所は家しかないんです。もとはといえばわたしの要領が悪く、気が利かないのが原因なんですけど……」

 すると隣に座っていた娘が口を開いた。

「悪いのはお父さんだよ。毎日お母さんにひどいことを言ったり、怪我させたりするの。唯花も物置に閉じ込められたことがあって……。でも、おじいちゃんもそうだったから誰も助けてくれないの」

「やめなさい。お父さんとおじいちゃんのことを悪く言っては駄目よ」

「だって本当のことだもん」

 娘はぷっと頬を膨らませて入江の顔を見た。訴えかけるような眼差しを受け、自分にできることがあれば何とかしてやりたいと思った。

「どこかに相談できないんですか? 家族への暴力は犯罪ですよ」

「わかっています。わたしはともかくこの子が犠牲になることは耐えられません。誰かに助けを求められたらいいのですが、それもできない環境にあるんです」

「失礼ですが、旦那さんはどのようなお仕事を?」

「それは……」

 見ず知らずの男に明かすことはためらわれたのか、女性は言い淀んだ。

「いいですよ、言わなくても。家庭の事情に他人が口を出す権利はありません」

 入江は女性のためらいに理解を示し、閑散とした駅前の広場を見渡した。

「明日からクリスマスまでの十日間、ここの駅前がライトアップされるんです。ラ・クロワっていうイベントなんですけど、あれは一見の価値ありですよ」

「そういえば構内にポスターが貼ってありました。唯花と見たいねって言っていたのよね」

 母親が言葉を投げかけると、娘は「うん」と頷いた。その様子を見て、入江はかつて地元であったイルミネーションのイベントを思い出した。人ごみを歩くのに苦労したが、家族四人で楽しい時間を過ごしたものだった。

「それと明日は地元の公園でまほろばフェスタという福祉イベントがあります。地域の福祉施設が店を出してアクセサリーや食べ物を売るんです。少しは気晴らしになるかもしれません。わたしも仕事で行くことになっているのでよかったらどうぞ」

 入江は簡単な挨拶を交わして母娘と別れた。このときは互いの苗字さえ明かさなかった。明日のまほろばフェスタに来るかどうかもわからなかった。

 翌日の午前九時半、入江は公園に近い歩道で高齢者を送迎車から降ろしていた。ふと目を上げると、昨日の母娘が並んで歩いてくるのが見えた。

「おはようございます。気持ちよく晴れましたね」

 女性は微笑んで挨拶をした。今日はスーツケースを持っておらず、少し疲れが取れたように見える。

「おはようございます。今日は楽しんでいってください。あ、申し遅れましたが、入江といいます」

 入江は自分のネックストラップを二人に見せた。

「御手洗智代です。こちらは娘の……」

「御手洗唯花です。よろしくお願いします」

 唯花は両手を重ねて丁寧なお辞儀をした。入江も笑ってお辞儀を返し、「これから仕事なので」と別れた。

「……それから事件が起こるまで、わたしは高齢者の方々と一緒にいました。智代さんが後ろからぶつかってきて、娘がいなくなったと言うまで何も気付きませんでした」

 そのときのことを思い出したのか、入江の顔が苦痛に歪んだ。唯花が手を振ってくれたとき、そばに呼んでやれば連れ去られることもなかった。そう考えているのかもしれない。

「わたしが知っていることはこれですべてです。智代さんと唯花ちゃんのこと、それから美雪のことを黙っていて申し訳ありませんでした。早く唯花ちゃんと美雪を見つけてください。お願いします」

 刑事二人を交互に見つめ、入江は深々と頭を下げた。

「もう少し早く真実を明かしてくれていたらとは思いますがね。こちらの映像を見てください」

 速水はパソコンを取り出し、まほろば公園に設置された防犯カメラの映像を流した。入江は食い入るように画面を見つめ、途中で驚きの声を上げた。

「どういうことですか。美雪はこの男から唯花ちゃんを引き離したように見えます」

「今のお話を聞いてもしやと思いました。誘拐事件の直後、御手洗智代さんは警察に通報することを躊躇したとおっしゃっていましたね。なぜそんなことを言ったのか、あなたには見当がついたんじゃないですか?」

「……ええ。智代さんは夫に居場所を知られることを恐れていました。唯花ちゃんの命には代えられないからと説得すると、ようやく受け入れてくださったんです」

「やはりそうでしたか。ちなみに先ほど入った情報ですが、智代さんが捜査本部から姿を消しました。夫の御手洗誠さんが到着する寸前のことです」

 初耳の情報を聞かされ、入江は仰天したようだった。

「いなくなった? ど、どうして?」

「智代さんが日常的に暴力を受けていたとすれば、加害者である夫との再会は何よりも恐ろしいはずです。娘ともども制裁を加えられるかもしれない。そう考えても不思議はありません」

「だとすれば……。智代さんは唯花ちゃんのところに?」

 入江はハッと思い当たり、慌てて腕時計を見た。午後五時過ぎを指している。

「ええ。それとスマートフォンが気になります。芝さん、ここをお願いしてもいいですか」

 同席する芝にあとを任せ、速水は取調室を飛び出した。

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