21
今年のラ・クロワのライトアップは十二月十五日、午後五時から始まる。定刻どおり駅前の広場がクリスマスイルミネーションに彩られると、集まった群衆から歓声が上がった。
「いよいよ始まりました、ラ・クロワ! 日曜日の夕方ということで、大勢の家族連れやカップルで賑わっています」
テレビ番組の中継だろう、舌っ足らずな女子アナがカメラに向かって喋っている。ミユキは画面に映るのを避け、唯花の手を引いて背を向けた。
「お母さんにも早く見せたいな。どこかで迷子になっていたらどうしよう」
人の流れに沿って歩きながら、唯花が無邪気に母親の心配をした。
「唯花ちゃん、もしかしたらお母さんはここに来られないかもしれない。でも、そのときはわたしがお母さんのところに連れていくから」
「うん。あの変な男の人、もういないよね? 怖かった……」
まほろば公園での出来事を思い出したのか、唯花はふっと表情に影を落とした。見ず知らずの男に危害を加えられそうになったことはこの子の心の傷になりつつある。そう考えると沸々と怒りが込み上げた。
唯花はミユキを警戒するどころか、顔見知りの親戚のように信頼してくれている。この子のためにも安全な場所に身を隠さなければ。それは母親がいる場所かもしれないし、そうでないかもしれない。
考え事をしながら歩くミユキの脳裏に、我が家と呼べる唯一の場所が浮かんだ。本当は帰りたくてたまらない。だが自分がやっていることはれっきとした犯罪で、誰かを頼ればその人に迷惑がかかってしまう。
「ふー……」
「どうしたの? お姉ちゃんも誰かを待っているの?」
うっかり漏らしたため息を唯花に聞かれ、顔を覗き込まれた。ミユキはドキッとし、慌てて取り繕った。
「そんなわけないじゃない。あっ、あそこのライトアップきれいだよ。もっと近くで見よう」
ミユキは唯花を連れてひときわ豪勢に飾り立てられた建物に近付いた。そこは地元でも有名なケーキ屋で、クリスマス仕様の今はチャペルと見まがうばかりだった。
そのとき並んで立つ二人の背後に誰かが立った。そしてミユキにだけ聞こえるよう、低い声で言った。
「振り返るな。怪我をしたくなければその子の手を離せ」
その声の主はミユキの背中に硬い刃の先端を押し当てた。コートを着ていてもはっきりとわかるナイフの切っ先だった。
最初は警察かと思ったが、すぐに違うと打ち消した。警察なら二人を連行することはあってもナイフで脅したりはしない。ミユキは前を向いたまま、ケーキ屋のイルミネーションに見惚れるふりをした。
「おとなしく従え。その子を傷付けたくないだろう」
「あんた……。公園でこの子を連れ去ろうとした人ね」
「知る必要はない」
「脅しても無駄だよ。女の子に危害を加えるような人の言うことなんか聞かない。みんなの前で大声で騒いでやる」
ミユキは目だけ動かして男の姿を捉えようとしたが、黒いコートを着ていること、黒い靴を履いていることしかわからなかった。
「自分の立場がわかっていないようだな。警察はおまえを誘拐犯として追っている。通報されて一番困るのは誰だ? 騒ぎになればおまえの名前や顔があちこちに晒されるぞ」
「……」
「今すぐ引き渡せば通報はしない。その子には帰りを待つ親がいる。早く元気な顔を見せて安心させてやれ」
「親って誰のこと? この子と母親に暴力を振るう最低野郎のことでしょう」
道すがら唯花に話を聞いたミユキは激しく憤った。御手洗誠は表向きは家庭的な夫であり父親だが、家では妻や娘に暴言を浴びせ、時には手が出ることもある。唯花の母はそんな夫から逃げるために娘を連れて電車に乗ったのだという。
やむを得ない状況だったとはいえ、母娘を引き離してしまったのは自分だ。唯花は駅のポスターでラ・クロワのイベントを知り、一緒に見ようと母と約束していたらしい。警察に行くことも考えたが、二人の居場所が父親に知られる気がしてためらった。他に頼れる人もなく、気付けば駅前の広場に足が向いていた。
「生みの親より会ったばかりのおまえのほうがいいと本気でそう思っているのか? どんなに優しく接しようと所詮は他人だ。実の家族のような絆を結べるはずがない」
嘲笑うような男の言葉に、ミユキは即座に「違う」と言った。思いのほか大きな声だったため、唯花がこちらを振り向いた。
「あんたはそうかもしれないけどわたしは違う。あの人はわたしのような社会のはみ出し者を本当の家族のように扱ってくれた。この子の父親と一緒にしないで」
「お姉ちゃん……」
「わたしはこの子をお母さんのもとに返すの。警察でも何でも連れてくればいい」
ミユキは唯花を守るように肩を抱き、身体ごと振り返った。そこにいたのは身なりのきちんとした男で、ナイフを持ってさえいなければ銀行員か何かのように見える。暴力団員のような男を想像していたミユキは少々面食らった。
相手もミユキが抵抗するとは思っていなかったのだろう。男が怯んだ隙をつき、ミユキは唯花の手を引っ張って歩き出した。あの男もこれだけの人がいる前で強引なことはできないはずだ。
「お姉ちゃん、わたし……」
「ごめんね、唯花ちゃん。もう少しだけわたしに付き合って」
「あのね、わたし……。さっきの人のこと、知っているかもしれない」
「え?」
ミユキが唯花を振り返ったとき、ちょうど人ごみを抜けた。他の客の視線はイルミネーションに釘付けで二人には注意を払っていない。足を速めようとしたそのとき、誰かが後ろからミユキの腕を掴んだ。
ハッとして振り向くと、そこには見慣れない背の高い男が立っていた。
「入江美雪さんですね? 警察です」
「……」
警察手帳を見せられたミユキはここまでだと悟った。相手の肩越しに見ると、さっきの男が二人組の刑事に連行されるところだった。
「間に合ってよかった。怪我はありませんか?」
「それ、誘拐犯にかける言葉じゃないですよね。逮捕するならしてください。自分が何をしたかちゃんとわかっています」
ミユキは投げやりに言って唯花の手を離した。幼いなりに状況を理解したのか、唯花は不安げに辺りを見回している。
「あなたが冷静に行動してくれたおかげで、相手に悟られず近付く時間が得られました。そうでなければ迅速に逮捕することはできなかったでしょう」
刑事が慰めるように言ったとき、唯花の顔がパッと明るくなった。「唯花!」と泣きそうな声がして、別の刑事に付き添われた母親がやってくる。
「お母さん!」
「唯花……!」
クリスマスの電飾に彩られた木の下で、母娘はしっかりと抱き合った。居ても立ってもいられなくなったミユキは二人の前に進み出た。
「御手洗さん。まほろば公園で唯花ちゃんを連れ去ったのはわたしです。間違ったことをしたと思っています。怖い目に遭わせてごめんなさい」
自分がしたことは何度謝罪しても償いきれない。きつく目を閉じるミユキの肩に、そっと手が置かれた。
「いいえ。本当の悪人が誰なのかわたしにはわかっています。唯花を守ってくださってありがとうございました」
唯花の母親、智代は決然とそう言った。ミユキは何のことかわからなかったが、唯花が笑顔で「ありがとう」と言ってくれたのを聞き、涙が出そうになった。
近くではさっきの刑事がどこかに電話をかけていた。
「速水です。三人は無事保護しました。それともうひとつご報告があります」
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