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 当の県警本部では捜査がこじれてこそいなかったが、事件解決には程遠かった。人の出入りが忙しない会議室の後ろに集まり、伊達が調達してきた弁当を食べているのである。

 もちろんただの昼食会ではなく、食べながら知り得た情報を共有し合った。

「十三時三十分から二度目の捜査会議だ」

 そう告げにきた辰巳も腹が減っていたのか、弁当を受け取って同席していた。蔵吉刑事部長、渡捜査一課長、辰巳捜査一課課長補佐は、ここより一階上の『まほろば公園誘拐事件特別捜査本部』と銘打たれた会議室に留まっている。

「それじゃまずは佐久間と速水。目撃者の証言から何か掴めたか?」

 箸でエビフライをつまんだ辰巳に促され、佐久間は手帳を繰った。

「気になる証言が得られたので、通報者であるデイサービスの職員に聞き込みに行ってきました。名前は入江いりえ尚志ひさし、四十六歳。デイサービスセンターうぐいすの郷に介護職員として勤務。イベントには外出レクのスタッフとして参加していました」

「で、その気になる証言というのは?」

「目撃者の大泉さんの話によると、誘拐された被害者の母親は通報を渋っていたようです。それを説得し、自ら警察に通報したのが入江尚志です。娘を誘拐されたというのに、なぜ母親が通報をためらったのか非常に気になりました」

 言葉を切った佐久間に代わり、速水があとを引き取った。

「母親本人に話を聞こうにも、親族の聴取は特殊班の担当です。他に手がかりらしい手がかりもなく、通報者が何か目撃しているかもしれない可能性に賭け、佐久間と二人でデイサービス巡りをしてきました」

 イベントが行なわれた公園の周辺を調べたところ、該当する施設は五つあった。その中で今日の外出レクの有無を確認すると、条件に当てはまったのがうぐいすの郷だった。速水と佐久間は受付で身分を明かし、付き添っていたスタッフを呼び出してもらった。

「手短にお願いできますか。見てのとおりギリギリの人数でやっているんです。高齢者の食事は特に気を付けて見ていないと、誤嚥など命の危険があるんです」

 相談室と呼ばれる部屋で刑事と向かい合い、入江は落ち着かなげに身じろぎをした。小太りで気の弱そうな顔立ちをしていて、話す言葉に微かに訛りがあった。

 ここの職員は全員が揃いのジャージ姿で、それぞれネックストラップを下げている。ちょうど昼食時の忙しい時間帯らしく、この男に限らず皆がピリピリしていた。

「では単刀直入にお聞きします。入江さんはまほろば公園の福祉イベントに参加され、そこで誘拐事件に遭遇されましたね」

 速水が本当に単刀直入に訊くと、入江はちょっと意表を突かれた様子だった。

「そのことでいらっしゃったんですか。ええ、わたしもあの場にいました」

「そのときのことを詳しくお話しいただけますか?」

「わたしはご利用者様と一緒に広場にいました。テーブルや椅子が置かれた休憩所のようなところです。どの店から回ろうか話し合っていると、後ろから女の人がぶつかってきたんです。必死の形相をして謝りもせず走っていきました」

「誘拐された子の母親ですね」

 速水が手帳にメモしようとすると、入江がそれを否定した。

「違います。そのあとを追うようにお母さんが走ってきたんです」

「え? だったらその女性は誰なんです?」

「さぁ、わたしは存じませんが……」

 首を捻る入江の前で、速水は佐久間と目を見交わした。佐久間は無言で懐から例の似顔絵を取り出し、机の上に広げて置いた。

「もしかしてこの女性では?」

 入江は似顔絵にしげしげと見入った。相談室の外からは食器が触れ合う音や人声がひっきりなしに聞こえてくる。しばしの沈黙のあと入江は首を横に振った。

「咄嗟のことだったのでよく憶えていません。この人が事件に関係しているんですか」

「現場で女の子の手を引く姿が目撃されています。入江さんにぶつかってきた女性はどうでしたか?」

「誰も連れていませんでしたよ。女の子の手を引いていればわかります。そのあとお母さんに尋ねられたときにそう言っているはずですから」

 もっともなことを言われ、佐久間は黙り込んだ。すかさず速水がバトンタッチする。

「確かにそうですね。後ろから追ってきたお母さんとはどんな会話をしたんですか?」

「娘の姿が見当たらず、こっちに来ていないかと尋ねられました。来ていないと言うと、娘が連れていかれたかもしれない、と真っ青な顔色で言われました。誘拐なら警察に通報しなければと思ったのですが、お母さんはそれだけはやめてくれと言い続けていました。説得するのに苦労しましたよ」

 と、そこまで言ったとき部屋の外から食器をひっくり返す音が聞こえた。入江は反射的に立ち上がり、二人の刑事に目をやった。

「あのぅ、差し支えなければもう行っていいでしょうか」

「お時間をいただきましてありがとうございました。必要に応じてまた話をお聞きすることがあるかもしれません」

「そのときはわたしに直接連絡してください。職場に迷惑をかけたくないので」

 入江はメモに電話番号を走り書きし、机に置いて部屋を出ていった。ドアの向こうからは相変わらず職員がバタバタと動き回る音が聞こえていた。

「――娘が連れていかれたと言っておきながら、警察への通報は乗り気でなかった。言動に一貫性のない母親だな」

 報告を聞いた辰巳は思案げに顎を撫でた。同様の思いを抱いた速水と佐久間も大きく頷いた。取り乱していたとはいえ、いや取り乱していたからこそ、御手洗智代の言動は筋が通らない。犯人に口止めされていたならともかく、そうでなければまず警察に助けを求めるのが一般的な考え方であろう。

「予告でもあったんですかね? 今日のイベントで都議会議員の娘を誘拐する、警察に通報したら娘の命はないって」

 亜須香が思いつきを語ったが、辰巳は即座に首を横に振った。

「だが、いまだに身代金要求の電話はかかってきていない。それに予告があったのならそもそもイベントに参加しないだろう」

「うーん、確かにそうですね。事前に警告を受けていたのなら、なおさら参加しないって選択肢を選ぶはずですよね。参加することが義務だったとは思えないし」

 ぽつんとこぼした亜須香の呟きに反応し、速水がふと疑問を呈した。

「父親の御手洗議員のところにも刑事が張り込んでいるんですよね。そちらにも電話が来ていないということは、これは一体何のための誘拐なんでしょう」

「金銭目的でないなら怨恨か、あるいは猥褻目的か。父親としても心配らしくてな、こっちに来たいとわがままを……いや要望を口にしている。気持ちはわからないでもないが、移動中に何かあったらと思うと了承できない」

 捜査本部としては納得できかねるということらしいが、家族がいる速水には父親の思いが理解できた。たとえどんなに遠い土地だろうと、我が子のために駆けつけたいと願うのが親心というものだろう。しかし……。

「本当に娘のことを思うなら目立つ行動は控えるべきでしょう。家族が誘拐事件に巻き込まれたなんて世間に知られたら、好感度第一の政治家にとってマイナスでしかない。たとえ後ろ暗いことがなかったとしても、何か恨みを買っていたんじゃないかと噂になる。東京にいたほうが遥かに安全だと思います」

 速水が自分の考えを口にすると、辰巳は箸で会議室の天井を指さした。

「本庁や刑事部長が気にしているのはもっと上、被害者の祖父にあたる御手洗重昭氏の顔色だ。御手洗議員はもともと重昭氏の秘書で、娘の智代と結婚して地盤を継いだ。ゆくゆくは義父と同じ衆議院議員となる人物ってことで、警察のお偉い方も相当気を遣っているらしい」

「つまり御手洗議員の要望を突っぱねることはできないということですか」

「そういうことだ。マスコミの報道協定が結ばれているとはいえ、誘拐事件のことはいずれ明るみに出る。娘さえ無事に戻ってくれば、正義の政治家として犯罪撲滅を訴えるとか、家族思いの父親として涙ながらに娘を抱きしめるとか、いくらでも美談に代えられる。うまく話を取り繕うためにできるだけ捜査本部の近くにいたいんだろうさ」

 ガツガツと弁当を平らげる辰巳を、速水は奇異なものを見るように眺めた。今でこそ線の細い狐のような見た目だが、現場の刑事だったころは闘犬のように走り回っていたのかもしれない。

「話が脱線したな。次、伊達と桧野のところはどうだった? まさか弁当を経費で落としただけで終わっていないだろうな」

 机に置いた領収書を指先で叩き、辰巳は少々怖い声を出した。

「そんなことはありません。わたしたち、誘拐犯と思われる女性の身元を調べてきました」

 亜須香がむきになって言うと、隣で伊達も頷いた。

「視覚障害の男性が一緒にいたという証言をもとに、その場にいたイベントの出店者に片っ端から尋ねてみました。すると、ハンドメイドの雑貨を売っていた支援施設と、お菓子を売っていたNPOのスタッフが憶えていました。知り合いの法人が経営するカフェにたまに顔を出す人ではないかと」

「それは一緒にいた男の情報だろう。似顔絵の女性は……」

「まだ続きがあります。その男性はカフェを訪れるとき、いつも誰かしら若者が付き添っていたそうです。日によって男性だったり女性だったり、似顔絵の女性が一緒にいることもあったとお聞きしました」

「だったらそこから身元が割れるかもしれない。それにしても、男女構わず若者を同行させているその男は何者だ? そういう趣味のある成金か?」

 若者を金で釣ってそばに侍らせる、悪趣味な男の姿でも脳裏に浮かんだのだろうか。辰巳は嫌悪感たっぷりに顔をしかめた。

「そう単純なことではないかもしれません。カフェに雇われている店員のひとりがその家に居候しているそうです。彼の話によるとその家は居場所のない若者が寝泊まりし、家事は分担して行なうという、いわば下宿のようなものであるようです」

「ふぅん。つまり例の女性もそういった若者のひとり……。居場所がない若者など、今の時代ごまんといそうだな」

「同感です。カフェの経営者の連絡先を教えてもらえたので、そこに連絡して店員の住所をお聞きしました。そのあと桧野さんと一緒に家まで行ってきました」

 伊達の視線を浴び、亜須香は口の中に残ったご飯を丸呑みしかかった。慌ててお茶を飲んでやり過ごすと、「行ってきました」と言葉を繰り返した。

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